名士列伝:カマールッディーン

『名士列伝』英訳2巻PP.646-649
Kamal al-Din al-Shahrozuri
「カマールッディーン・アル=シャフラズーリー」

角括弧内は原注、丸括弧内は管理人の注
改行は管理人が適宜行った
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 

 カマールッディーン(信仰の完全)と呼ばれるアブー=アル=ファドル・ムハンマド・イブン=アビー=ムハンマド・アブドゥッラー・イブン=アビー=アフマド・アル=カースィム・アル=シャフラズーリーは、シャーフィイー派の教授であった。彼の父と祖父についての記述は既に行った[vol.2-p29・p497]。カマールッディーンは、バグダードにおいてアサアド・アル=ミハニー[vol.1-p189]のもとで法学を修め、アブー=アル=バラカート・ムハンマド・イブン=ムハンマド・イブン=カミース・アル=マウスィリーからハディースを学んだ。
 彼はモスルのカーディーの任に就き、シャーフィイー派のための大学をその街に建設した。また、メディナにリバートを建てた。アタベクのイマードゥッディーン・ザンギーは彼を外交使節として雇い、しばしばその資格においてモスルからバグダード[の宮廷]へ派遣した。
 ザンギーがカラート・ジャアバルを包囲中にその命を失った時、カマールッディーンはカーディー・ディヤーウッディーンの父でカマールッディーンの兄弟のタージュッディーン・アブー=ターヒル・ヤフヤーとともに軍中におり、彼らは軍隊とともにモスルへ戻った。その統治権はイマードゥッディーンの息子のサイフッディーン・ガーズィーに委ねられ、この王侯はモスルとその領国全土の政治をカマールッディーンに任せた。
 542年[1147-8年]に、サイフッディーンは兄弟ともども逮捕し、彼らをモスルのシタデルに閉じ込めておいた。その後、サイフッディーンはバハーウッディーン・アブー=アル=ハサン・アリーの息子で、アル=ラハバのカーディーとなったナジュムッディーン・アブー=アリー・アル=ハサンに手紙を送り、ナジュムッディーンを、彼の従兄弟のカマールッディーンの後任として、モスルとディヤルバクルのカーディー職に任じた。
 カリフのアル=ムクタフィーは、カマールッディーンと彼の兄弟のために仲裁の使節を送り、このことによって、虜囚からの自由を勝ち取った。しかし、彼らは今度は自宅に軟禁され、カマールッディーンの息子のジャラールッディーン・アブー=アフマドと、タージュッディーンの息子のディヤーウッディーン・アブー=アル=ファダーイル・アル=カースィムはシタデルに囚人としてとどめおかれた。
 サイフッディーン・ガーズィーの死去にあたって、勾留は中止され、彼ら二人は、その兄弟サイフッディーンの玉座を継いだザンギーの息子のクトゥブッディーン・マウドゥードに会いに行った。競馬場で馬上の君主を見つけ、彼らはすぐに馬から降り、クトゥブッディーンの方へ近づいた。彼らは喪服に身を包み、タルハス[シャーフィイー派のカーディーの被り物]を取った。彼らが近寄ると、クトゥブッディーンは馬から降りて彼らと対面し、彼の兄弟の死に対する弔辞の言葉と、彼の即位に対する祝いの言葉を受け取った。そして彼らは再び乗馬しクトゥブッディーンの両脇に位置するように彼を挟み、彼らが家に帰った後、逮捕は取り消された。この時以来、彼らはよくこの王侯の従者として遠乗りに付き合った。
 550年[1155-6]年、カマールッディーンはシリアを支配し、よくダマスカスに滞在していたヌールッディーン・マフムードに仕えるようになった。555年のサッファール月[1160年2-3月]、ハーキム職[法政長官]から退けられたザキーアッディーンの代わりに、カマールッディーンはその職に就き、これによって息子と甥たちをシリアの各都市に、自身の代理として任命した。
 そしてカマールッディーンはワズィール職に上り詰め、法政長官としての権威を、その時代のムスリムの街全てに振るった。その間、彼の息子のカーディー・ムヒーユッディーンは同じ立場でカマールッディーンの代理としてアレッポで行動していた。
 ヌールッディーンの治世の間、カマールッディーンは法政長官と国の評議の長としての義務を果たすだけでなく、その領国の政治全てを指揮した。この王侯が彼を使節として、[バグダードの]アル=ムクタフィーの宮廷に送り、ヌールッディーンと小アジア[ルーム]の支配者キリジ・アルスラーン・イブン=マスウードの和平を仲介してもらえるように書いた手紙を彼に託していたのだった。
 ヌールッディーンの死によって、サラーフッディーンがダマスカスを奪取し、カマールッディーンはその職権を維持した。
 カマールッディーンは法学者であり、洗練された学者であり、詩人であり、カーティブであった。また、陽気な機知と社会の喜びを彼に与える会話の才能の持ち主だった。彼はきわめて達者にそれぞれの正統法学派の間での理論のための基礎原理の違いの要点について議論し、その鋭さと大胆さで高い名声を得ており、また、その慈善と施しによって有名だった。
 カマールッディーンによって、モスル、ナスィービーン、そしてダマスカスにおいて多くの宗教上の著作が著された。領国の統治者として、彼は大きな影響力を行使し、政治家として、その能力は最も高い階位にあった。彼の息子たちの誰も彼に匹敵することはなく、また数がいくら多かろうと、そのうちの誰も彼ほどに栄達した者は居ない。彼についての記述はハーフィズのイブン=アサーキル[vol.2-p.252]の『ダマスカス史』の中に記されている。
 カマールッディーンはいくらかの素晴らしい詩をものしており、以下の詩は彼のものとして私が彼の一族から聞いたものである。

 私は星だけが私を見守り、東の胸に抱かれて黎明がいまだ来たらぬ中、なんじに会いに行った。愛によって、私はあらゆる危険に面し、私達が出会えることを願うのだ。

 以下の詩は、彼がアレッポにいた息子のムヒーユッディーンに書いたものだと言われている。『カリーダ』の著者はこれが彼のものであると明確に述べている。

 私はなんじの前に手紙の形で愛情に満ちた望みを送り届けた。なんじのことを考えると、私は自分と楽しく会話できる、が、嗚呼!それは単なる想像にすぎない。

 書記のイマードゥッディーン(・アル=イスファハーニー)は、『カリーダ』の中のカマールッディーンの記事で、この詩は571年のラビー1月3日に、カーディー自身がイマードゥッディーンに披露してくれたものだと記している。「これらの言葉は私の心にあるものを思い起こさせた」と、彼は付け加えている。「それはシャリーフのアブー=ヤラー・イブン=アル=ハッバーリヤーの言葉で、彼は、朝が徐々に近づいてくるのを次のように表現していた」
「その愛をみじめに近く抱く手で東が私から月を隠し、私を夢中にさせる炎を隠し、星に不満を言う夜を、いかに多く私は過ごしただろうか」
 彼はさらに続けている。「この詩が言っていることは、遅々とした愛がみじめだと認めているというようなことだこの発想はすばらしい」
 カマールッディーンが年を取り体力が弱ってほとんど動けなくなった時、彼はしばしば以下の詩を繰り返したと伝えられている。

 おお主よ! 私を他人のお荷物になるまで生かさないで下さい。私が上ろうと望んだ時に、「その手で私をお連れ去り下さい」と言わざるを得なくなる前に、[あなたの御下へ]その手で連れて行って下さい。

 私はこれらの詩が彼自身のものであるか否かの判断はつかないし、アブー=アル=ハサン・ムハンマド・イブン=アビー=アル=サクル・アル=ワーシティの詩集の中でこの詩を見たこともある。イブン=アビー=アル=サクルの人生については、また後に語る予定である。
 カマールッディーンはモスルで492年[1098-9年]に生まれ、ダマスカスで572年ムハッラム月6日[1176年7月]に死去し、翌朝カースィウーン山に埋葬された。彼はその時80歳と数カ月であった。彼の息子のムヒーユッディーンは彼の死に際して哀歌を作っている。
 カマールッディーンの遺言の一つは、カーディー長の職を彼の甥でディヤーウッディーンと呼ばれているアブー=アル=ファドル・アル=カースィム・イブン=ヤフヤー・イブン=アブドゥッラーに与えてほしいということで、スルタンはこの推薦を受けて、彼をダマスカスのカーディーに任じた。彼はしばらくこの職を務めたが、この公がシャイフのシャラフッディーン・イブン=アビー=ウスラーン[vol.2-p.32]に不公平であることを知ったので、彼はディヤーウッディーンの罷免を要求し、受け入れられた。シャラフッディーンがその空席を埋めた。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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