5.対十字軍戦争

以下詳細
 
■これまでの経緯
 ここからは、ヌールッディーンの対外関係に関して、対十字軍とその他で分けて見ていく。
 まず、これまでの経緯を確認しておこう。
 1044年、ザンギーがエデッサとその周辺の領地をえぐり取り、エデッサ伯国は滅亡に瀕した。1046年にヌールッディーンが即位してすぐ、エデッサ伯ジョスランはエデッサを奪回しようとするが、ヌールッディーンはこれを瞬時に粉砕。
 1047から49年にかけてアンティオキア公国への攻勢に出て、イナブの戦いでアンティオキア公レイモンを討ち取る。
 また、1048年には第二回十字軍が襲来、ヌールッディーンは兄サイフッディーンとともにダマスカスのウヌルのもとへ援軍として赴いている。
 だが、これ以後ヌールッディーンの対十字軍戦略における目立った動きはしばらく途絶する。一つはサイフッディーンが死去し、東方情勢に関わらざるを得なかったことがあるだろう。血族内での諍いはできる限り避けたいところであった。
 次に、ウヌルが死去しダマスカス奪取の絶好の好機が巡ってきたことがある。だが、ヌールッディーンがダマスカスへの進出に専念している間、十字軍は次の一手を打っていた。アスカロンの奪取である。
 1153年、ファーティマ朝の地中海東岸部最後の砦だったアスカロンがイェルサレム王国の攻撃によって陥落した。イェルサレム王国から、ファーティマ朝が治めているエジプトへ侵攻する橋頭堡が確保できたことになる。エジプトは古来よりの穀倉地帯で、当時のファーティマ朝政権の混乱からすれば、富はあるが国はないのと等しい状態だったと言っていい。イェルサレム王国がエジプトに目をつけたのも自然の成り行きだった。1160年以降、エジプトは介入を防ぐためにイェルサレム王国へ一年あたりいくらかの取り決めで貢納金を納めざるを得ない。
 さらに同じ1153年、ヌールッディーンの攻撃によってジョスランが討ち取られ、君主不在となっていたアンティオキア公国に新しい君主が就任した。ジョスランの寡婦が、ルノー・ド=シャティヨンという男と結婚したのだ。
 このルノーという男、懲りるということを知らない人間だった。1147年にシリアへ来た後、ジョスランの寡婦に取り入って結婚し、後に見るようにビザンツ領のキプロスを荒らすが、その遠征費用はアンティオキアの総主教を拷問にかけて捻出させ、ビザンツ皇帝に折檻されるもそのすぐ後にヌールッディーンに捕らえられ15年を獄中で過ごす。解放された時にはアンティオキア公国は別人のものとなっており、カラクを得て休戦破りを繰り返す。最後はヌールッディーンの事業を継いでいたサラディンの妹を殺し、ハッティーンの戦いの後サラディンに手ずから処刑されるという凄まじいまでの人生であった。
 ともあれ、ヌールッディーンがダマスカスを奪取した時、既に新たな脅威は浮かび上がっていたのである。

■地震、病
 しかし、十字軍にとってエジプト征服は大事業であり、事態は簡単に進まなかった。
 さらにそれよりも先に、複数のアクシデントがシリアで起こる。
 まず、1157年8月にシリアを数回の大地震が襲い、十字軍国家、ムスリム地域双方に甚大な被害が及んだ。イブン=アル=アシールは、ハマー、シャイザル、カファルターブ、マアッラ、ホムス、クラク・デ=シェバリエ、アルカー、トリポリ、アンティオキアが一度に崩壊したと述べている。
 シリアにおいて独立を保っていたムンキズ家の領地シャイザルはハマーと並んで特に被害が酷く、ムンキズ家もウサーマ(後述)などの少ない例外を除いて一気に途絶えてしまった。ヌールッディーンのアミールの一人がこの街に駆けつけ、城塞を確保したが、城壁は完全に崩れ去っていたという。以後、シャイザルはヌールッディーンの領土に組み込まれることになる。また、ヌールッディーンはこの機会に、旧ダマスカス政権の生き残りが支配していたバールベクも奪っている。しかし、概ね領土のやりとりよりも、城壁を建て直し、防衛体制を整えることの方が急務であった。
 十字軍もムスリムも復興に追われていた頃、シリアに再度激震が走る。ヌールッディーンが突然病に倒れたのである。同年10月のことであった。
 彼は弟のヌスラトゥッディーン・アミーリ・アミーラーン(ザンギーの三男)、アミールのシールクーフなど、有力者を集めた。彼の死後、ヌスラトゥッディーンが政権を継いでアレッポを治め、その代理としてシールクーフがダマスカスを統治することなどを急いで伝えている。遺言に等しい確認であり、かなり危ない状況であったようだ。
 十字軍はこの期を見て動いた。エジプトを攻めるにしてもまず本拠地周辺の安定と、できることなら領地の拡大が先決である。ヌールッディーンが療養のためアレッポに向かった後、十字軍はダマスカス城下に迫り近郊を略奪する。12月にはヌールッディーンのもとを離れてシールクーフがダマスカスに入っている。十字軍の襲撃に対応するためだったようだ。
 ヌールッディーンの後継者に据えられたヌスラトゥッディーンであるが、ヌールッディーンがもはや起き上がれぬと見て、彼とその反対派との間で対立が目立ち始める。
 アレッポにおいてヌールッディーンを支えていた彼の乳母兄弟マジドゥッディーン・アブー=バクル・イブン=アル=ダーヤは、ヌスラトゥッディーンがアレッポを訪れた際、アレッポへの入城を拒否したが、ヌスラトゥッディーンは城門を突き破らせてアレッポを占領してしまう。さらにヌスラトゥッディーンは、ヌールッディーンが削除していたシーア派特有のフレーズを、礼拝の際のアザーンに復活させる。
 アレッポはウカイル朝の首都となって以来、シーア派住民が多く、その支持を狙った行動だったようだ。実際、彼に対して門を破壊して受け入れたのはアレッポ住民だった。
 この時にはヌールッディーンが死去したという噂すら流れた。シールクーフは任されていたダマスカスをそのまま確保しようとしたが、同じくダマスカスに居た彼の兄アイユーブは万一ヌールッディーンが生きていれば事が事だから確認を取れと彼を叱責し、アレッポへ向かわせた。実際、この対応は間違っておらず、ヌールッディーンは生きていたのである。
 1159年、病から回復したヌールッディーンはヌスラトゥッディーンが統治していたハッラーンへ進撃し、これを奪取してモスル政権の重臣ザイヌッディーンに譲渡した。さらにヌスラトゥッディーンへの後継者指名を取り消し、新しくモスル政権のクトゥブッディーンに継承権を与えている。
 この間、十字軍も動きを加速させ、1157年にはシャイザルを攻撃、1158年にはハーリム奪回のためにアンティオキア公国とイェルサレム王国が連合してブタハの戦いでムスリム軍を破っている。

■ビザンツ帝マヌエルの親征
 この頃、新しくアンティオキア公となったルノーと、ビザンツ皇帝マヌエルの間で諍いが持ち上がっていた。資金のトラブルがもとで、ルノーがビザンツ領だったキプロス島に遠征して荒らしまわっていたのである。さらにルノーはキリキア・アルメニア王国のトロス王と組んでおり、トロスは皇帝の派遣した軍隊を破ってキリキアの平野部を占領していた。
 マヌエルはトロスとルノーに鉄槌を下すために親征を決意した。まず精鋭500騎を率いてキリキア平野に突入し、これを占領。トロスは逃げ去り、諸都市は次々と開城、主邑タルソスも後続部隊に降伏した。
 マヌエルは続いてルノーに折檻を加えるべく南下する。ヌールッディーンはマヌエルに使者を送り、その真意を問いただしているが、返答はやはりルノーを屈服させるためであるというものだった。
 ルノーは腹背にヌールッディーンとマヌエルという強大な敵を抱えることになり、窮地に陥った。この時期、イェルサレム王はマヌエルと関係を強化していたので王を頼る方法もあったが、アンティオキア公国がイェルサレム王国への従属を深めることになるのはルノーとしては飲めない話で、結局皇帝の膝下に身を投げ出して許しを請うという手段しか彼には残されていなかった。
 ヌールッディーンらが派遣した外交使節が見守る中、ルノーははだしの粗末な出で立ちで皇帝のもとへ現れ、皇帝の許しを乞うた。皇帝はしばらく彼を無視していたが、その後ようやくといった体でその服従を受け入れたという。
 この半ば茶番じみた、しかし当人たちにとっては重要きわまりない儀式が終わった後、先の返答とは裏腹に、マヌエルはキリキア、アンティオキア公国、イェルサレム王国の軍勢を率いて対アレッポ遠征に出た。しかしどうも皇帝は本気ではなかったらしい。マヌエルはアレッポまで一日行程のところへ来ると、ヌールッディーンと捕虜解放の協定と、対ルーム=セルジューク朝のための同盟を結んで引き上げてしまったのである。
 これには、ビザンツ皇帝の周辺諸勢力に対する勢力均衡政策のための意図が働いているのだが、詳しいことは次の章でヌールッディーンの対ルーム=セルジューク朝関係と一緒に扱うことにしよう。

■機会を逃す
 ともあれ、マヌエルは「メガス(偉大なる)」と呼ばれるほどの精力的な皇帝であり、彼の意図は、ビザンツ帝国が周辺地域のバランスメーカーとなって影響力を振るうことにあった。結果的に、十字軍国家もヌールッディーンもこの勢力均衡策に巻き込まれ、下手に動くことができなくなってしまう。
 ヌールッディーンはマヌエルと対ルーム=セルジューク朝同盟を結んでおり、さらにマヌエルは、アンティオキアの宗主権を持ち、そしてイェルサレム王国とも婚姻を通じて良好な関係を保っている。結果、以下の様なことが起こる。
 1160年、ヌールッディーンのアミールの一人がマヌエル帝に許されたばかりのアンティオキア公ルノーを捕らえた。半ば捨て身で得た許しだったが、ルノーはほとんど自由を味わう暇もないままアレッポの牢に押し込められてしまう(彼が解放されるのは15年後の話である)。アンティオキア公国を継いだのはボエモン3世というまだ若い君主だった。しかしヌールッディーンは過度の追い打ちをかけることを避け、2年間の休戦協定を結んでいる。
 さらに、1163年、33歳の若さでイェルサレム王ボードワン3世が没した。第二回十字軍で苦労し、なんとかアスカロンを確保しはいいが、エジプトへ向かうことは出来ぬままの死である。後を継いだのは弟のアモーリー、当時26歳。後の行動を見るに無能ではなかったようだが、即位当時それほど評判が良かったわけではないらしい。この時もヌールッディーンは機に乗じることをしなかった。
 同年にクラク・デ=シェバリエを包囲したものの、奇襲を受けて撤退。イブン=アル=アシールは、これはトリポリ包囲のための布石であったとしている。この時十字軍側の援軍にはビザンツ貴族のコンスタンティノス・カラマノスが参加しており、イブン=アル=アシールによれば、ムスリムに最も損害を与えたのは彼だったという。この時の撤退はぎりぎりで、ヌールッディーンは急いでいたため飛び乗った馬がまだ括りつけられており、あるクルド人の男がその縄を切ったためヌールッディーンは逃げることができたが、そのクルド人は殺されてしまったという。この時のクラク包囲は得るものはなく、損害ばかりが大きい戦いだった。
 ちなみにこの時、ヌールッディーンの側近の一人が「閣下の国で、閣下は多くの恩給と施しを法学者、敬虔な貧民、スーフィー行者、コーラン朗読者などに支払っておいでです。これらの資金を、今回用いておれば、より有効でありましたものを」と進言した。
 ヌールッディーンは激怒し、以下のように答えた。
 「アッラーに誓って! 私の勝利への唯一の望みは、彼らを通じて実現されるもので、私は他でもない彼らの助けを当てにしてきたのだ。『お前の弱さこそが、お前は支え勝利を与えるのだ』(ティルミズィーの伝えたハディース)。私が寝床で眠っている間でさえ、私のために外れぬ矢で奮闘している者たちの要求を削りとって、私が彼らの視界に入っている時だけ私のために、当たるか当たらぬか分からぬ矢で戦う者たちに配分するなど、いったいどうして出来るというのか! これらの人々は公庫からの割り当て分を持っている。どう公平に他の者にそれを与えようというのか?」
 ヌールッディーンが敬虔であったことを伝えるエピソードだが、兵への不満も垣間見える。
 ともあれ、結局のところシリア情勢は大きく動かず、十字軍対ヌールッディーンの主戦場はエジプトへ移ることとなる。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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