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名士列伝:バハーウッディーン・イブン=シャッダード

『名士列伝』英訳4巻PP.417-435
The kadi Baha ad-Din Ibn Shaddad
「カーディー・バハーウッディーン・イブン=シャッダード」

角括弧内は原注、丸括弧内は管理人の注
改行は管理人が適宜行った
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 

 アブー=アル=マハースィン・ユースフ・イブン=ラーフィー・イブン=タミーム・イブン=オトバ・イブン=ムハンマド・イブン=アッターブ・アル=アサディーは、バハーウッディーン[信仰の輝き]と呼ばれており、シャーフィイー派の法学者で、アレッポのカーディーだった。
 幼い頃、彼は父を亡くし、母方のおじのバヌー=シャッダード家で育てられた。この「シャッダード」は彼の母の祖父の名である。彼は最初のアブー=アル=イッズというクンヤが気に入らず、後にそれを上記の通りアブー=アル=マハースィンと変更した。
 彼は539年のラマダーン月10日[1145年3月5日]にモスルで生まれ、そこで高貴なるコーランを暗唱して学んだ。
 既述のコルドバのシャイフ、アブー=バクル・ヤフヤー・イブン=サアドゥーン[vol.4-p.57]がモスルへ来た時、アブー=アル=マハースィンは彼の講義に熱意をもって出席し、彼の指導のもと、コーランを七通りの読み方で誦唱し、その様々な読み方によって彼の深い知遇を得た。彼自身が、その著作の中で以下のように言っている。
「最初に私が教えを受けたのは、ハーフィズの、サイヌッディーン・アブー=バクル・ヤフヤー・イブン=サアドゥーン・イブン=タンマーム・イブン=ムハンマド・アル=アズディー・アル=コルトゥビー―神よ彼の上に慈悲を垂れ給え―で、七年間、私は彼にコーランの誦唱を絶え間なく習った。彼が授業のために使っており、コーラン誦唱の違った読み方を扱っている著作で彼自身の注釈と解説が付されている著作の大部分も、私は読み終えた。
 そうして彼は私に彼自身筆を執り、誰も私以上に彼の下で学んだ学者はいなかった、という修了証書を私に書いてくれた。私はまた、私が彼の下で何を学び、彼が口頭で何を教え、また私が彼の権威のもとで教えてもよいことが書かれた彼の手書きの2帖[40頁]を持っている。
 このリストで言及された著作の中にはアル=ブハーリーとムスリムのそれもあり、それらが彼の元に来るまでの異なった経路も書かれている。その他、言及されたものの中で多いのはハディースと文法学の著作である。彼が私に最後に教授してくれた専門書はアブー=ウバイド・アル=カースィム・イブン=サッラーム[vol.2-p.486]の『ガリーブ』につけた彼自身の注釈だった。私は彼の指導の元で、何度もそれを読み、終わったのは567年シャアバーン月の下旬[1172年4月]のことだった」
 ここで、この年にコルドバのシャイフ[イブン・サアドゥーン]が亡くなったということを述べておこう。
「私の他の師には」
 と、彼は続けている。
「アル=シーザジとしてよく知られているアブー=アル=バラカート・アブドゥッラー・イブン=アル=ヒドル・イブン=アル=フサインがいた。私は彼からアル=タラビー[vol.1-p60]の[コーランの]注釈について教わり、彼が口頭で様々な著作について教えたことを、彼の権威のもとで教えてもよいとする証書を貰った。彼が書いてくれた修了証明は―その中には私が彼から教わった教科書の一覧が彼によって記されているのだが―その日付が566年のジュマーダー1月5日[1171年1月14日]となっていた。この師は彼のハディース学と法学に関する学識で特筆されている。彼はバスラでカーディーとして働き、旧アタベキーヤ学院で教えていた」
 筆者は、モスルのアタベキーヤ学院のことを言っている。
「またもう一人の私の師はシャイフ、マジドゥッディーン・アブー=アル=ファドル・アブドゥッラー・イブン=アフマド・イブン=アブドゥルカーヒル・アル=トゥースィーで、モスルの大モスクの説教師であった。彼はハディース学者としてとても有名で、彼の講義を聞くためにはるばる遠国から人々がやってくるほどであった。彼は90歳まで生きた」
 アブー=アル=ファドル・イブン=アル=トゥスィーは487年のサッファール月15日[1094年3月5日]にバグダードのアル=マラーティブ門街区に生まれ、578年ラマダーン月14日[1183年1月11日]火曜日の夜に亡くなったということを付け加えておこう。彼はアル=マイダーン門に隣接した共同墓地に葬られた。アブー=アル=マハースィンの話に戻り、これで終わることにしよう。
「私は彼から」
 これは先程の説教師のことである。
「彼が師らから学んだことを教わり、558年ラジャブ月26日[1163年6月10日]に、私は修了証書を受け取った。
 他の師にはカーディーのファクルッディーン・アブー=アル=リダー・サイード・イブン=アブドゥッラー・アル=シャフラズーリーがいる。私は彼からシャーフィー[vol.2-p.569]、アブ=アワーナ[vol.4-p28]、アブー=ヤラー・アル=マウスィリー[vol.1-p.212]のムスナド、アブー=ダーウード[vol.1-p.589]のスナンを教わった。私は股、彼からアブー=イーサー・アル=ティルミズィーのジャーミ[vol.2-p.679]を教わり、修了証書を得た。この書類は彼が書き、567年のシャッワール月[1172年5-6月]の日付となっている。
 また、ハーフィズの、マジドゥッディーン・アブー=ムハンマド・アブドゥッラー・イブン=ムハンマド・イブン=アリー・アル=アシーリー・アル=サンハージーからも学んだ。彼はその膨大な種類の対象にもかかわらず、記憶から文章を引き出して教え、私に修了証書をくれた。私は一覧の中にこの有効性が与えられた日付を559年のラマダーン月[1164年7-8月]であると確認した。彼の一覧は私の一覧にそっくり写された」
 私はここで、アブー=ムハンマド・アブドゥッラー・アル=アシーリーが561年のシャッワール月にシリアで死去し、バールベクの北側にあるエメッサ門の外側に埋葬されたことを付け加えなければならない。
「他にも、ハーフィズのシラージュッディーン・アブー=バクル・ムハンマド・イブン=アリー・アル=ジャイヤーニーがいる。私はモスルで彼からムスリムの『サヒーフ』を最初から最後まで教わり、アル=ワーヒディー[vol.2-p.246]の『ワーシト』も教わった。彼は私に教授資格を授与し、その日付は559年[1163-4年]となっている。
 これらが、私の一覧にある師の名前である。他にも私が教わった人がいるが、誰についての講義を彼らから受けたか思い出すことが出来ないのだ。彼らの名は、バグダードで教わったシュフダ・タル=カーテイバ[vol.1-p.265]、アル=ハルビーヤのアブー=アル=ムギース、ニザーミーヤ学院の教授であったリダーウッディーン・アル=カズウィーニー、そしてほかにも私の記憶から抜けていった人たちがいる。
 私は彼らの名前を載せる必要はないとも思う。私が既に記した人たちで十分だろうからだ。」
 これで、アブー=アル=マハースィンの個人的な既述は終わりである。他の記事によれば、彼はモスルの主席法官のアブー=アル=バラカート・アブドゥッラー・イブン=アル=シーラージーのもとで、彼が書いたものと同じことを学んだという。彼は学識、克己心、節制で知られていた。彼はモスルで574年のジュマーダー1月[1178年8-9月]にモスルで死去し、街の外側に埋葬された。
 彼は次に、殉教者ムハンマド・イブン=ヤフヤー・アル=ニーシャープリーの弟子であるディヤーウッディーン・イブン・アビー=ハーズィミーの下で法学の論点を学んだ。さらに議論の技巧をファクルッディーン・アル=ナウカーニー、アル=バッルウィー、イマードゥッディーン・アル=ナウカーニー、サイフッディーン・アル=フワーリー、そしてイマードゥッディーン・アル=マヤーンジーといった有能な師のもとで学んだ。
 彼はバグダードへ向かい、ニザーミーヤ学院に寄宿した時には高い熟達を得ており、すぐに彼は助教授として働くことになった。彼は、アブー=ナスル・アフマド・イブン=アブドゥッラー・イブン=ムハンマド・アル=シャーシーが教授職にあった四年間、その仕事に就いていた。566年のラビー2月[1170-1年12-1月]にアル=シャーシーはニザーミーヤ学院の学長に任じられ、569年のラジャブ月末[1174年2-3月]に、彼は職を辞した。彼の後任にはリダーウッディーン・アブー=アル=ハイル・アフマド・アル=カズウィーニーが就任した。
 アブー=アル=ムハースィンは助教授として働き続け、その職場で、彼は同僚にアル=サディード・アル=サラマースィー[vol.2-p.643]を得た。彼は同じ年にモスルへ出て、カーディーのカマールッディーン・アブー=アル=ファドル・ムハンマド・イブン=アル=シャフラズーリー[vol.2-p.646]によって建てられた大学で教授職を得た。
 彼はそこでその熟練した仕事を続け、多くの学生が彼の講義から役立つ知見を得た。
 彼が最初に著した書物は、判例についてのもので、『マルジャー・アル=フッカーム・ワ・イルティバース・アル=アフカーム』[『限界事例における判断の源泉』]と名付けられている。彼は、583年[1188年]に巡礼を行ったと述べており、その義務を果たした後に、[メディナの]預言者[の廟]を訪れ、また信仰心から、バイト・アル=ムカッダス[聖なる館:イェルサレムのことである]と、[イブラヒム・]アル=ハリール[神の友][ヘブロンにイブラヒム=アブラハムの廟がある]を訪れた。
 その後、サラーフッディーンがカラート・カウカブを包囲している間にダマスカスを訪れた。その王侯(サラーフッディーン)から呼び出されたので、彼(サラーフッディーン)は彼(バハーウッディーン)の到着を知らされていたのだが、彼は彼がアミールのシャムスッディーン・イブン=アル=ムカッダムの死に面した時の状況について問いたいであろうと考えた。
 その年にサラーフッディーンの名の下に派遣された巡礼団の指揮官は、説明するには長い既述を要するのだが、アラファート山の乱闘で殺された。ただ、ここはその詳細について述べる場ではない[イブン・アル=ムカッダムとイラクから来た巡礼団の長であったムジールッディーン・ターシュテギンとの間で優先権の議論が起きた。シリアの巡礼団がイラクからの巡礼団に攻撃されたことによって乱闘が起き、イブン=アル=ムカッダムはこの小競り合いで落命した]。
 彼がスルタンの前に到着したところ、彼は最高の礼を以って迎え、彼の旅と、彼が出会った学識者、善行者以外については何も尋ねなかった。
 スルタンは、彼に彼の選別によるハディースを読みたいと頼み、彼はアル=ブハーリーの『アズカール』[または『敬虔なる祈り』]から選別したものを小さくまとめ、この本がこの君主によって誦唱されることになった。
 アブー=アル=マハースィンが御前を辞したところ、書記のイマードゥッディーン・アル=イスファハーニー[vol.3-p.300]が彼を捕まえて言うことには、「スルタンからの言伝だ。もし君が巡礼行を果たした後[彼は既にメッカへ巡礼しているので、おそらくシリアのいずこかの聖地を訪れて巡礼行の完了とするつもりだったのだろう]にここへ戻ってくる気があるのなら、君は彼に[到着を]報せなければならない。何か大事な話があるようだ」。
 彼が戻ってきて、スルタンに到着を報せたところ、彼と面会するように命を受けた。その間、彼は異教徒との戦いの利点と、聖戦に従事する者に対して神が好意を与える約束をしたことの指摘について列挙する本をものしていた。この論文は30帖[600頁]にも及んだ。彼は道をたどってスルタンがヒスン・アル=アクラード[クルド人の城](洋名クラク・デ・シェバリエ)[のふもとの]平原で野営しているところを見つけ、その本を献呈し、「私は世を捨ててモスル郊外のマシュヒドに居を構えたいと思っています」と言った。
 584年ジュマーダー1月のはじめ[1188年6月末]、彼は丁寧な挨拶をスルタン、サラーフッディーンに伝え、彼(サラーフッディーン)はそのしばらくの後、彼を軍団付きのカーディー[カーディー・アル=アスカル]に指名し、イェルサレムのカーディーに任じた。
 666年[1267-8年]のある月に、私がダマスカスのハーキムだった時のことだが、彼がサラーフッディーンのカーディー・アル=アスカルとして活動していた時のカーディー・アブー=アル=マハースィンの捺印証書が手に入った。
 その有効性は証人の死去によって損なわれており、私の意見では、回復するのはほとんど不可能だろう。この書類を私は最後まで読み通した。というのも、我々は彼の熱心な弟子で、我々に多くのことを教えてくれた我が師アブー=アル=マハースィンの生前の記憶についてとても興味があるからだ。
 (脇道にそれたので)、彼が自身について述べている既述に戻ろう。
「私がサラーフッディーンに献辞を捧げた時、学長のサドルッディーン・アブドゥルラヒーム・イブン=イスマイールと、カーディーのムヒーユッディーン・イブン=アル=シャフラズーリーで、彼は彼からある任務のために送り込まれたのだった。この時にアル=バハー・アル=ディマシュキーが死去して、旧カイロのマナーズィル・アル=イッズ学院の学長の席と、街の説教師の仕事の席が空いてしまったのだ。サラーフッディーンは私に教授職を薦めてきたが、私は受けなかった。私が二回目にスルタンの御前に出た時、私は仕事でモスルから彼の元へ送られ、彼をハッラーンで見つけた。彼はそのとき病だった」
……
「サラーフッディーンが死去し―その時私はすぐそばにいたのだが―私は彼の息子たちの間を取り持ち、互いに助け合うことを誓わせるためにアレッポへ向かった。兄弟たちの一人で、アレッポを領有していたアル=マリク・アル=ザーヒル・ギヤースッディーンが、彼の兄弟でダマスカスのあるじであったアル=マリク・アル=アフダル・ヌールッディーン・アリーに手紙を送り、私を彼の元へ送るよう要請したのだ。私が到着したところ、アル=ザーヒルは私を、彼の兄弟のアル=マリク・アル=アジーズ・イマードゥッディーン・ウスマーンのもとへ派遣した。彼の協力をとりつけるためである。彼は私にアレッポの行政長官の申し出てきたが、私はそれを受けなかった。この仕事から帰った後、私はアレッポのカーディー職を引き受けた。その椅子は前任者の死去以来、空席のままだったのだ」
 これらはアブー=アル=マハースィンが彼の『マルジャー・アル=フッカーム』の中で述べていることである。
 カーディーで、イブン=アル=アディームと呼ばれていたカマールッディーン・アブー=アル=カースィム・ウマル・イブン=アフマド[vol.4-p.334]は、彼の『ズブダ・タル=ハラブ・フィ=ターリーフ・ハラブ』[『アレッポの歴史における新鮮な乳の乳脂』]と名付けたアレッポ史の小著の中で、以下のように述べている。
「91年」
 591年[1195年]のことである。
「カーディーのバハーウッディーン・アブー=アル=マハースィン・ユースフ・イブン=ラーフィー・イブン=タミームが、アル=マリク・アル=ザーヒルに会うためにアレッポに来ていたのだが、彼に仕えることになった。その君主は、ムヒーユッディーン・イブン=アル=ザキーの代理として振舞っていたカーディーのザイヌッディーン・アブー=アル=バヤーン・バナー・イブン=アル=バイサーニーを罷免した後、彼に街のカーディー職とワクフの管理を委ねた。バハーウッディーンはその君主の宰相と諮問委員の地位を得た」
 以上で引用終わり。
 私はここで以下のことに思い当たった。[カーディーの]バナーはアル=ファーディル・イブン=スライマーン・アル=フムリー[もしくはアル=ヒムヤリー]の息子であること。そして、その家族はダマスカスではアル=バイサーニーの名で知られており、前述のムヒーユッディーン・イブン=アル=ザキーは、スルタンのサラーフッディーンによってカーディーに任じられ、代理としてザイヌッディーン・バナー・イブン=アル=バイサーニーを任じており、彼がそこに前述の日まで残っていたのだということである。
 その時には、わずかではあるがアレッポに大学が残っていたが、よく学識を収めている人物はとても少なかった。アブー=アル=マハースィンはそこでこれらの施設の開設を認め、法学を学んだ教師を配置した。彼の生前に、多くの大学がこのようにして設立されることとなった。
 アル=マリク・アル=ザーヒルは、彼に富んだイクターを与えたが、それは大きな歳入を生み出すものだった。
 カーディーは子どもや家族を持っておらず、浪費を好まず、残りの収入が有り余っていたので、ヌールッディーン・イブン=ザンギー[vol.3-p.338]がシャーフィイー派の学生たちのために建てた大学の反対側と、イラク門の近くに大学を建てることができたのだった。私はその大学に付属しているモスクの、講義室の天上に彫ってある建築日を見た。日付は601年[1204-5年]であった。それから彼はこの大学の近くに預言者についてのハディースを教える学校を作り、この二つの施設の間に自分が埋葬されるつもりの廟を建てた。この建物は二つの入り口があり、片方は大学へ、もう片方はハディース学校へ向かっている。これらは互いに向かい合っており、それぞれ[鉄の]格子で閉じられているので、片方の隅に立つと、建物を通して反対側が見えるようになっている。
 アレッポがこのような[繁栄した]状態だったとき、法学者たちは様々な地方からここへ集まり、研究が盛んになり、この街を訪れる人の数はたいへんなものになった。
 私の亡き父とカーディー・アブー=アル=マハースィンの間には、彼らがモスルで同輩の学生だった頃から強く真摯な交友があった。私がこのカーディーのもとを[勉学のために]訪れた時、それは私の兄が彼の元を訪れてすぐのことだったのだが、強い言葉で書かれた推薦状が、私の街[アルベラ]の統治者から送られた。この王侯はアル=マリク・アル=ムアッザム・ムザッファルッディーン・アブー=サイード・クークブーリといい、アリーの息子でベクテギン[勇敢なるベク]の孫で、既に紹介した[vol.2-p.535]。この手紙には、「この少年たちに何が必要かはあなたも知っての通りだ。彼らは私にとっての親友、そしてあなたにとっての親友の息子たちなのだ」と書いてあった。
 書き手はこの調子で長々と続けていた。
 カーディーのアブー=アル=マハースィンは、とても喜び、彼にふさわしい物腰で我々を名誉のうちに迎え入れ、我々をできる限りもてなしてくれた。彼は我々を彼の大学に寄宿させ、一緒に食事を取る人たちの一覧に入れてくれた上に、我々を年上の少年たちのクラスに編入した。その時我々はまだ幼く、勉強ははじめたばかりにすぎなかったのに、である。
 シャイフで文法学者のムワッファクッディーン・ヤイーシュの生涯[vol.4-p.380]のところで既に述べたが、私がアレッポに到着した日のことは、ここで繰り返す必要はないだろう。私と私の兄弟は、彼のもとにその死の日までとどまった。その日のことはかなり先で述べる。その期間、一般的な大学の講義は無かった。というのも、教授のアブー=アル=マハースィン自身が年齢を召して弱っていてあまり動けず、ましてや彼の講義などは、記憶させて以下の彼らに行わせた。彼は4人の法学者を信用して学生たちに講義させており、これらの教授たちの授業が、学生たちに続けられていた。
 私と私の兄弟はジャマールッディーン・アブー=バクル・アル=マーハーニー師のもとで学んだ。というのも、彼は我々と同郷で、イマードゥッディーン・アブー=ハーミド・ムハンマド・イブン=ユーヌス師[vol.2-p.656]の下で、私の父と同輩だったからだ。彼は627年のシャッワール月3日[1230年8月15日]に亡くなり、80歳以上だった。
 そこで私はイブン=アル=ハッバーズの呼称で知られているナジュムッディーン・アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・イブン=アビー=バクル・イブン=アリー師の教えを受けることになったが、彼はモスルの出身である。この法学者にしてイマームは、サイフィーヤ学院で教授をしていたという。私は彼の元でアル=ガッザーリーの[法学書]『ワジーズ』[vol.2-p.622]を学び、証言の章から勉強し始めた。しかし、その後、互いに教えあったこれらの情報が我々をその主題から導き去った。
 カーディー・アブー=アル=ムハースィンは[宰相に任じられていたが]、日常業務の全てに完全な指揮を執っており、この国の中で誰もあえて彼に異議を唱えようとはしなかった。その時の支配者はアル=マリク・アル=アジーズ・アブー=アル=ムザッファル・ムハンマドで、アル=マリク・アル=ザーヒルの息子にしてサラーフッディーンの孫であった。彼が子供の時は宦官のシハーブッディーン・アブー=サイード・トゥグリルに世話をされており、彼は彼のアタベクとして振舞っていて、アブー=アル=ムハースィンの指示の下で国政を動かしていた。全てのことがこの二人の権威のもとで行われていた。アブー=アル=ムハースィンが管理している間は、法学者たちは高い尊敬と思いやりをもって扱われ、特に彼の大学に登用された者はそうだった。彼らはスルタンの個人的な顧問を助けることを公認されており、ラマダーン月の間は、彼らは彼の食卓で断食を毎日のように破った。
 彼がハディースを教えてくれるというので、我々はよく彼の家に彼の話を聞きに行っていた。彼はそこにわざわざ自分で設計した冬用のアルコーブを設けており、彼は夏も冬もそこに座っていた。実際のところ、年齢が彼を蝕んで孵ったばかりの小鳥のようにしてしまっていた。彼が祈りをささげ、また他の理由で動くのも大きな痛みと困難をともなった。彼はしばしば鼻づまりに悩まされており、アルカーブを離れようとせず、冬には赤々とした石炭をたくさん入れた大きな火桶をそばに置いていて、それでもまだゆがみから自由でなかった。彼はよくボルタース[カスピ海沿岸にある街]の毛皮の裏打ちのある長い外套とたくさんのチュニックを着て、彼の下には柔らかいクッションをカーペットの厚い山の上に置いていた。
 我々が彼と一緒にいる時、熱さが我々にはとても不快で、しかし彼はそれを感じておらず、老衰から来る寒さに打ち勝っているようだった。彼は熱い夏の盛りでなければモスクでその信仰心を示すために外へ出ようとはせず、その時は、礼拝のために立ち上がるのがとても困難で、膝をついてしまいがちだった。
 ある日、彼が礼拝のために立っていたところ、私は彼の足を見たが、ほとんど肉が付いておらず、棒のようだった。金曜礼拝の後、近い者たちは彼の家に彼がハディースを繰り返して唱えるのを聞きに行き、これが彼にはとても嬉しいようだった。
 彼の会話には説得力があり、彼の説教はとても上品で、その著述は広く行き渡ったものだった。
 彼は頻繁にその席で以下の詩を引用した。

 ライラ[の魅力]と彼女の公正な隣人から逃げるためには、あなたはどんなことがあっても彼女たちと会う場所を避けねばならない。

 彼はしばしばことわざ通りにスッル・ドゥッル[vol.2-p.321]の長い頌詩の一節を引用した。その詩では以下のように言っている。

 [砂漠の]砂の中で行われた彼らの約束は破られた。砂上に建てるものは何であれ失敗するものだ。

 彼はそれを繰り返し、ある日、彼の生徒たちが臨席している時に、一人が言うことに。
「先生! イブン=アル=ムアッリム・アル=イラーキーはこれと同じことを上品に述べています」
「イブン=アル=ムアッリムは」
 そう彼は問う。
「アブー=アル=ガナーイム[vol.3-p.168]と呼ばれている人と同じ人物か?」
 その通りだと聞いて、彼が答える。
「彼は私の親友だ。彼は何と言っていた?」
 相手は以下のように暗唱した。

 彼らは約束を果たすことに失敗したが、砂漠の砂の中で愛の手によって建てられたものなど無く、失敗もできはしない。

「悪くない!」
 と、彼にいう。
「『愛の手によって』という表現はとても上品だ」
 同じ生徒がまた言うことには。
「先生! 彼は別の頌詩で同じ考えを表現しています」
「我々に教えてくれ」
 そう彼に言って、暗唱されたのが以下である。

 約束は砂の上には建てられない。ならばどうしてそれが崩れ去ろう?

 この詩もまた彼の称賛を得た。
 彼はしばしばハイス・バイス[vol.1-p.559]と呼ばれているアブー=アル=ファワーリス・サアド・イブン=ムハンマドの詩の一節を我々に繰り返し聞かせ、その詩は詩の権威によって彼が述べるのだと明言した。というのも、彼はこの詩を作者の口から直接聞いたからだ。スッル・ドゥッルの記事の中で既にこの一節については述べたから、最初の詩にだけ言及しておくことにしよう。

 敬意の称賛を受けたなら高貴さを貶めるためにあがくな。

 彼はまた、アル=カーディー・アル=ファーディル[vol.2-p.111]と一緒にサファドの城[の包囲]に居た時に、アル=ファーディルが彼に以下のような詩を披露したと教えてくれた。

 私は扁桃腺の炎症にこう言った。「私の喉から去ってくれよ、頼むから! 私の命の入り口なのだ」

 この二節の詩はイブン=アル=ハッバーリーヤ[vol.3-p.150]に帰せられる。
 アブー=アル=ムハースィンは、自分のことを観察するたびに弱っていっていると感じており、立ったり座ったり、あるいは祈ったり、さらには動くこともできなくなっていった。彼は言っていた。

「長生きしたいという人が居れば、彼に不屈の精神を持たせることだ。そうすれば彼は友人の死に耐えられる。長生きしたその人は、彼の敵のために望むあらゆる苦痛が自らを苛むのを見出すだろう」

 この二節の詩は、アル=サッラーミーヤのカーディーだったザーヒルッディーン・アブー=イスハーク・イブラヒム・イブン=ナスル・イブン=アスカルに帰せられる。彼の事績については既に記した[vol.1-p.15]。
 それは私の友人のイブン=アル=シアール・アル=マウスィリーについても、アル=ザーヒルの記事の中で、オクード・アル=ジュマーンの中に入っている。
 この考えは、アブー=アル=アラー・アル=マアッリ[vol.1-p.94]から引用したもので、彼曰く、

 我々の口は愛する人へ長寿の祈りを唱える。彼が長生きすれば私達は喜ぶだろう、しかし、その長生きは、彼に経験したくないことに出会わせる。

 これらの節は以下のように言っている詩から抜き出したものである。

 私の槍[能力]には注目すべきものは何もなく、それはただ日々の変化をもたらすだけ。私は熱心に主に私の命を永らえさせることを嘆願したが、今や私は人生そのものが悪なのだと知ってしまった。

 アブ=アル=ハイジャー・ユースフという名のマグリブ人は、彼の故郷からアレッポへ来たのだが、彼は才能ある人で、文学と哲学に精通していた。彼がある日彼(バハーウッディーン)を尋ね、痩せ細っているのを見て、彼に以下のように献じた。

 もし人々が[あなたに]何が起こったか知れば、あなたは彼らの都合によって生かされ、若さの衣を脱いでしまったから、彼らはむせび泣くだろう。彼らが[あなたの寿命を伸ばすために]自らの生を諦めたとすれば、少なくとも彼らの命と同じ程度には貴重なあなたを、彼らは[死から]取り戻すだろう。

 これらの言葉はカーディーを喜ばせ、彼はその語り手に感謝した。
 私の知り合いが教えてくれたのだが、ある日、カーディーが以下のような逸話を集まってきた聴講生に話したという。
「私がバグダードのニザーミーヤ学院にいた時、四人か五人の法学を学ぶ学生が、意識を覚醒させるためにベラードル豆[ウルシ科のセメカルパス・アナカルディウムであろう](可食)を飲むことに合意した。そこで彼らは医師のもとへ行って、どの程度これを取れば目的にかなって十分かを尋ねた。その後、彼らは教えてもらった量を買い求め、学院の外で煮出して飲んだ。すると彼らは錯乱し、互いに別れてどこかへ行ってしまった。数日後まで誰も彼らがどうなったのか知らなかったが、そのうちの一人でとても背の高い男がいたのだが、彼が学院へ戻ってきた。彼は素っ裸で、秘部を隠すだけのボロ布以外身に着けておらず、しかし、その頭には背の高いターバンをかぶり、そのターバンの後ろを彼の足首に至るくらい長くぶらさげていた。彼はじっとして何も話さず、口がきけなくなったか死んだかのようにみえたが、冗談でもなく、話しもしなかった。近くにいたある法学者が彼に何が起きたか尋ねたところ、以下の様な答えを得た。『私達は一緒にベラードル豆の煮汁を飲みました。私の仲間は気が狂ってしまい、私だけが正気を保ったのです』。彼は深い知性を取り戻し、深く冷静になるようになった。集まっていた人たちは彼のいでたちに笑ったが、彼の知ったことではなく、彼は仲間が落ちてしまった何かから逃れたのだと考え、彼の周りにいる人達にまったく注意を払わなかった」
 私達が彼のところへ行く前からアブー=アル=ムハースィンと一緒に居た学生のうちの何人かが、以下の様なことを私に教えてくれた。
「ある有名な詩人でコルドバの文学に通じた学者、名前はニザームッディーン・アブー=アル=ハサン・アリー・イブン=ムハンマド・イブン=ユースフ・イブン=マスウード・アル=カイスィーで、イブン=ハルーフの呼び名で知られていた男が、アブー=アル=ムハースィンに会うためにやってきて、彼に詩ではじまる手紙を出して、毛皮の外套を頼んだ。その手紙が以下だ。

信仰の光[バハーウッディーン]にして世界の光よ、栄誉と名声の中に燦然と輝く! 私は厳冬を恐れ、あなたの恵み深さを頼ります。文学において名高いハルーフであることを知っています。幸運の涙を流せば、私がアレッポで手に入れた乳は純粋なものでしょう!

 彼はもともと著名で高い尊敬を受けていて、幸せを呼び起こす人で、アル=ファッラー[vol.4-p.63]のために、文法学者を好いていた。
 彼はその羊にその毛を授け給うた。肌は赤色で、後に日に焼けた。それをなめすことを引き受けた人は失敗せず、[彼の痛みを]消すこともない。いや!それを用意した彼の称賛は広められて広がっていく。その羊毛の繊維は目が詰まっており、それは全ての暴力と激しい嵐をあざ笑う。その毛があれば、寒さはそれを恐れ、霜と雪が降りてくればどの他の上着もそれに匹敵することはない。人は、弱々しい枝がその葉を落としてしまった時、それに等しいものを持たない。それはイブン=ハルブのずきんのようではなく、また叩かれて傷付いたアムルの肌のようでもない。それは星の天国の羊毛のようであり、それは月と星の間に見える、みすぼらしい羊のようではなく、それは草や木を食べている。数多くの中で、それは外套で、その香りはかぐわしい。[私にそれを持つことを許してください]、そうすればそれは私のコート、オーバーオールになるでしょう、どちらの場合にせよ、それは心臓に命をあたえ、寒さを殺します。それを着る人は、幸せが途絶えることなく、友への約束を果たし、彼の敵を脅かし続けるでしょう。神のみ心のままに! 草々」
 アブー=アル=ファス・ムハンマド・シブト・イブン=アル=タアーウィーズィー[vol.3-p.165]の記事で、我々は既に彼が書記のイマードゥッディーンに送った書簡を紹介したが、それもまた同じ事を望んでいた。これらの手紙は同じ種類のものである。私が今挙げたものは、説明が必要な表現をいくつか含んでいる。「イブン=ハラブのずきんのようではなく」という言葉は、当時の文化人たちのあいで流行っていた言い回しだ。あるものがとても良く使われている時、彼らはそれを「イブン=ハラブのずきんのようだ」と言ったのである。
 これを説明した以上、ここでそれについて説明しておくことにしよう。アフマド・イブン=ハラブは、アル=ムハッラブ[vol.4-p.164]の息子ヤズィードの甥で、バスラの文学者にして詩人のアブー=アリー・イスマイール・イブン=イブラヒム・イブン=ハムドゥヤーフ・アル=ハムドゥーイに使い古したずきんを贈ったのである。多くの風刺詩が詩人たちによってこの句を含むようになり、それはどんどん広がっていった。

(具体例が続くので省略)

 このずきんについて言及した200もの詩は全て元の表現を踏まえていると言われている。
 さらに後の「叩かれて傷付いたアムルの肌のようでもない」という表現について言えば、私は文法学者によってほのめかされている例を見ればよい。「ザイドがアムルを叩く」というもので、これは彼らによって例示されていて、[動詞の二重の用法を説明するために]、彼らが用いる例文である。そのため、アムルの肌はしょっちゅう叩かれてズタズタになっているだろう、などと言われたりしているのだ。
 アル=ハムドゥーイがアブー=イルマラーン・アル=スラミーがずたずたになったずきんについて作った詩を読んでいて、この風刺を組み入れることを思いついた。以下に一部を示す。

 アブー=フムラーンのずきん! なんじのために苦痛が存在し、その中でなんじは喜びを見出すことは無い。いつなんどきも、傷あてをしなければならぬ。何が古くて新しくするかを考えるのが、いかにばかばかしいことか! 私がなんじを祭りか集会の時にそばに忍耐とともに置いたら、人々はそれを傷つける一瞥を残して立ち去るだろう。

 3つ目にこの詩で表現されているのは、アブー=イスハーク・イブラヒム・イブン=サイヤール・アル=ナッザーム・アル=バルヒー[vol.1-p.186]が作ったものから取られており、その中で彼はほっそりとした形の若い人を表している。

 彼はとてもほっそりとしており、彼のズボンがはずされれば、彼は空中にとどまるくらいに軽くなるだろう。人々が彼を見る時、彼らの視線は彼を傷つけ、彼は指差された時には苦情を訴える。

(具体例が続くので省略)

 カーディー・アブー=アル=ムハースィンは、しきたりや服装に関してはバグダードの生活様式に従っていた。彼を訪ねた職場の人たちは、彼の家の前で馬から降りて、それぞれ、[特に上座を気にせず]彼に割り当てられた場所をとる。
 彼は、アレッポのあるじアル=マリク・アル=アジーズと結婚するアル=マリク・アル=カーミル・イブン=アル=マリク・アル=アーディルの娘をアレッポへ連れてくるために、後にエジプトへ赴き、協議した。彼は629年のはじめ[1231年11月]か、628年の終わり頃に出発した。彼が到着し、彼は、アル=マリク・アル=アジーズがもはや庇護を必要としないことに気づき、全ての権威を彼に返上した。
 アタベクのトゥグリルは城から離れて城塞のふもとの彼の家に隠居した。
 アル=アジーズは彼の仲間であり友人であった若い人たちに制御されるところとなり、彼らの言うことだけを聞くようになった。
 カーディー・アブー=アル=ムハースィンは、これを見るに耐えず、死ぬまで彼の家から出ることはなかった。しかし、彼はハーキムの座にありつづけ、イクターからの歳入を受け取っていた。彼の言葉はもはや政治に何の影響ももたらさず、彼の助言が要求されることもなかったということがこの問題に関して最も言われるところである。
 彼は毎日、彼からハディースを聞きたいという学生たちを受け入れた。彼の知性は弱まり、もはや、誰が訪ねてきてくれたのか分からなくなっていった。来訪者が立ち上がって辞する時、彼は、相手が誰だったか尋ねるのだった。彼は少しの間このような状態になり、それから病になってすぐ後に死去した。632年、サッファール月14日[1234年11月8日]の水曜日、アレッポでのことである。
 彼は私が既に言及した廟に埋められた。私は、彼の葬儀に出席し、その後起こったことの現場にも居合わせた。
 彼によって著されたものは、以下の通りである。
 思いがけない法律問題を扱った『マルジャー・アル=フッカーム・ワ・イルティバース・アル=アフカーム』[『限界事例における判断の源泉』]、二部。
 『ダラーイル・アル=アフカーム』、この中で彼は伝承されたハディースについて扱っており、二部。
 他の作品のなかで我々の関心を引くのは『キターブ・スィーラト・サラーフッディーン』(『サラディン伝』)である。
 彼は彼の家をスーフィーたちのハーンカーとして残し、相続人を持たなかった。
 法学者とコーラン誦唱者たちは長い間しばしば彼の廟を訪れ、彼の墓石の傍らでコーランを詠むのだった。私は既に格子について言及したが、彼は七人の朗読者を任命しており、毎晩、その本の全てが彼の墓の上で読まれた。14人の朗読者は前夜の続きの部分でそれぞれ14の部分を読むのである。
 ジュマーダー2月の23日[1235年3月14日]、私はエジプトへ向かい、この国を離れた。しかし、それから、大きな変化があった。私が言ったように、これらの任命された者たちは全て解散してしまった。
 シャイフのナジュヌッディーン・イブン=アル=ハッバーズはアレッポで631年のズー・アル=ヒッジャ月の7日[1234年9月3日]に亡くなり、アルバイーン門の外側に埋葬された。私はその葬儀と埋葬の現場に参加した。彼は557年のラビー1月29日[1162年3月18日]にモスルで生まれた。
 アタベクのシハーブッディーン・トゥグリルは631年ムハッラム月11日月曜日の夜に死去し、アルバイーン門の外側のハネフィテ学院に埋められた。彼は奴隷で、アルメニアの生まれだった。公正な態度で、その指示は有徳であり、彼の行動の全てが称賛に値した。私は葬儀と埋葬の現場に参加した。
 私が述べた文学者のアブー=アル=ハサン・イブン=ハルーフも、アレッポでその生命を失った。604年[1207-8年]、貯水池に落ちてのことだった。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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