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2.父祖の足跡と周辺情勢(下)

以下詳細
 
■鉄壁の宿将ウヌル
 ザンギーはアレッポを得たが、アンティオキア公の死に伴う十字軍国家の内紛への介入や、アッバース朝のムスタルシドの再度の蜂起の対応、モスル~アレッポ間の連絡路の確保のための各都市の征服などに追われ、しばらくは落ち着く暇が無かった。
 特にアッバース朝のムスタルシドは兵を集め、親征の上、あまつさえザンギーを破っている。実のところ、これは野戦でザンギーが敗れた数少ない戦いのうちの一つである。この時、ザンギーの逃走を助けたのがティクリート城代のナジュムッディーン・アイユーブという男だが、彼は後に重要な役割を果たすことになる。
 ムスタルシドは勢いに乗ってモスルを包囲したが、ザンギー自らが補給線を断ち、さらにセルジューク朝のスルタン、マスウードがバグダードを狙っているために引き上げ、後にニザール派の刺客に殺されることになる。
 ザンギーがアレッポを固める一方、ダマスカスはトゥクテギンが死去し、その息子タージュルムルク・ブーリーの短い治世の後、ムイーヌッディーン・ウヌルという老練な軍人が実権を掌握するところとなる。彼はかつてのダマスカスのあるじトゥクテギンのもと同僚のマムルークで、防衛にかけては外交と軍事の両面で信じがたいまでの粘り強さを発揮し、後には神聖ローマ皇帝とフランス王の参加した第二回十字軍さえ撤退させることになる。
 ムスタルシドも強敵ではあったが、ダマスカスのウヌルほどザンギーの宿敵と呼ぶに相応しい男はいない。しばらくの間、シリア情勢はウヌルとザンギーの南北対立を軸に動いてゆく。
 ザンギーはアレッポに入り、その経済的困窮に驚いた。イブン=アル=アシールは「ザンギーの領地は、彼が征服する以前、入れ替わる統治者たちの圧政と、フランクの領土に近いことによって荒廃した土地だった」と書いている。アレッポ周辺の農地は、十字軍の略奪遠征の良いカモとなっていた。
 先にアレッポに招聘されたイルガーズィーやブルスキーがアレッポからの大規模な攻勢に出ることができなかったのは、この困窮が原因の一つだった。イルガーズィーやブルスキーは定期的に本拠地とアレッポを往復し、この二つの地域の軍事力を連動させて用いようとしたが、これは先述の通り極めて非効率的な方法で、アレッポ方面では攻勢に出るどころかほぼ防衛で手一杯だった。ザンギーは、アレッポはアレッポ、モスルはモスルでそれぞれ別に行動できる軍事力を確保し、それぞれの地域での問題に対処できるような体制を創りあげようとした。ここに、後にヌールッディーンのザンギー朝アレッポ政権独立を可能とした要因の一つを見ることもできよう。
 だが、その体制構築のためにはアレッポ方面での独自兵力を得る必要があり、その兵力を養うための農業生産力の確保が急務だった。先に、ザンギーが畑を荒らさなかったと書いたが、その裏にはこのような切羽詰まった事情があったのである。
 アレッポのシリア方面軍の独自指揮をとれる人材じたいは幸いなことに見つかった。サイフッダウラ・シワールという軍人が、ダマスカスのブーリー朝で失脚し、1130年にザンギーに登用されたのである。シワールはアレッポ軍の独自指揮を行う権限を与えられ、ザンギーとは別個の軍事作戦を遂行していた。
 シワールに略奪戦を行わせ、またアンティオキア公国の内紛に乗じ、十字軍の略奪遠征の拠点となっていたアサーリブを徹底的に破壊することによって当面の軍事力を確保しつつ、ザンギーは農地の確保のためにこれまでの十字軍国家を含めたシリアの勢力均衡を一気に突き崩す策を見せる。ダマスカス方面への南下がそれだ。
 これを待ち受けるのはブーリー朝のウヌル。アレッポとダマスカス、このシリアの二大都市の間で、壮絶な駆け引きが始まった。

■南へ
 アレッポからダマスカスへは、街道沿いにおよそ350km。ザンギーは既にウヌルの前任者、ブーリーが存命の1129-30年にハマーをブーリー朝から策略を用いて奪っている。ザンギーが十字軍に対する共同戦線を呼びかけたところ、ブーリーはダマスカスの君主としては例外的に対十字軍強硬派だったのでこの誘いに乗り、援軍と息子のバハーウッディーン・サヴィンジを派遣してきた。ザンギーは彼らを武装解除して牢に放り込み、身代金としてハマーを要求したのである。
 ダマスカスのイブン=アル=カラーニシーがザンギーのことを「聖戦を騙る詐欺師」と呼んでいるのも無理もない。ザンギーはこの策略によってハマーを手に入れ、この時点で、ダマスカスまでおよそ210kmまで迫った。続いて彼はホムスを奪おうとしたが、これは今回は失敗している。その後、モスル方面でムスタルシドへの対処に当たらねばならなかったことと、モスル方面でアルトゥク朝勢力を服属させるために時間を取られ、しばらくシリア情勢には関与できていない。
 だが、1135年1月、モスル方面での問題が一段落したところで千載一遇の好機が訪れた。ブーリーがニザール派の刺客から受けた傷がもとで落命するが、その息子イスマーイールが政権内で孤立し、ザンギーに助けを求めて彼を招聘しようとしたのである。
 ザンギーは喜び勇んでダマスカスへ向かうが、一歩遅かった。ある男が既にダマスカスの政権を掌握してしまっていたのだ。先のハマー奪取の背信のツケが、ダマスカス市民の警戒を呼び起こしてしまい、この男に政権を取らせるという形で現れてしまった形になる。
 彼こそが他でもないムイーヌッディーン・ウヌル――ザンギーの前に終生の宿敵が立ちはだかった瞬間である。
 ザンギーは激怒してダマスカスを包囲するが、防備は固く、簡単には落とせない。結局、ザンギーはダマスカスに名目上の宗主権を認めさせるのみで引き上げざるを得ない。これがザンギーの一度目のダマスカス包囲であった。
 ちなみに、この後ザンギーは腹いせに十字軍の砦を一気に四つ奪っている。
 ザンギーは諦めていない。1137年6月、ザンギーは部下のサラーフッディーン・ムハンマド(アイユーブ朝のサラディンとは別人)に先遣隊を率いさせ、再びホムスを包囲した。サラーフッディーンはかつてのアンティオキア領主ヤギ・シヤーンのマムルークだった男で、ザンギーのアレッポ入城の際にも話をつけるのに功があり、シリアにおいてはハマーにイクター(この場合は事実上の知行地)を与えられ、度々南進の先陣を切ることになる。
 ウヌルがホムスで防衛の指揮を取り、戦闘が長引きはじめたところで横槍が入った。ザンギーが本拠地にきわめて近いホムスを得ることを警戒したトリポリから十字軍が向かってきたのである。
 ザンギーはやむなくウヌルとの戦闘を切り上げ、この地域で十字軍の最強の砦、バーリンを包囲する。トリポリ兵はイェルサレム王国に援軍を求めたので、イェルサレム王フールク・ダンジューは急いでかけつけた。
 これがザンギーと十字軍の一回目の野戦だが、成り行きを見れば分かる通り、ザンギーにしてみれば一種のアクシデントだった。十字軍はものの数時間で蹴散らされ、援軍を求める使者を急いで送り出し、バーリンに立てこもらざるを得なかった。

■情報戦
 このバーリン包囲戦は、ザンギーの主観からすれば大して重要な戦闘ではなかっただろうが、ザンギーの戦略を考える上で格好の材料になるので少し詳しく見てみよう。
 バーリン城塞に立てこもった十字軍に対して、ザンギーは徹底した封鎖に出る。イブン=アル=アシールは以下のように書いている。

 ザンギーは彼らを城塞に包囲し、何も受け取ることが出来ないようにした。それが例え情報であっても、である。フランクたち(十字軍)は、国内で何が起こっているのか全く情報を得ることが出来なかった。というのも、道路は隅々まで監視されていたからである。

 アミン・マアルーフはその著書『アラブが見た十字軍』の中で、このような封鎖はアラブに対してなら効果が無く、伝書鳩を用いて情報はすぐに伝わっただろうと述べている。十字軍はまだ伝書鳩という技術を得ておらず、中東滞在中にこのシステムを学ぶことになる。
 ザンギーは各地に情報網を張り巡らせ、遠く離れた諸都市でも何が起きているのかを把握していた。「情報」、これはザンギーのみならずヌールッディーンも大いに利用し、さらに発展させることになるツールである。
 さて、バーリンを包囲していたザンギーは、突然相手に有利な降伏条件を提示した。バーリンの引渡しに加え、5万ディナールの身代金を支払えば、兵の無傷での立ち退きを認めるというのである。イェルサレム王フールクは、好条件に喜んで飛びついた。しかし。

 バーリンを去って間もなく、彼らは助けにやって来た強力な援軍に出会ったので、早まった降伏を悔やんだものの、遅きにすぎた。フランクが外界から完全に遮断されていたからこそ、この事態が生じたのである。

 イブン=アル=アシールがこう伝えている通り、既に強力な援軍が迫っていたのだ。ザンギーだけがこの情報を握っていた。
 この後、ザンギーはビザンツ皇帝ヨハネス2世の進撃を迎えるが、書状によって敵軍内の仲間割れを誘い、援軍到達の偽情報を流すなどして撃退する(この経緯は、中村妙子「ヨハンネス2世のシリア遠征とザンギーの南進策 ―12世紀前半シリアの勢力構図の変動―」に詳しい)。

■再び南進
 十字軍とビザンツに関わる面倒事を片づけ、1136年、ザンギーは再び南を目指す。
 この時は奇妙な縁談が持ち上がった。ダマスカスのブーリーの妻だったサフワットムルク・ズムッルドとザンギーが結婚するというのである。婚資はホムスで、ザンギーは代替地として先に手に入れたバーリンをダマスカスに譲渡している。
 ズムッルドはホムスに入り、この街をザンギーに引き渡した。この時点で、ダマスカスへの道のりはハマーからの約210kmから約160kmまで縮んだ。
 この後、ザンギーはモスルへ戻り、アルトゥク朝を相手取ってモスル方面の勢力拡大を行なっている。モスル方面が一段落し、アルトゥク朝を完全に服属させたところで、彼は再びシリアに戻ってきた。1139年、ザンギーと結婚したものの放って置かれていたズムッルドがザンギーにダマスカス攻撃を要請した。彼女の子供が殺されたのだ。
 ザンギーはまずバールベクに狙いを定めた。ここはアレッポとダマスカスを結ぶメインの街道からはやや遠回りになるが、ビカー平野を要する重要かつ肥沃な穀倉地帯だった。農地の確保というザンギーの目的の一つからすれば、外すことの出来ない目標だったはずだ。
 ザンギーは守備隊の抵抗に手を焼きながらもバールベクを奪取。これで、ダマスカスまでの道のりは約100kmまで詰まる。
 満を持して、ザンギーはダマスカス包囲にかかる。
 だが、ここでもウヌルは粘り強く一手を打ってきた。イェルサレム王国と正式な同盟を結んだのである。そもそも歴代のダマスカス政権はブーリーを除けば十字軍に対して協調的であり、これも異とするに当たらない。
 ウヌルはザンギーに寝返っていたバニヤースを占領し、これを十字軍に引き渡す。その他諸々の条件を互いに履行し、ダマスカスとイェルサレム王国の同盟はかなり強固なものとなった。
 ザンギーはこの同盟の前にひとまず兵を引く。バールベクは信頼できる部下、アイユーブに預けた。

■アイユーブという男
 さて、ここでザンギーの部下のナジュムッディーン・アイユーブという男が出てきた。以前、カリフ軍から追われていたザンギーを助けたティクリート城代である。
 1138年頃、アイユーブの弟、アサドゥッディーン・シールクーフがとある女性の名誉を守るためにキリスト教徒の官吏を殺してしまうという事件が起こった。アイユーブの息子、後の英雄サラディンが生まれた、なんとその当日のことだ。アイユーブの上司は当局に知られることを恐れ、即刻ティクリートからの立ち退きをアイユーブ一家に求めた。
 この時、アイユーブが頼ったのがザンギーだったのである。
 ザンギーはかつての恩人を暖かく迎え入れた。この男が、必ずしも冷血漢でなかった証明になろう。この後、アイユーブはザンギーの長男サイフッディーン・ガーズィーの下に、シールクーフはザンギーの次男ヌールッディーン・マフムードの下に、それぞれ配属される。これがこの兄弟の命運を分け、後にヌールッディーンのダマスカス占領へと繋がるのだが、それは後の話だ。
 アイユーブについて、イブン=アル=カラーニシーは「決断力と知性、それに状況への対応能力に優れていることで知られている男」と書いている。

■エデッサ陥落
 ダマスカスまで100kmまで迫りながらもイェルサレム王国とダマスカスの同盟に阻まれたザンギーは、方向を転換し、北部のエデッサ伯国に狙いをつけた。
 当時のエデッサ伯はジョスラン2世。アルメニア系の住民が多い中で、アルメニア人の母から生まれた彼は、領内の家臣をよく掌握していた。
 1144年、最初の目標はエデッサではなくディヤルバクルのアルトゥク朝だった。ザンギーがアルトゥク朝を攻撃していることを知り、エデッサへ向かう余裕が無いだろうと判断したジョスランはエデッサを空ける。だが、これはザンギーの陽動だった。
 ザンギーは予てより情報提供を受けていたハッラーンのライース(市長)から、ジョスランが城を出たという報せを受け、エデッサへ向けて全速で転進する。ジョスランは全く守備隊を残しておらず、街の防衛を担ったのは文字通り市民たちだった。
 ザンギーは何度か和平案を出したが、エデッサの強硬派はこれを拒否し、徹底抗戦を主張する。
 攻城側は自前の兵力に加え、前年に服属させていたハッカーリーのクルド人やシャフラズールのトルコ人などを動員し、さらに多数の投石機を擁していた。ザンギーはこの準備を存分に生かしながら、同時に坑道を掘り始めた。地下から城壁を崩すためである。
 ザンギーは籠城側に呼びかける。「何日か休戦がほしいなら、そうしてもいい。そして援軍か来るかどうか確かめよ。もし来なければ、降伏して命を全うせよ!」
 だが、この呼びかけも黙殺され、坑道が城壁の地下にまで通ったところで、坑道を支える木枠に火が放たれた。
 城壁が崩れ、攻め手が市街に突入する。三日の間虐殺と略奪の嵐が吹き荒れた。四日目にザンギーが介入してこれを静止し、現地のシリア人司教に街の管理を委ねた。アルメニア人やシリア人はそれぞれ家に帰ることを許されたが、フランク人たちは殺されるか連れ去られるかの憂き目にあったという。

■ザンギー死す
 エデッサ奪還の報に中東は沸き立った。カリフ、ムクタフィー2世は大仰な称号を彼に与え、ザンギーはイェルサレム回復の期待の星となる。
 だが、信仰心など大して持ち合わせていないこの男に、イェルサレム回復の意図は無かった。
 エデッサの穀倉地帯を押さえたザンギーは、再び南を狙い、アイユーブに委ねていたバールベクでダマスカス攻めの準備をはじめる。しかし、エデッサ方面でのジョスランの策動や、反抗的な地方政権ウカイル朝の折檻など、問題がいくつか浮かび上がり、しばらくは領内の安定のために南進を中断せざるを得なかった。
 そして1146年、ウカイル朝の城塞カルアト・ジャアバルを包囲していた陣で、大酒を煽ってザンギーは寝ていた。突然物音がしたので目を覚ますと、彼の奴隷のヤルンカシュという男が彼の酒を勝手に飲んでいる。ザンギーは怒り、明日きつく罰するぞと言いつけて再び眠った。
 ザンギーは信賞必罰を徹底する男だったので、ヤルンカシュは恐れ、こっそりと彼の寝床に近づき、短剣の一撃を浴びせてジャアバルへ走った。
 イブン=アル=アシールは、以下のようなザンギーの近臣の言葉を書き留めている。

 私は彼が生きている間に彼の元へ急いだ。彼が私を見た時、私が彼にとどめを刺そうとしにきたのだと思ったのだろう。私に指で印を作り、許しを請うた。私は恐れ、彼に問うた。『閣下、誰がこのようなことを!』。彼は、しかしそれを伝えることは出来ず、息絶えた。神よ、彼に慈悲を垂れ給え!

 この梟雄の突然の死に、一帯は大混乱に陥った。十字軍国家のうち、アンティオキア公国はアレッポの城下に迫り、エデッサを奪われたエデッサ伯国は首都奪還に向けてより活発に動き出し、またダマスカスのウヌルもザンギーが南進してきた諸都市を再びダマスカス領に組み込むために北上する。
 中東情勢は、まるで元の木阿弥になるかに見えた。
 だが、この混乱は主人公ヌールッディーンが歴史の表舞台に現れるための演出に過ぎないのである。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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