1.父祖の足跡と周辺情勢(上)

以下詳細
 
■祖父、白き鷹アクソンコル
 ヌールッディーンはイラク北部のモスルとアレッポを領有するアミール(武将・領主などの総称)、イマードゥッディーン・ザンギーの子として1118年(ヒジュラ暦511年)に生まれた。まずはヌールッディーンの先祖の足跡からたどってみることにしたい。
 ヌールッディーンの父方の祖父はカスィームッダウラ・アクソンコルで、当時イラン・イラクなどを押さえ中東の覇権を握っていたトルコ系王朝セルジューク朝のスルタン、マリクシャー(位:1072-92)に仕えるトルコ系マムルーク(奴隷軍人)だった。妻が何人いたかは分からないが、そのうちの一人はマリクシャーの乳母である。
 アクソンコルの父について詳しいことは分からないが、アブドゥッラーという名前だったらしい。
 「アクソンコル」とは「白き鷹」の意であるが、猛禽や猛獣の名前を持つトルコ系の軍人はこの時期、少なくない。セルジューク朝の創始者トゥグリル・ベクもその名の意味は「鷹侯」であり、その弟チャグリー・ベクは「隼侯」、チャグリー・ベクの息子アルプ・アルスラーンは「勇敢なる獅子」である。
 アクソンコルは1087-8年にマリクシャーからシリアの大都市アレッポの代官の職を任されており、優秀な統治者だったと伝えられる。モスルの歴史家イブン=アル=アシールの『完史』は主家に対する贔屓があるのでやや控え目に見るとしても、ダマスカスのイブン=アル=カラーニシーも「彼は極めて精力的で、加えて名声や尊敬を集めていた」と書いており、彼が隊商を保護し、盗賊を自ら討ち取ったエピソードなどが知られていたようだ。『完史』には以下のようにある。

 アクソンコルは自らの領地の全ての村の住民に、いつであれ彼らの近くで商隊が奪取されたり、人が捕らえられたりした場合、住民は額の多寡に関わらず、盗られたものの全額を補償しなければならないことを定めた。この政策によってどの隊商もいずれかの村に到着すれば、荷を下ろして眠り、出発まで村の住民に見はってもらえることになったのである。

 このように、マリクシャーのもとでアレッポにそれなりの善政を敷いていたアクソンコルではあるが、彼らを敵視する者がいた。マリクシャーの弟、タージュッダウラ・トゥトゥシュである。
 トゥトゥシュはセルジューク朝の分家であるルーム=セルジューク朝の建国者スライマーンと戦ってこれを敗死させるなど優秀な武将であったが、シリア方面に進出した後、シリアの首邑ダマスカスを足がかりに勢力拡大の構えを見せていた。これを警戒した兄のマリクシャーは自らシリアへ出向いて彼を牽制する。マリクシャーはシリアへは長い間留まったわけではないが、釘を刺すためにアレッポやアンティオキアなどシリア北部の諸都市に部下の部将を配置した。そのうちの一人がアレッポのアクソンコルだったのである。
 1092年、マリクシャーが37歳の若さで突然病没する。この直前に初期セルジューク朝を支えた名宰相ニザーム・アルムルクもニザール派(シーア派のうち、イスマーイール派の派内分派で「暗殺教団」として知られる)によって暗殺されており、セルジューク朝は二本の柱をほぼ一度に失い、混乱期に突入する。
 前述の経緯からマリクシャー派のアクソンコルはトゥトゥシュにとって目の上のこぶであり、1094年、トゥトゥシュはダマスカスから北方のアンティオキアやアレッポを攻撃すべく動きだす。セルジューク朝の中央ではマリクシャー没後、その息子ルカネッディーン・バルキヤールクが故ニザーム宰相の支持者たちの味方を得て勝ち抜いており、バルキヤールクはトゥトゥシュを警戒し、部将のキワームッダウラ・カルブガーをアクソンコルのもとへ援軍として派遣した。トゥトゥシュが北方を攻撃した理由について、『名士列伝』にはアクソンコルが「反乱を起こしたため」とあり、トゥトゥシュの側に正当性があるように書いているが、これは一面的な見方だろう。実際はマリクシャーの死によって起こるべくして起こった衝突だったと言っていい。
 アクソンコルとカルブガー、それにアクソンコルと同じくマリクシャーがアンティオキアに配置していた部将ブザンは連合し、トゥトゥシュと相対する。だが、この戦いはまるで勝負にならず、トゥトゥシュは連合軍を蹴散らしてアクソンコルを捕らえた。
 史実かどうかは確認するすべがないが、『完史』はアクソンコルの最期を以下のように伝えている。

 ほとんど総崩れの有様だったが、アクソンコルは断固として逃げ出さず、捕らえられた。アクソンコルが目の前に引っ立てられ、トゥトゥシュが問う。「もしお前が私に勝っていれば、お前は私をどう扱った?」。アクソンコルが答えて曰く「私はお前を殺していただろう」。トゥトゥシュは「私のお前に対する評決は、お前が私にしようとしたことだ(=殺す)」と言い、彼はアクソンコルを良心の呵責無く殺した。

 こうしてアクソンコルは殺された。
 ところで、少し脇道に逸れるが、カルブガーのその後を見ておく必要がある。
 逃亡に成功したカルブガーとブザンはアレッポに立て籠もるが、トゥトゥシュの猛攻の前にアレッポも陥落し、この二人の武将も捕らえられる。トゥトゥシュはブザンの支配下にあったハッラーンとエデッサを開城させるためにブザンを人質にとり交渉を要求するが、これを拒否され、その結果ブザンはトゥトゥシュに殺された。一方カルブガーは利用価値がまだあると見なし、トゥトゥシュは彼を幽閉する。
 翌1095年、トゥトゥシュは東方進出を企図し、イランのレイ近郊で甥のスルタン、バルキヤールクと戦う。だが、この常勝将軍はこの戦いであえなく敗死する。シリアもバルキヤールクに従うかに見えたが、トゥトゥシュの二子、リドワーンとドゥカークはそれぞれアレッポとダマスカスを領有し、マリク(王)を称しバルキヤールクの権威を認めなかった。シリア=セルジューク朝の事実上の分立である。とは言え、全要求を跳ねつけてばかりでは独立を維持できないためか、バルキヤールクがリドワーンに対してカルブガーの解放を要求した時は、彼はこれを受け入れている。
 解放されたカルブガーは近隣で職にあぶれていた兵を糾合し、現在のトルコとシリアの国境近くにある都市ハッラーンを奪取する。さらに彼は東進してイラク北部の争いに介入し、この地域最大の都市モスルを奪うことに成功した。

■フランク来たる
 この頃、コンスタンティノープルに首都を置く中世東ローマ帝国(以下便宜的にビザンツ帝国と呼ぶ)は、セルジューク朝の圧力に耐えかね、カトリックの総本山、ローマの教皇に助けを求めていた。当時のビザンツ帝国は軍事反乱によって権力を得たコムネノス朝の初代皇帝アレクシオス1世(位:1081-1118)の治世のもとにあった。アレクシオスは往年のビザンツの栄光を取り戻すべくその老練な政治力を存分に駆使していたが、ローマに援軍を求めた一手は思わぬ結果を呼び起こす。彼が得た援軍は、彼の意図を無視し、聖地イェルサレムを目指して進軍、中東に独立国家を打ち立ててしまうのだ。後に第一回十字軍の遠征と呼ばれることになる出来事であった。
 「十字軍」とは後世の呼称であり、当時は「巡礼」と呼ばれ、またビザンツ帝国の人々は彼らをまとめて「フランク」と呼んでおり、トルコ人やアラブ人もこれに倣って彼らを「フランク」と呼んだ。
 諸侯が率いる十字軍は現在のトルコ、すなわち当時はルーム=セルジューク朝の領土を抜け、アンティオキアへの攻撃を図る。
 当時のアンティオキアはその統治者ブザンがトゥトゥシュに殺された後、ヤギ・シヤーンという名のアミールが支配していた。彼はマリクシャーの元部下で、かつてはアクソンコルの同僚だった男である。
 ヤギ・シヤーンは援軍を各地に求めるが、シリア=セルジューク朝のダマスカスのドゥカーク、アレッポのリドワーンが共に敗退し、ろくな助けにならなかった。そこで彼が助けを求めたのがモスルのカルブガーである。
 カルブガーはシリア北部のダービク平原で野営し、アレッポを除く全シリアから援軍を募った。集まってきたのはダマスカスのドゥカーク、そのアタベク(後見人)であるザーヒルッディーン・トゥクテギン、アレッポのリドワーンのアタベクでホムスを支配していたジャナーフッダウラ、スィンジャールの領主アルスラーンターシュ、そしてアルトゥク朝のソクマーンその他の武将たちであった。
 だが、カルブガーは諸将に目的地の変更を告げる。北方のエデッサにも十字軍が侵攻しており、ボードゥアンという男が簒奪に近い形でこの地の支配権を奪い、エデッサ伯国を建てていたのだ。この後顧の憂いを除かぬまま背後を敵に晒しアンティオキアに向かうのは危険であると彼は説明した。しかし、この北方行きは結果的に無駄足となる。カルブガー軍の攻撃に対してエデッサの防備は固く、三週間を無駄にして得るものがないままアンティオキアに南下することになってしまったのだ。
 この間もヤギ・シヤーンはよくアンティオキアを守ったが、ある夜、内通者の手引きによってとうとうこの街は陥落し、ヤギ・シヤーンは逃亡途中に落馬してその生命を終える。カルブガー軍がアンティオキア近郊に到着したのは、そのわずか2日後のことだった。
 ヤギ・シヤーンは死去し、アンティオキアの市街は十字軍の手に落ちたが、ヤギ・シヤーンの息子シャムスッダウラは山の頂きの城に立てこもり、徹底抗戦を続けていた。カルブガー軍の到着に、シャムスッダウラは歓喜しつつも激怒する。全軍の指揮権をカルブガーが一方的に取り上げてしまったからだ。
 だが、そのそのカルブガーの指揮も貫徹されなどしなかった。特に、ダマスカスのドゥカークはカルブガーのシリア情勢への関与を警戒しており、この寄せ集めの諸将軍にカルブガーの野心を強調し、彼から離反するよう仕向けていた。
 1098年8月の決戦の日、十字軍は立てこもっていたアンティオキアから出撃し、カルブガー軍に突撃をかけた。ダマスカスのドゥカーク、トゥクテギンはカルブガーに災いあれとばかり真っ先に離脱しており、他の諸将も我先にと逃げ出す。
 立ち残っていたのはカルブガー、ジャナーフッダウラ、ソクマーンの三将だが、彼らも長くは持ちこたえられず逃走に移った。運が良かったのは、十字軍の兵士たちはあまりにあっけない遁走に何か罠があるのではないかと考え追撃をかけなかったことだ。
 だが、この戦いが敗北に終わったことで、十字軍はシリア沿岸部を南下し、トリポリ、イェルサレムを手に入れ、エデッサ伯国を含め都合四つの十字軍国家を打ち立てることになる。北から順にエデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、イェルサレム王国となり、ヌールッディーンが戦わざるを得なかった十字軍国家は、この時に生まれたのである。だが、これ以降十字軍、とりわけ現地に入植してしまった十字軍は急速に宗教色を薄め、現地の諸侯と何変わらぬ存在となり、各々の利害関係に応じてムスリム勢力とも結ぶようになる。これが後々新参の十字軍兵士などとの軋轢を引き起こすのだが、それは後の話だ。

■アクソンコルの遺児ザンギー
 ところで、カルブガーの経歴を追ってきたことには理由がある。彼が十字軍侵攻の初期の成り行きに大きく関わっているのももちろんなのだが、アクソンコルがトゥトゥシュに殺された後、その遺児ザンギーを拾い上げたのが他ならぬカルブガーだったのだ。
 イブン=アル=アシールによれば、ヌールッディーンの父、イマードゥッディーン・ザンギーがアクソンコルの息子として生まれたのは1084-5年頃だという。アクソンコルが殺害された1094年には10歳前後ということになる。
 命からがら逃げ出したザンギーは、モスルのカルブガーを頼る。
 この時期、セルジューク朝のスルタン、バルキヤールクはトゥトゥシュを含む叔父たちの挑戦を次々と退け、その地盤を確固たるものとするかに見えていたが、強力なライバルの異母弟ムハンマド・タパルが現れ、彼との間でスルタン位を巡って五度の戦闘を行うことになる。そのため、セルジューク朝の中央は十字軍への対応が取れず、カルブガーら在地の諸侯が対応せざるを得なかった。
 また、中央でのスルタン位争いと連動して、あるいは各々の思惑から、諸侯どうしの私戦も行われるようになる。カルブガーは周辺の諸侯と争っていたが、遅くとも1099年頃、15歳前後までにはザンギーはこの君主のもとで初陣に出ていたようだ。
 カルブガーは1101-2年頃に死去するが、ザンギーはその後も歴代のモスル領主に仕え武功を上げていった。
 ちなみにカルブガーはアクソンコルの兄弟だと称していたが、実際のところどうなのかは不明である。
 1118年、ザンギーがモスルにいた時期、彼の次男としてヌールッディーンが生まれている。長男のサイフッディーンの誕生はこれより前、1106-7年のことだ。
 1121年、ザンギーの父と同じくアクソンコルという名を持つ武将、アクソンコル・アル=ブルスキーが正式にモスル領主として任命された。彼は敬虔な人物で、イブン=アル=アシールは以下のように伝えている。

 ブルスキーはトルコ人のマムルークで慈悲深く宗教者を尊敬し高潔だった。彼は正義のなんたるかを知り、それを行った。彼はもっともよき統治者の一人であり、正確な時刻に祈りをささげるため、その時間まで眠らなかった。

 後にヌールッディーンは、彼の父ザンギーよりも父の上司アクソンコルに似た性格を持つことが明らかになる。
 それはさておき、ブルスキーは1125年にアレッポの代表者たちの招聘を受け、十字軍に対抗するためアレッポへと進軍する。
 アレッポはリドワーンの没後、事実上の無政府状態に陥っており、各地から指導者を受け入れ、守ってもらわねばならない状況に陥っていたのだ。
 ブルスキーは迫っていた十字軍を追い払ったものの、敵領に対しては積極攻勢に出なかった。というのも、アレッポ方面では軍事力の確保が難しく、大規模な戦闘を行おうと思えばモスルのある北イラクで募兵せねばならず、非常に非効率的だったためである。これは彼以前にアレッポへ入っていたアルトゥク朝のイルガーズィー(前述のソクマーンの弟で、1108年には死去したソクマーンの遺領を引き継いでいた)も事情は同じだった。アルトゥク朝はこの非効率性のためにシリア情勢から手を引いており、そこへブルスキーが招聘された形になる。
 もっとも、ブルスキーのアレッポ支配はモスルに対するアレッポの服属という状態を作り出し、後にザンギーがシリア進出をする時の足がかりとなる。
 ではあるが、ブルスキーのアレッポ支配は長くは続かない。1126年11月、ニザール派によってブルスキーが暗殺され、その二ヶ月後、政権を継いだ彼の息子も凶刃に倒れてしまうのだ。同時期、ダマスカスではトゥクテギン(前述の通りドゥカークのアタベクだった男。事実上のダマスカスの支配者となっていた。彼の政権をブーリー朝と呼ぶ)の死期が迫っていた。
 アレッポ、ダマスカスというシリアの二大都市が強力な指導者を失う中、歴史の表舞台に浮かび上がってきたのが、ザンギーである。

■アッバース朝の策動
 ザンギーがモスルの一介の武将から一気に駆け上がったのは、アッバース朝の復権運動と関わりがある。
 アッバース朝はブワイフ朝のバグダード入城(945年)以来、実権を持たず、兵力と言えば宦官の多い私的な警備隊数百人でしかなかった。しかし、この時期になるとにわかにアッバース朝の復権の兆しが現れる。
 やや遡って1118年、カリフ、アル=ムスタズヒルが死去し、その息子、アル=ムスタルシドが即位した。イブン=アル=アシールによればムスタルシドは「強くまた勇敢であり、非常に大胆で、遠大な夢を持っていた」という。詩人ニザーミーもその『四つの講話』の中で彼について「コーランの注釈者たる教友以来、かかる流麗かつ雄弁な話をした者はいない」と書いている。『四つの講話』は必ずしも全面的に信用できる史料ではないが、彼が弁舌に優れていたのは確かなようである。
 ムスタルシドはアッバース朝内のお家争いを利用して軍権を取り戻し、その弁舌によってバグダードの民衆を味方につけ、セルジューク朝の支配下の南イラクにあったアラブ系の地方王朝、マズヤド朝のデュバイス2世などと戦い、影響力を拡大していった。
 ムスタルシドがマズヤド朝と戦った際、モスルのブルスキーもムスタルシド軍に参加しており、ザンギーはブルスキーの部下としてこの戦いで活躍したことが伝えられている。
 1120年代半ばにザンギーはブルスキーのもとを離れてペルシア湾の最奥部の港町、バスラの駐留軍の司令官となっていたのだが、彼のもとへセルジューク朝のスルタンとなっていたマフムード2世から救援要請が届く。ムスタルシドがスルタンに反旗を翻したというのである。
 ザンギーはカリフを相手にして遠慮無く戦い、彼を宮殿に押し込めることに成功する。
 ムスタルシドはしばらく鳴りを潜めるが、アッバース朝の復興運動じたいはそう簡単に消え去るようなものではなく、ムスタルシドの再度の蜂起を経て、ヌールッディーンの時代にはムスタルシドの弟、ムクタフィー2世がセルジューク朝と互角に渡り合うこととなる。

■「東方の暴君」
 ザンギーはこの戦功をスルタンから認められ、モスルとアレッポの統治を委ねられた。1127年、時にザンギー43歳の頃、これをもってザンギー朝の成立とする。当時の寿命からすれば、それほど余命が残されているとは言い難いのだが、旧ブルスキー系のアミールたちを糾合し、ザンギーはここから本領発揮とばかりに八面六臂の活躍を見せはじめた。
 イブン=アル=アシールによれば、ザンギーは武人として極めて優秀で恐れを知らず、また山の城壁の上の敵めがけて槍を投げるような凄まじい膂力の持ち主であったという。統治者としては武人としての資質ほど恵まれたものを持っていたわけではないようだが、既存のモスクに財産の寄進をしたり、部下へは不正への厳罰とともに功績への賞与を徹底し、耕された畑には踏み入らぬなど、通り一遍のセオリーは押さえていたらしい。最後の畑の件については、単なるエピソードに留まらない彼の構想との関係があるのだが、それは後述する。
 十字軍史家トマス・アスブリッジは彼を「東方の暴君」と呼んでいる。これも云われのないことではない。アスブリッジは年代記からザンギーについての以下のような記述を引用している。

 彼の性格は豹のようであり、ひとたび怒ると獅子のごとくで、その厳格さは加減を知らず、またいかなる思いやりも持ちあわせていなかった。

 イブン=アル=アシールはザンギーのことをべた褒めしているが、一方でこの引用もまた、彼の性格の一面を表すものだっただろう。
 さて、ザンギーはシリア=セルジューク朝のリドワーン王の娘と結婚してアレッポ支配の正当性を示し、父アクソンコルの遺体をアレッポに移葬し、自らもアレッポに骨を埋める覚悟を示した。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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