3.アレッポ王ヌールッディーン

以下詳細
 
■ヌールッディーン登場
 やっと本稿の主人公、ヌールッディーン・マフムードが登場する。
 この男、父ザンギーが死去した1146年当時29歳。長身で肌は浅黒く、ヒゲダルマだった父とは対照的に眉目秀麗で顎以外には鬚を生やしていなかったという。
 ヌールッディーンはザンギーが殺害されたカルアト・ジャアバル包囲戦に参加していたため、父が身に着けていた印璽の指輪を手に入れ、即包囲を解いてアレッポへ向かった。
 この時、ザンギーはまだ後継者を決めていなかったらしく、それぞれのアミールたちは思い思いの行動をとっている。候補者となるのは三人で、ザンギーが後見していた名目上のモスル君主アルプ・アルスラーン、ザンギーの長男サイフッディーン・ガーズィー、そして次男ヌールッディーン・マフムードだった。ザンギーにはまだ二人息子がいたが、この時は彼らは幼なすぎたため問題にはなっていない。
 まず、アレッポでは、独自行動権を与えられていたアレッポ方面の軍事責任者、サイフッダウラ・シワールがヌールッディーンを支持し、アサドゥッディーン・シールクーフも彼に従ったので、アレッポを確保することができた。
 次に、モスル方面ではアルプ・アルスラーンとサイフッディーンが競り合うことになった。アルプ・アルスラーンもヌールッディーンと同じくカルアト・ジャアバル包囲に参加しており、正規騎兵と、南進の切込隊長サラーフッディーン・ムハンマドを伴い、モスルへ向かった。
 一方、サイフッディーンは自領のシャフラズールに滞在していたため、ザンギー暗殺の報せが届くのが遅く、出遅れることになる。だが、状況は彼に味方した。
 アルプ・アルスラーンに同行していたサラーフッディーンは、途中で離脱の許可を求めてヌールッディーンの許へ走った。同時に、モスル政権を掌握していた宰相のジャマールッディーン・ムハンマド、ザンギーの部下としては最古参のザイヌッディーン・アリーなどはサイフッディーン支持を明確にし、アルプ・アルスラーンの進軍を妨害、アルプ・アルスラーンはザンギーの有力アミールの一人に殺されるところとなる。
 モスルのジャマールッディーンと、アレッポ方についたサラーフッディーンはもともと対立関係にあったものの、互いの利益からザンギー朝の存続に合意しており、また、ジャマールッディーンとシールクーフも連絡があったようで、彼らの間で事態収拾が図られたようだ。
 ともあれ、東方のモスルはサイフッディーンが、西方のアレッポはヌールッディーンが、それぞれ押さえるところとなった。

■ウヌル北上、十字軍の反撃
 この機を捉え、ダマスカスのウヌルは失地回復に乗り出す。
 まず彼はザンギー死去の報が届いてすぐ、ザンギー朝に服属している最南端の街バールベクを包囲した。この街を統治していたのは前述のとおりナジュムッディーン・アイユーブである。ザンギーの息子たちはどちらも救援に駆けつけられるような状況ではなかったから、アイユーブは数日の抵抗の後に水が尽き、ウヌルと協定を結んでバールベクを明け渡した。ザンギーが死んで一ヶ月も経たぬ1146年10月9日のことである。この後、アイユーブは巧妙な立ち回りを演じ、ダマスカス政権の内部に食い込む動きを見せる。
 さらにウヌルはヒムスとハマーにも宗主権を認めさせた。ただ、この時はバールベクの時とは違い、統治者の立ち退きを求めていない。アレッポをヌールッディーンが確保した後、ハマーをイクターとしていたサラーフッディーンはすぐにハマーへ赴いており、ウヌルも容易に手出しできなかったものと思われる。実際、ハマーはウヌルの宗主権を一応は認めたものの、サラーフッディーンは明らかにヌールッディーン政権側の一員として行動している。
 また、この後ウヌルはカルアト・ジャアバルに受け入れてもらえず逃亡していたザンギー暗殺の下手人ヤルンカシュを捕らえ、ヌールッディーンの許へ送った。この新しいアレッポ領主の出方をうかがっていたようだ。
 ウヌルと同時に十字軍国家もアレッポへの反撃を開始した。アンティオキア公レイモンがアレッポへ迫っていたが、まずこれを撃退する。
 さらにエデッサ伯ジョスラン2世はエデッサのアルメニア系住民を煽り、ムスリムの統治者に対して反乱を起こさせた上でエデッサに入り、その奪還に成功した。しかしヌールッディーンは報せを受けるとすぐさま騎兵を走らせ、防備を固めていないエデッサを再度占領することに成功する。モスルの兄、サイフッディーンもエデッサへ派兵していたが、到着せぬままその道中でヌールッディーンのエデッサ占領の報を聞いたほどの早さだったという。
 この時、一度ザンギーに許されておきながら背信したアルメニア人たちをまとめて処刑している。

■兄、サイフッディーン
 アレッポはヌールッディーンが押さえたが、モスルには彼の兄、サイフッディーン・ガーズィーが入城していた。サイフッディーンはこの時およそ40歳。イブン=アル=アシールによれば、「気前がよく勇敢かつ知的な男」だったという。二日に一度は兵士たちと共に食事をしたというエピソードが残っている。
 モスル方面でもザンギーに叩かれてモスルに服属していたアルトゥク朝がこの機に乗じて離反しており、彼もその対応に追われていた。
 アレッポ政権、モスル政権ともに、諸問題への対処の合間を縫って兄弟会合が設定された。これまでの成り行きでそれぞれがモスルとアレッポを領有することになったが、その精算を行うためである。これにはシールクーフと、モスルの宰相ジャマールッディーンのパイプが役立った。
 サイフッディーン、ヌールッディーン兄弟は抱き合って和解し、サイフッディーンは「私の望みはフランク(十字軍)と諸王が我ら二人(の意志)が一致していることを知ることだ。そうしたら悪事を望む者も我らがいるところでは手を引くだろうから」と述べた。実際、敵対的な勢力から自領を守ることの方が優先で、兄弟間の争いは出来れば避けたいところだっただろう。最初に書いたが、焦眉の急が十字軍だけではなく、「諸王」も含まれていることには注目しておかなければならない。
 サイフッディーンは、自らが優位に立ちつつも、ハーブール川を両政権の境界と定め、弟のアレッポ政権の独立を半ば認めた形を取った。
 この会合は、1146年10月頃だと推測される(柳谷あゆみ「ザンギー朝二政権分立期の研究――モスル政権の動向から」)。

■ダマスカスとの和解
 1147年4月、ダマスカスとアレッポの間で婚姻同盟が結ばれた。結婚するのはヌールッディーンと、ウヌルの娘イスマトゥッディーン・アーミナ。彼女は数奇な運命をたどることになるが、それは後述する。
 さらに、この直後の5月、ダマスカスに服属しているボスラのアミールがダマスカスに対して離反行動を取った。悪いことに、イェルサレム王国の支援を受けている。イェルサレム王国はダマスカスと同盟を結んでおり、これは明らかな盟約違反だ。ヌールッディーンはこれ幸いとばかりさっそく結んだばかりの婚姻同盟に則り、ウヌルに協力してこの反乱を叩き潰した。イブン=アル=カラーニシーが「この愚かな男は誰がダマスカスの統治者になろうとフランクたちが助けてくれるため、持ちこたえられると信じていた」と書いている。確かに、あまり頭のいい選択だったとは思えない。結局、彼は裁判で目潰しが妥当との判決を受け、失明させられてダマスカスに家を与えられ余生を過ごしたという。
 それはさておき、ヌールッディーンはこの後ダマスカスのアタベク宮に三日間逗留している。ウヌルと何らかの話し合いが持たれたのだろう。あるいは、シールクーフとアイユーブがこの時に再会を果たしている可能性もある。彼がダマスカスを離れたのは、1147年7月初めのことだった。

■第二回十字軍来たる
 1148年6月、ドイツ王コンラート3世とフランス王ルイ7世率いる十字軍が、イェルサレム王国の港町、アッカに集まった。道々、ルーム=セルジューク朝のマスウードの攻撃を受けるなどして数を減らしていたが、イブン=アル=カラーニシーはその数を、誇張はあるだろうが「10万以上」と伝えている。
 ドイツ、フランス、イェルサレムの連合軍は、ダマスカスを攻撃目標に定めた。ダマスカスは長くイェルサレム王国の同盟国であり、この背信の理由のはっきりしたことはよく分からない。複数の理由が絡み合った結果だろうが、種々論じられているところはあるので詳細はそちらに譲るとして、戦闘の経過を見てみよう。
 先のボスラの件でイェルサレムの背信に怒っていたダマスカスは、今回の攻撃でもはやザンギー朝に助けを求めることをためらわなくなった。
 戦闘開始は7月24日。ウヌルはザンギーさえ寄せ付けなかったその指揮でもってダマスカス防衛に全力を挙げ、同時にモスルのサイフッディーンに救援を求めた。この時、ヌールッディーンには救援要請は出ていない。理由ははっきりしないが、結果的にサイフッディーンはヌールッディーンを伴って行動したのでヌールッディーンもこの作戦に参加している。兄弟はホムスに入り情勢を見守った。
 ウヌルは十字軍の現地組、遠征者それぞれに手紙を送って分裂を誘い、サイフッディーンが分遣してきた援軍も得て反撃に打って出た。十字軍は分裂し、ゲリラ攻撃に悩まされ、攻撃開始4日後には敗走を始めていた。
 この後、ウヌルとヌールッディーンはバールベクで会合してホムスとトリポリの間にあったアライマ城塞を共同で攻めることに同意し、この砦を奪取している。

■アンティオキア公国との攻防、イナブの戦い
 兄と和解し、エデッサはひとまず再征服にとどめ、ダマスカスとも同盟を結んだヌールッディーンが専念していたのは、アンティオキア公国への攻勢だった。
 第二回十字軍が到着する前の1147-8年にアルターフ、マーブーラ、バサルフート、カファルラーサーを奪取し、第二回十字軍が一段落した後にヤグラーでアンティオキア軍を撃破する。
 1148年末にはヌールッディーン軍はアンティオキア軍と戦って一敗地に塗れたが、1149年6月、ヌールッディーンは再度アンティオキア公領に侵攻し、ハーリム要塞を包囲した。この時はダマスカスのウヌルにも援軍を要請しており(ウヌル自身は参加していない)、騎兵だけで6000を揃えた。
 アンティオキア公レイモンはこれに対抗するため軍を編成してヌールッディーンと会敵すべく進軍、イナブ近くで激突するところとなる。アンティオキア軍は騎兵4000に歩兵1000、同盟者のクルド人、アリー・イブン=ワッファー率いるニザール派の兵も加わっていたという。
 ヌールッディーン軍がアンティオキア軍の接近に反応して引き払ったので、レイモンはこれに安心して平原に野営した。だが、これはヌールッディーンの偽装退却だった。彼は少し距離を置いたところから斥候を放って、夜間のうちにアンティオキア軍の情報を集めておいた。
 翌日早朝、ヌールッディーンは電光石火の速さでアンティオキア軍に襲いかかり、彼らが目覚めた時には包囲されてしまっていた。戦闘が始まったが、この状況ではアンティオキア軍側の不利はいかんともしがたい。戦闘は激しかったが、レイモンがヌールッディーン軍のアミール、シールクーフに討ち取られ、アリー・イブン=ワッファーも戦死するにあたって潰走へと変わった。
 野戦としてはとんでもない快勝である。
 レイモンの首は箱に詰められバグダードのムクタフィー2世のもとへ送られた。
 この直後、8月にはダマスカスのウヌルが赤痢で死去し、11月にはモスルのサイフッディーンが熱病で世を去った。
 時代はまさに、ヌールッディーンに味方しているかに見えた。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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