無題


 ジュチウルス、通称キプチャクハン国、またの名を黄金のオルド。その成立には、いささか悲しい経緯がある。
 世界征服者蒼き狼チンギス・カン、彼には四人の嫡子がいた。上から順に、ジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイ。
 ジュチには、出生の疑惑があった。というのは、チンギスの正妻のボルテが一時期メルキト部族にさらわれ、チンギスが彼女を取り戻した直後に、ボルテがジュチを生んだからだ。
 チンギスはジュチをあくまでも嫡長子として扱ったのだが、次男のチャガタイは、そう信じてか否かはわからないが、チンギスの面前でジュチをメルキトの子と罵った。

 ジュチは、その出生の疑惑のためかモンゴルとしては珍しく殺戮と破壊とを嫌った。1217年、敵の残党を追っていたジュチは、当時ペルシアを押さえ、イスラム世界の覇道を突き進んでいたホラズムトルコの軍隊と鉢合わせしてしまう。ジュチはぎりぎりまで下手に出るが、自軍の数に驕ったホラズムのスルタン、アラーウッディーンは交渉を拒否、攻撃をしかける。
 しかし下手に出ていたはずのジュチは戦闘が始まると敵の左翼から中軍までを蹴散らす。ホラズムは右翼に展開していた皇子、ジャラールッディーンの機転によりなんとか持ち直し、決死の覚悟を決めるのだが、折、日が沈む。ジャラールはモンゴルの恐ろしさを知って戦慄しただろうか。
 次の日、夜明けの草原には、既にモンゴル軍の姿は無かった。
 ジュチは数の不利によってではなく、ただ、戦を避けた。

 1219年、チンギスは中国の北を押さえていた国、金への攻撃を終えてホラズムへ矛先を変えた。
 ジュチは、弟のチャガタイ、オゴタイと共にホラズムの首都、ウルゲンチ攻略をチンギスから任せられる。
 しかし、共同司令官となったジュチとチャガタイは、もともとの不和と、攻撃の方針の違いもあいまって仲たがいしてしまう。
 チャガタイ曰く、「父上チンギス・カンから与えられた命令はウルゲンチを落すことだ。無為に戦いを長引かせて我が方の被害まで増えているではないか、なぜ早く攻め落とさぬのか」
 ジュチ曰く、「戦争は弓矢と刀だけでするものではない。十日早く占領したからといって、復興させるのに一年かかるような破壊と殺戮をすることになれば、大損ではないか」
 チンギスは二人の仲違いを聞き、やむなくオゴタイを司令官に任命した。オゴタイは明るい性格の男で、他人の間を取り持つことに長けていたのである。
 結果的に、この時のチンギスの判断が、オゴタイを次の大ハーンに就任させることとなる。体面もあったのだろう、しかしチンギスは、ジュチを、心優しき息子を愛していた。

 ジュチは大ハーンになる機会を逃し、ロシア南方のキプチャク草原を征服したあと、そこに引きこもってしまった。いや、あるいはジュチは大ハーンになるつもりはもとから無かったかもしれない。
 チンギスは、ジュチに、最愛の息子にせめてもの餞別として、ジュチが西の方征服し得る土地すべてをジュチのものとしてよい、と取り決めた。これがジュチ・ウルスの成立だ。チンギスが、老いた父が東へ帰ってゆくのを、ジュチはただ見届けた。

 しかし、そんなジュチの態度を快く思わない人間が居た。――西の草原で自分だけの勢力を作ろうとしているのではないか、チンギスも老いた。親の死に目にも会わぬつもりなのか。
 そんな中、ジュチが狩りに興じて軍事をおろそかにしているという噂がチンギスのもとへ届く。チンギスは事の真偽を確かめるべくジュチに召還命令を下すが、ジュチは従わない。
 反乱か――。チンギスは激怒した。何度も迷ったが、ついに討伐の軍を起こす命令を下すことを決めた。

 しかし、その直後……、ジュチの訃報が届いた。病を得ていた彼は、最後までその病を隠していた。それがモンゴルの為だと信じて。
 二年後、チンギス・カンも亡くなり、大ハーンにはオゴタイが就くこととなった。

 ジュチの死後、ジュチウルスの主となったジュチの息子、バトゥは、悲しみの刃を西方へと向ける。自身の、そして父の蒼き狼の血統を証明するために。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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