名士列伝:ヌールッディーン

『名士列伝』英訳3巻PP.338-343
Al-Malik al-Adil Nur al-Din
「アル=マリク・アル=アーディル・ヌールッディーン」

角括弧内は原注、丸括弧内は管理人の注
改行は管理人が適宜行った
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 

 アル=マリク・アル=アーディル[公正なる王]・ヌールッディーン[信仰の光]と呼ばれるアブー=アル=カースィム・マフムードは、アクソンコル[vol.1-p.225]の息子イマードゥッディーン・ザンギー[vol.1-p.539]の息子である。
 彼の父がカラアト・ジャアバルを包囲している最中に死去したので、彼の兄弟のサイフッディーン・ガーズィー[vol.2-p.440]がモスルの街と地方を確保した一方で、彼は彼の命令に従い、またサラーフッディーン・ムハンマド・イブン=アイユーブ・アル=ヤギシャーニー[vol.1-p.540]が彼に仕えることにしたところ、彼はシリア軍を率いてアレッポへ進軍し、同年にその街を確保した。
 549年のサッファール月3日[1154年4月]、ヌールッディーンはダマスカスを包囲した。その街はムジールッディーン・アブー=サイード・アバクの統治下にあったが、彼はタージ・アル=ムルク・ブーリの息子であり、ブーリはトゥトゥシュの子ドゥカークのアタベク、ザーヒルッディーン・トゥクテギンの息子であった。これは同月9日の日曜日のことで、彼は街を占領し、ムジールッディーン・アバクには代わりにエメサ(アラビア語ではホムス)を与え、バーリスの街を授けた(イブン=アル=アシールによれば、不穏な動きがあったのでホムスを没収しバーリスを与えた)。アバクはそちらへ移り、そこにしばらく住んだ後、イマーム・アル=ムクタフィーの支配しているバグダードへ向かい、彼の助けで年金を得ることができた。
 アタベクのムイーヌッディーン・[ウヌル・]イブン=アブドゥッラーはアバクの曽祖父トゥクテギン[vol.1-p.274]の解放奴隷であった。
 ヌールッディーンはそれからハマーやバールベク、バールベクの城壁は彼が建て直すのだが、などシリアの街々を征服し、この二つの都(アレッポとダマスカス)との間にある場所とマンビジを占領して所有権を手に入れた。
 彼はさらに、マラシュやバハスナなど小アジアとの国境にある数々の砦を奪取した。前者は568年のズー・アル=カアダ月[1173年6-7月]のことで、後者は同年のズー・アル=ヒッジャ月[7-8月]のことである。559年のラマダーン月[1164年8月]までに、彼はフランクの国にあるハーリムを征服し、内陸へ、アザーズからバニヤースの間にある54の砦を奪取した。
 彼は次にアミールのアサドゥッディーン・シールクーフ[vol.1-p.626]を三回エジプトに派遣し、三回目にスルタン・サラーフッディーンが彼の代理として国を建て、ヌールッディーンの名前をコインに刻み、フトバで誦唱させた。この出来事については、スルタン・サラーフッディーンの記事でより詳しく述べたから多言を要しまい。
 ヌールッディーンは公正な王にして、敬虔な禁欲者であり、神を恐れ、法に厳格であり、また神の道に精進し、慈善に飽きを見なかった。
 彼はダマスカス、アレッポ、ハマー、エメサ、バールベク、マンビジ、そしてアル=ラハバといったシリアの大都市に大学を建てたが、このことについては私は既にシャラフッディーン・イブン=アビー=ウスラーン[vol.2-p.33]の生涯の項で述べた。モスルで彼はモスクを建設し、[彼にちなんで]アル=ジャーミイ・アル=ヌーリと呼ばれている。ハマーでも別のモスクを、オロンテス川の岸辺に建て、またエデッサ、マンビジでも建設した。ダマスカスでは、病院とハディース学校を建設した。
 彼の長所、業績、輝かしい行動は記述できないほどである。
 彼らの理想とすることがらの近さから、多くの手紙と相談が、彼と、ラシードゥッディーンと呼ばれているアブー=アル=ハサン・スィナーン・イブン=スライマーン・イブン=ムハンマド、つまりイスマイール派の城塞の主で、その名前からスィナーン派と呼ばれているシリアのバーティン派の指導者である男との間で交わされた。
 ある時、ヌールッディーンは彼に脅迫の手紙を書く必要に迫られ、その返信として以下のような答えを、詩文と散文で受け取った。

「おお、我らに刃を振りかざし脅迫しようとする者よ! もしおまえに我らが打ち負かされれば我らの力は二度と戻るまい! 鳩があえて鷹を脅そうとは! 砂漠のハイエナは獅子を相手取り戦うものだ! その悪魔の口をお前の指で塞ぐことだ。そすればお前の指は切り落とされて痛むだろう。

 私は貴殿の手紙を概要から細部まで検討してそれが我々を脅しているものだとよく分かった。ハエが象の耳もとで飛び回るというのか、感心するものだ! (アッラーは)蚊でも何でも平気で譬え話にお引きになる![コーラン2章24節]
 既に貴公の前に他の人間が同じようなことを書いて寄越したが、私は連中の上に破滅を投げつけてやった! 連中を助けるものなど何も無かったのだ! 貴公は真実に目を背け嘘言を擁護しようというのか? 道理に反して行動したものは自身を待ち受ける運命を知るだろう!
 貴公の言葉について言えば、貴公は私の首を斬り、私の砦を、それを支えている堅固なる山岳からもぎ取ろうという。そんなものは妄想にすぎず、無駄な想像だと知ることだ。事態は偶然によって打破されることはなく、魂は体の病によって消え去ることはない。強弱の差がどれほどあろうとも、貴賤の差がどれほどあろうとも! だが、内部にある理論的な物を、外部にある直感的な物へと戻すならば、私は祝福されし預言者の例を引くことにしよう。彼によって以下の言葉が紡がれた。
『私がそうであった以上に苦しんだ預言者は居なかった』
 貴公は彼の仲間、家族、信奉者たちを襲ったものをよく知っているはずだ。状況は変わらず、事態も転じず、我々が迫害される側であり、迫害する側でなく、傷つけられ、傷つける者でない限りは始終、神への称賛は続けられる。だが、真実が現れ虚偽が消える時、虚偽は素早く消え去るだろう!
 貴公は外から見たの態度についてはよく知っているだろう、すなわち、私の部下の性質、彼らが望む食べ物の種類、そしてそのために彼らは自ら死の深淵に飛び込むことだ。『言ってやるがいい、「お前たち一つ死を願って見たらいいではないか、もしそれが本当の話しならば」と。どうしてどうして、死にたいなどと思うものか、なにしろ己れの手が侵したのことがあるからは。不正を働く者どものことはアッラーは何もかもご存知であるぞ』[コーラン2章88節、89節]。一般に受け入れられている諺でも言われているではないか『ガチョウが河[の中に放り投げるぞと言われてそのこと]を恐れるか?(いや、恐れはしない)』と。不幸に備えてチュニックを、苦痛に備えてマントを、それぞれ用意しておくがいい。貴公の悪の行いは、貴公自身に帰ってこよう。貴公はそれらは自身が招いたものだと知るだろう、そして動物のように死ぬまで彼の足を追い回すだろう、そして彼のようにその花を自身の手で切り落とすだろう。このようなことは、神にかかれば造作も無いことだ」

 私はカーディー・アル=ファーディル[vol.2-p.111]の手書き文書の写しからこの書簡を書き写したが、同じ文書の別の写しには、以下のような一節がつけ加わっていた。

「貴公がこの手紙を読んだ時、我々に会おうとするだろうし、その準備もできている。蜜蜂章の最初[コーラン16章の最初の節:「アッラーの仰せられたことは必ず起こる」]とサード章の最後[コーランの38章の最後の節:「暫くすればきっとお前たちにも真相がわかるであろう」]を読むことだ」

 真実としては、これはスルタンのサラーフッディーン・ユースフ・イブン=アイユーブに宛てられたものである。
 他の写しでは、私は以下の詩が付け加えられているものを見つけた。

「そのおそれから恐ろしい出来事が起こるかもしれぬことに人々を用心させよ、出来事は誰も受けたことがないものだ」

 別の時に、彼らの関係が冷えきった時、スィナーンは彼に以下のように書いて寄越した。

「我々の方法によって貴公はこの帝国を手に入れたのだ。ゆえに、貴公の家はそこに結びつき、その柱は賛美されよう。我々自身が作った矢で貴公が我々を射ようとすれば、我々の農園でそれは育ち、その核心を我々と共にするだろう」

 ヌールッディーンの振る舞いについて言えば、多くの称賛すべきことがらで飾られているとのみ言っておこう。
 彼の誕生は511年シャッワール月17日の日曜日[1118年2月11日]の日の出の時のことで、その扁桃腺の炎症による死去は569年シャッワール月の11日水曜日[1174年5月15日]、ダマスカスのシタデルでのことであった。彼の医師たちは瀉血を薦めたが、かれは拒否し、彼にもたらされた畏敬の念から、あえて彼に忠告する者はいなかった。
 彼は、彼の居間と寝室として宛てがわれていたシタデルの部屋に埋葬された。彼の遺体は後に彼がスーク・アル=ハッワースィーン[働く者のための椰子の葉のバザール]の入り口の近くに建てた大学の内部に建設された廟に移葬された。
 私は、多くのダマスカスの人々から聞いたのだが、人々は彼の廟に祈願をささげるのだといい、それが現実になるよう望むそうで、私はそれが本当であることを確認した。
 我々の師であるイッズッディーン・アブー=アル=ハサン・アリー・イブン=アル=アシール[vol.2-p.288]は、彼の浩瀚な歴史書『完史』の558年の項で、以下のように述べている。
 すなわち、ヌールッディーンがその年に、ヒスン・アル=アクラード(クラク・デ=シェバリエ)を包囲し、その後トリポリに進軍するつもりで、その要塞に向かう途上、アル=ブカイヤ[小さな平原]で野営してたところ、ある時、フランクの大軍が徒党を組んで攻撃してきて、ムスリムたちは予期しておらず対応する時間も無かった。彼の軍勢は戦闘に晒されたが、彼は逃亡に成功した。この戦闘は「アル=ブカイヤの戦い」と呼び習わされている。フランクたちから4パサランジュほど離れてエメサの近くのカダス湖で止まったところ、彼はアレッポや他の街から軍資金を徴収し、それによって彼は軍を傭うことができた。そこで彼は敵に向かって戻り、彼の敗北の復讐を存分におこなった。
 このとき、ヌールッディーンの部下たちが彼の支出の多さを鑑み、そのうちの一人が彼に向かって言うことには、「閣下の国で、閣下は多くの恩給と施しを法学者、敬虔な貧民、スーフィー行者、コーラン朗読者などに支払っておいでです。これら[の資金]を、今回用いておれば、より有効でありましたものを」。これに彼は激怒し、以下のように答えた。「アッラーに誓って! 私の勝利への唯一の望みは、これらの人を通じたもので、私は他でもない彼らの助けを当てにしてきた。『お前の弱さこそが、お前を支え勝利を与えるのだ』[ティルミズィーの伝えたハディース]。私が寝床で眠っている間でさえ、私のために外れぬ矢で奮闘している者たちの要求を削りとって、私が彼らの視界に入っている時だけ私のために、当たるか当たらぬか分からぬ矢で戦う者たちに配分するなど、いったいどうして出来るというのか! これらの人々は公庫からの割り当て分を持っている。どう公平に他の者にそれを与えようというのか?」
 ヌールッディーンは褐色の肌を持ち、長身で、顔つきは整っており、顎以外には鬚を生やしていなかった。
 彼は後継者に息子で、11歳の少年だったのアル=マリク・アル=サーリフ・イマードゥッディーン・イスマイールを指名した。彼は、結果的に彼の死によって最高権威を継承し、ダマスカスからアレッポへ移った。彼は570年のムハッラム月1日の金曜日[1174年8月]に城塞に入り、そこでスルタンのサラーフッディーンはエジプトを離れダマスカスやシリアの他の地域を占領した。アル=マリク・アル=サーリフはアレッポのみを保持し、その死までそこに住み続けた。
 この出来事は577年のジュマーダー1月25日の金曜日[1181年10月6日]に起こった。彼はまだ12歳の誕生日を迎えていなかったと言われる。彼はラジャブ月の9日に病にかかり、ジュマーダー1月の1日に、炎症が出た。彼は慈善をよくし善人であったので、彼の死は大騒ぎを引き起こした。彼はシタデルにある駅[アル=マカーム]に埋葬されたが、その遺体は後に彼の名にふさわしいようにリバート[vol.1-p.159]に移され、シタデルのふもとに埋められた。このリバートはアレッポで大きな名声を得ていた。
 ムジールッディーン・アバクは564年[1167-9]年にバグダードで死去し、彼の家に埋められた。私は、私自身の手書きの紙の中から、おおざっぱなメモを見つけたが、神のみぞその位置が正しいかを知り給うであろう。彼は534年のシャアバーン月8日の金曜日[1140年4月29日]にバールベクで生まれた。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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