4.ダマスカス陥落

以下詳細
■東方進軍
 先にダマスカスのウヌルとモスルのサイフッディーンが相次いで没したと書いた。
 イブン=アル=アシールは、ウヌルの死去に関して、その年の記述の末尾でわずかに触れるだけである。他の重要人物には略伝や死去の様子などが詳しく書かれていることを見るに、彼のザンギー朝贔屓の結果であろうか。イブン=アル=カラーニシーは、彼の末期の様子に加え、死後ダマスカスのアタベク宮のイフワーンに葬られたことを伝えている。
 ウヌルの死後、その政権はトゥクテギンのひ孫、ムジールッディーン・アバクが継いだ。だが、彼はまだ16歳の少年である。ヌールッディーンにとっては好機であるものの、彼は先にサイフッディーン死後の事態の収拾に当たらねばならなかった。
 サイフッディーンの死去はザンギー朝内部での権力構造の転換を引き起こす。モスル政権は、ザンギーの四男、クトゥブッディーン・マウドゥードが引き継いでいた。
 この機に乗じてモスル政権への不満を明らかにしたスィンジャール領主、アブドゥルマリク・アル=ムカッダム(後にサラディンのシリア体制を支えるシャムスッディーン・イブン=アル=ムカッダムの父)の要請を受け、ヌールッディーンは東方遠征を開始する。続出する離反に危機感を覚えたモスルの宰相、ジャマールッディーンは「結局のところ、ザンギー家の最年長者はヌールッディーンなのだ」と言って和平を提案し、これが受け入れられ、両政権の間で和議が結ばれた。ヌールッディーンは今回の協定によってスィンジャールとホムス(中部シリアの都市だが、モスル政権側の飛び地となっていた)を得た。
 先のサイフッディーン優位の時と同じように年長者優位で一応の同意を見たが、これは必ずしも自明のものではない。先には兄弟会合で、今回はスィンジャールへの進軍という形で確認を行わなければならなかった。
 さらにこの時、アル=ムカッダムとの交友があったヒスン・カイファーのアルトゥク朝領主が、アル=ムカッダムの誘いでヌールッディーンの進軍に同行している。このことは、モスル政権に従属していたアルトゥク朝系勢力がアレッポへの鞍替えを行おうとしていたことを示唆している。

■エデッサ伯国の滅亡
 アンティオキア公国がヌールッディーンに大打撃を与えられた一方、ザンギーに領土をえぐり取られたエデッサ伯国も、止めを刺されようとしていた。
 1149年の初夏、エデッサ伯ジョスランが捕縛された。トルクメン(おそらくはどこの君主にも所属していない遊牧民であろう)が彼を捕らえ、アレッポに売り飛ばしたのである。
 この報せはすぐに中東全土に広まった。
 これと前後してヌールッディーンに娘を娶らせ、婚姻同盟を結んでいたルーム=セルジューク朝のマスウードがアンティオキア公国領を攻撃するために南下していた。彼は月の変わらぬうちに北へ転進しトリポリ伯の根拠地となっていたテル・バーシルを封鎖してしまう(この時は落とせなかったので撤退した)。ヌールッディーンもアレッポへ戻ってジョスランを引見した後、すぐに北上しアザーズを包囲、封鎖線を敷き、これを奪取する。
 さらに同年11月頃、ヌールッディーンはテル・バーシル付近において十字軍を野戦で撃破し、テル・バーシルを奪取、さらにテル・ハーリド城を奪った。
 翌年、ビザンツ皇帝マヌエル1世が、ジョスラン不在のエデッサ伯国の政務を執っていた摂政ベアトリスからこの地をまとめて買い上げ、その防衛を約束する。しかしヌールッディーンとマスウードの挟撃を受けて徐々に侵食され、この後エデッサ伯国は完全に消滅した。

■南進の再開
 北の情勢を落ち着かせる一方、ヌールッディーンは父の最大の目標であったダマスカスに目標を定めた。既にウヌルと同盟を結んで3年以上、父の時代とは異なり、ダマスカス住民の対アレッポ感情はかなり落ち着いていたと言ってよい。
 モスル政権からホムスを譲り受けたので、アレッポ政権の南端からダマスカスまでの距離はおよそ160kmとなっている。だが、彼は地理的な南進よりも心理的な揺さぶりに重点を置いた。
 1150年にヌールッディーンはダマスカスに対して共同での対十字軍に対するジハードのための出兵を求めた。ダマスカスは十字軍との同盟を相変わらず更新していたので、この誘いに乗るわけにはいかなかった。ヌールッディーンはこの背信を口実にダマスカスを攻撃するが、激しい雨のために一次退却を余儀なくされる。
 同年のうちに和議が成立して緊張はとけたが、ダマスカス政権はヌールッディーンの宗主権を認めざるを得なかった。
 一年後の1151年、再度ヌールッディーンはダマスカスを狙う。展開は前回と同じであり、十字軍がダマスカスの救援要請に応えて接近するのを知ったヌールッディーンは兵を引いた。この後、アバクはアレッポへ出向いて忠誠の誓いを行った。
 このようなアバクの態度に、ダマスカスの住民は耐えかねていたに違いない。十字軍はダマスカスへ入り、奴隷を勝手に解放したり、年貢を徴収したりするのである。ウヌルも十字軍に対しては妥協的だったが、おそらくここまでの事態は引き起こさなかっただろう。
 同年にはアッバース朝カリフ、ムクタフィー2世から名誉の衣を受け取っており、彼の正統性はさらに増していた。
 アバクが忠誠を誓った後、ヌールッディーンは彼に、友誼から忠告するように見せかけ、「これこれしかじかの者が、私にダマスカスを引き渡すと言ってきた」と密告する。無論、そんな事実は無かったのだろう。アバクはヌールッディーンから多くの贈り物をもらい、彼の弁舌にすっかり信用してしまっていたので、この策に乗って次々と有力アミールを処分していった。最後に残ったバールベクの統治者アター・イブン=ハッファーズという勇敢な宦官も、この策によってアバクに処刑されてしまう。
 さらに、ダマスカス政権内で地位を確保していたシールクーフの兄、アイユーブが、ヌールッディーンと連絡を取って市民兵の好意的中立を取り付けた。

■ダマスカス陥落
 1154年1月、満を持してヌールッディーンはダマスカス周辺を封鎖し、物資の流通を遮断した。
 3月、ヌールッディーンの命を受けてシールクーフが1000騎を率いてダマスカスを包囲、開城の交渉を進めるが、アバクはこれを拒否する。4月、ヌールッディーンが合流包囲に参加する。アバクはイェルサレム王国に救援を求め、バールベクの割譲まで申し出たが、時既に遅かった。イブン=アル=カラーニシーによればあるユダヤ人女性が、イブン=アル=アシールによれば市民兵が、ヌールッディーンに対して手引きをしたのである。東門の上にザンギー朝の旗が翻るのを見た守備兵は、もはや抵抗は無意味と悟った。ヌールッディーンの名声は既にダマスカス内にも浸透しており、よもやザンギーのような大殺戮を展開するとも思われなかったのである。
 内部から門が明けられた。ヌールッディーンは入城し、街の安全を保証した上で、市内の城塞に立てこもったアバクを包囲した。アバクは財産を与えられ、ホムスの領有を認められてダマスカスを退去するところとなる(後に不穏な動きがあったため、ホムスからも追い出され、バグダードへ亡命した)。
 ダマスカスはヌールッディーンの封鎖によって飢えていたから、ヌールッディーンは食料と水を運び込み、さらに種々の雑税の撤廃を宣言した。ザンギーには批判的だったイブン=アル=カラーニシーも、素直に「満場の喝采だった。市民も農民も女も零細商人も、誰もが公然とヌールッディーンの長命と常勝とを神に祈った」と書いている。
 長らく別れてきたシリアの二大都市、ダマスカスとアレッポは、ここにヌールッディーンの名の下、統合されることになる。
 この時、ヌールッディーンは37歳。未だ働き盛りの年齢であった。

■ヌールッディーン・マフムードという男
 このアレッポとダマスカスを統合したヌールッディーンはどのような人物だったのだろうか。外見のみは先に触れたが、ここで再度まとめてみよう。
 まず、イブン=ハッリカーンの『名士列伝』には、「公正な王にして、敬虔な禁欲者であり、神を恐れ、法に厳格であり、また神の道に精進し、慈善に飽きを見なかった」との評価がある。
 彼が公正な人物であったのは間違いが無い。各地に「正義の家」と呼ばれる裁判所を建設し、カーディー(法官)たちを配置している。例えユダヤ人の訴えであり、訴えられたのがカーディー自身の親兄弟や権勢極まるアミールであっても公正に裁きがくだされたと、イブン=アル=アシールは伝えている。ヌールッディーンは、訴えられれば、カーディーに公正に裁くように念押ししてから自ら被告人の席に座ったほどである。
 禁欲的であったのもどうやら確からしい。酒と音楽を絶ち、贅沢な服装を据てて粗末なものに着替えたという。
 だが、問題はこれらの「長所」を彼が自ら最大限に利用したことである。彼は何よりも情報を重視した。ザンギーは主に収拾し、分析するか、あるいは策謀に用いるかだったが、ヌールッディーンは宣伝の重要性を心得ていたのだ。
 ヒスン・カイファーのアルトゥク朝系領主、ファクルッディーン・カラアルスラーンは、後のハーリム包囲に動員された時に、以下のように近臣に漏らしたとイブン=アル=アシールは伝えている。

 もしヌールッディーンを助けに駆けつけなければ、彼は私を領地から追い出すだろう。なぜなら彼は土地の年新な聖職者、苦行者たちに手紙を出して礼拝による彼らの応援を求め、ムスリムをジハードに立ち上がらせるよう彼らを励ましているからだ。いま、このとき、彼らのめいめいは弟子や友人とともに座してヌールッディーンの手紙を読みつつ現状を嘆き、私を呪う。このような激しい非難を避けたいなら、彼の求めに応ずるしか無い。

■ヌールッディーンの戦争
 イブン=アル=アシールによれば、ヌールッディーンは常に二組の弓と矢筒を携帯して戦ったという。単に予備だったのか、短弓と長弓を使い分けていたのかは分からないが、いずれにせよ前線に出ることを厭うような男でなかったことは確かだ。
 戦術では、アラビア語で「アル=カッル・ワ・アル=ファッル」(攻撃と逃避)と呼ばれる騎馬遊牧民伝統の偽装退却を多用した。
 これは潰走すると見せかけ、敵が追撃に移って隊列を乱したところで反転し、包囲・殲滅するという戦術である。特に十字軍は騎兵と歩兵を組み合わせて戦場に出ることが多かったから、機動力が高い騎兵が歩兵を置いて突出しやすく良いカモだった。騎兵は指揮官級の騎士が多かっただろうから、なおのこと都合がよかったと思われる。
 1119年にアンティオキア公国軍とイルガーズィー率いるアレッポ軍が戦った際の戦術も、イブン=アル=アシールが伝える限りでは同様のものだったように読める。
 彼らの主武装は剣や槍ではなく弓矢である。アラブ騎兵とは異なり、トルコ系の騎兵は騎射に優れ、下馬せずに矢を射ることができた。文字通り、「弓馬の道」が彼らの強さの秘訣だったのだろう。
 また、同時代の戦争では三翼戦術がよく用いられた。これは、中央、左翼、右翼に部隊を分け、それぞれに指揮官を置いて指揮させる方法である。管見の限りでは、ザンギーがムスタルシドに敗れた際、ムスタルシド軍は三翼編成を採用している。ヌールッディーンも同様の戦術を取っていただろう。


■カマールッディーンの仕官
 ダマスカスを統治するための業務に加え、1151年の7月にビザンツ帝マヌエルに奪われていた旧エデッサ伯国領のテル・バーシルを奪還するなど忙しくしていたヌールッディーンのもとに、ある男が訪れる。彼の名はカマールッディーン・ムハンマド・アル=シャフラズーリー。シャフィイー派の法官で、ザンギー朝と関わりの深いシャフラズーリー家の出身だ。カマールッディーンは既にザンギーの代から外交使節として活躍するなどしており、おそらくヌールッディーンとも面識があったのだろう。
 理由は分からないがサイフッディーンに投獄されていたところ、彼の死によって解放され、しばらくクトゥブッディーンに仕えていたが、彼を見限ってダマスカスを訪れたようだ。後にダマスカスの大カーディーとなるが、その職務のみならず、国政全般に関わっていたらしい。ヌールッディーンにしてみれば、力強い味方であっただろう。
 彼の協力を得て、ヌールッディーンは本格的なシリアの領国統治に乗り出すことになる。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
当ブログの内容を雑誌・書籍等にご利用されたい場合はご一報下さい。
管理人への連絡は掲示板か拍手でどうぞ。

検索フォーム
カテゴリ
リンク
アクセスカウンター
月別アーカイブ