569年 記事番3 ヌールッディーン死す

イスラム歴569[西暦1173-1174]年 完史英訳2巻PP221-223
「ヌール=アッディーン・マフムード・イブン=ザンギーの死に関する記事―神よ彼に慈悲を垂れ給え―」

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以下訳文
 この年のシャッワール月11日の水曜日[1174年5月15日]、シリア、ジャズィーラ、エジプトのあるじであったヌール=アッディーン・マフムード・イブン=ザンギー・イブン=アクソンコルが、扁桃腺炎で死去した。まずダマスカスの城塞に埋葬されたが、彼の遺体は椰子の葉のバザールにある彼が建てたマドラサに移葬された。
 シャッワール月の2日に、たまたま側近のアミールと一緒に遠乗りに出かけていたところ、そのアミールが「来年も我々がこうして顔を合わせられるか否かを知り給う者に誉れあれ!」と言った所、ヌール=アッディーンが答えて曰く、「そうではないぞ。我々が明日もこうして会えるか否か知り給う者に誉れあれ!」とのことであった。ヌール=アッディーン―主よ彼に慈悲を垂れ給え―はそれから11日後に死去し、そのアミールも年が暮れる前に死去した。それぞれが彼らの言葉通りとなったのであった。
 ヌール=アッディーン自身に会うことへの恐れからサラディンがフランクに対する戦争の遂行を怠っていると知ったので、ヌール=アッディーンはエジプトへ向かいサラディンからエジプトを取り上げるための準備を開始していた。サラディンはフランクをヌール=アッディーンに対する緩衝地帯として見ていたのである。ヌール=アッディーンはモスル、ジャズィーラ、ディヤルバクルに遠征のための兵を供出するよう書き送った。これらの軍勢を彼の甥、サイフ=アッディーン・ガーズィーの手に残し、彼自身の軍勢を率いてエジプトへ向かうのが彼の腹積もりであった。彼がこれらの準備をしている最中に、抗いがたい神の命令が届いた[原注:この段落を引用した後に、アブー=シャーマは「ヌール=アッディーンは神がイスラームに用意し給うた栄光の勝利は彼の死後サラディンの手に渡るであろうことを知ったので、彼は安堵し、サラディンはヌール=アッディーンが作り上げた不信心者へのジハードの土台の上に勝利を打ち立てたのだった」と追加している]。
 ラフバ出身として知られていたヌール=アッディーンを診察した医師は大変な名医であり、私に向かって以下のように話してくれた[原注:彼はラーディー=アッディーン・ユースフ・イブン=ハイダラ・アル=ラフビーで、1139年にジャズィーラ・イブン=ウマルで生まれ、1233年にダマスカスで死去した。彼はまたアイユーブ家の医師としても活躍した]。

「彼が避けがたい病に侵されている間、ヌール=アッディーンは私を他の医師たちとともに呼び寄せた。我々はダマスカスの城塞にある彼の小さな部屋に入ったが、扁桃腺は既に硬くなっており、彼の死期が近づいていた。彼の声はほとんど聞こえなかった。彼はそこでその戦いを諦めた。彼の病はそこから始まり、彼は動かなかった。我々が部屋へ入り彼の容態を診た時、私は彼に『病がこんなにひどくなるまで我々を呼ばなかったのは間違いでした。あなたは明るく風通しの良い場所に早く移るべきです。それがこの病への適切な処置です』と申し上げた。我々は彼を看護し、瀉血すべきだと助言した。彼は、『60歳の老人から血など抜くものではない』と言って拒否した。我々は他の治療法を試したが、薬は何の役にも立たなかった。彼の病は悪化し、彼は死去した―神よ彼に慈悲を垂れ、彼を祝福し給え―」

 ヌール=アッディーンは色黒で長身だった。彼は顎以外に髭を生やさず、額は広かった。美男子で、魅力的な目をしていた。彼の領国は大変広がり、彼の名前は、シャムス=アッダウラ・(トゥーランシャー・)イブン=アイユーブがその地を征服した後は、メッカ、メディナ、そしてイエメンでもフトバの中で唱えられるようになった。彼は511年[1118年]に生まれ、彼の善政と正義の名声は世界を席巻した。私は正統カリフとウマル・イブン=アブドゥルアジーズ[原注:ウマイヤ朝のカリフで、善政を敷き、後の模範となった]より後の王侯たちの中で、彼ほど正義を切望し、善政を敷いた人について読んだことがない。
 私は以下のことについて、自分の著作『アタベク王朝史』の中でこの王朝の歴史と関連して詳しく述べている。そこで、私はここで、後の権力者たちがこれを読み、よい手本としてくれることを望み、短く記述しておきたい。彼の克己的なものの例としては、彼の敬虔さと学識が例に挙げられる。
 彼は、食事をしたり、衣装を整えたり、個人的な雑務を処理したりする時は、戦利品の取り分か、ムスリムの善行のために充てられる資金から獲得した彼個人の財産でまかなった。彼の妻は困窮していたので夫に不平を漏らしたので、彼は妻に、彼がホムスに所有し、年に20ディナールほどの収入がある三件の店を与えた。彼女がそれで十分でないと言うと、ヌール=アッディーンは彼女に、「私はこれ以外に持っているものなどない。私が手にしている資金は全てムスリムのために管理しているにすぎないし、私は彼らを裏切っておまえのために地獄の業火に焼かれるつもりはないのだ」と言った。彼はしばしば夜の間に祈祷師たちとともに多く祈った。
 以下のように言われている。

 彼がその主の前に謙遜と勇気とを結びつけた。
 ミフラーブの中の戦士のいかに素晴らしきことか!

 ヌール=アッディーンはアブー=ハニーファの学派の法に造詣が深かったが、必ずしもその学派に固執はしなかった。彼はハディースを学び、それを他の人々に伝え、その対価を求めた。
 彼の正義について言えば彼はその領国を離れず、その領国においては、いかなる不正な税やウシュルをも課さず、エジプト、シリア、ジャズィーラ、そしてモスルでは彼はそれら全てを廃止した。彼はシャリーアに従い、その法に依って立った。ある男が、彼を裁判所に呼び出したので、ヌール=アッディーンはその男のもとへ出向き、カーディーのカマール=アッディーン・イブン=アル=シャフラズーリーに、「私はある事件の判決を受けるために呼び出された。他の訴訟当事者と同じように(私を)裁け」と書き送った。ヌール=アッディーンが勝訴したが、彼は自分を法廷へ呼びつけた男の言い分を聞いてやることにした。ヌール=アッディーン曰く、「私は彼が申し述べていることを認めてやろうと思う。私が唯一恐れるのは、シャリーア法廷に来ないほど私自身が強く尊大になってしまいうことだった。だから私は話を聞いたし、彼が起こした訴えも認めてやりたい」。彼の領国には「正義の館」が建てられ、そこでは彼や、カーディーたちが臨席し、もし被害者がユダヤ人であって、もしその被告が裁判官自身の息子であったり、権勢極まるアミールであったとしても、過ちを正し正義を行うのであった。
 彼の勇気について言えば、最も高い階位にあった。彼は二組の弓と矢筒を持って戦った。法学者のクゥトブ=アッディーン・アル=ニーシャーブーリーがヌール=アッディーンに言うことには、「神の道のために、イスラームとムスリムたちのためにも、御身を危険にさらすことをなさいますな。もし御身が流れ矢にでも当たれば、剣によって切り伏せられないムスリムは一人も残りますまいぞ」とのことであった。ヌール=アッディーンが答えて曰く、「そのように言われるべきなのはこのマフムードだと言うのかね? 私などおらずともイスラームの地をお守り下さったのは誰なのか? それは神以外にありえない」。
 彼の公共事業について言えば、彼はシリアの各地、例えばダマスカス、ホムス、アレッポ、シャイザル、バールベク、その他の地などに市壁と城壁を建築した。彼はさらに、シャーフィイー派とハナフィー派のマドラサを数多く建て、ヌーリーヤ・モスクをモスルに建設した。病院を建て、また主要道路沿いにキャラバンサライを、領国の各地にスーフィーのための寄宿舎を建築し、そのどれもに多くの寄付をした。私は彼のワクフ建築からの収入が月に9000ティール・ディナールに上っていたと聞いた。
 ヌール=アッディーンはウラマーや信心深い人々を尊敬していた。彼は、こういった人々に贈り物を与え、彼らを歓迎するために自ら出迎えた。ヌール=アッディーンは彼らに諮り、彼らの言うことを決して否定しなかった。彼はまた自身の見解において彼らと合意した。しかし、彼はその謙遜にもかかわらず、威厳があり、畏敬されていた。簡単に言えば、彼の長所は多く、彼の美徳はこの本に書ききれないほど多いということだ。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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