550年 ヌールッディーンのルーム侵攻ほか

ダマスカス年代記英訳P322-325
「イスラム暦550年」

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以下訳文
 

 この年の最初の日[3月7日]は月曜日であった。
 ラビー1月の24日[5月28日]、ダマスカスのあるじヌールッディーンと、フランクの王との間で一年間の条約が結ばれ、満期まで有効なものとされた。
 数日後、ヌールッディーンによって、バールベクの統治者ダッハークを逮捕するとの命令が出された。ヌールッディーンは彼に街を明け渡すよう求め、彼の許可によって、騎兵隊がその街を占領するため出向いた。街はラビー2月の7日木曜日[6月9日]に明け渡され、ヌールッディーンはその統治と防衛を、その街の明け渡しに携わった官吏に委ねた。
 シャアバーン月[9月30日-]の間に、エジプトのワズィール、イスラームの騎士、イブン=ルッズィークが、その時には彼は権威を確立していたのだが、フランクと和議を結んで、彼らの悪意を逸らすために国庫と絞りとった税金及び地方司令官たちのイクター収入から、貢納金を彼らに支払うことを決心したとの報せがエジプトから入った。しかし、彼がこの件について地方司令官たちに諮った時、彼らはこの提案に立腹して憎悪をもって拒否し、彼を排除して自分たちが信頼できる者を立てようと決意した。彼らはアミール・[この部分は原文で欠落している]として知られた男を選んだ。彼は雄々しさと勇気と政治力で知られ、また彼はエジプト海軍を指揮した見識と、その力強さから、海軍大事に任命された。この男は、水兵たちの中からフランクの言葉を話せる一団を選び出し、フランクであるように見えるよう変装させ、海軍の艦船を提供して送り出した。彼自身は海へ出て、様々な水域、隠れ場所、さらにギリシャ船のよく通る航路などを調べ、彼らについての情報を手に入れた。そして彼は、人員と資金を満載した大きなギリシアのポラッカがティールに入港したとの報せを受け、ティールへ向かった。彼は攻撃を仕掛けてその船を奪い、船に乗っていた者を殺し、積荷を得た。3日立ち、彼はその船を燃やして再び海へ出て、フランクの巡礼団から帆船を奪って彼らを殺害するか捕虜にし、略奪して、戦利品と捕虜とともにエジプトへ戻った。
 後に記す月の話だが、マスウード王の死後、クトルミシュの息子たちと、クルチ・アルスラーンの息子たちの間で闘争が勃発し、アレッポとダマスカスのあるじ、アル=マリク・アル=アーディル・ヌールッディーンが彼らの間に入り和平を斡旋を申し出て、敵であるギリシャ人とフランク人を利してムスリムの砦を攻撃させることになるような不和は慎むべきであると警告した。彼はこの件に全力を尽くし、見事な深謀遠慮と、親愛に満ちた贈り物によって満足を勝ち得て、彼らの間では和平が成立した。
 ラマダーン月[10月9日-]、さらに、アル=マリク・アル=アーディル・ヌールッディーンが、彼の騎兵隊をコンヤと近隣のあるじ、クルチ・アルスラーン・イブン=マスウード・イブン=スライマーン・イブン=クトルミシュ王の領地へ差し向け、城と城塞を剣と協定によって奪ったとの報せが入った。クルチ・アルスラーン王と二人の兄弟、ズール=ヌーンとダーラーブは、ダニシュメンド家との戦争に没頭していた。マスウード王の息子たちは、ダニシュメンド家に対抗するための神の加護を得て、550年のシャアバーン月[9月30日-]に、アクサライとして知られる場所の近くで彼らの軍隊に打ち勝った。クルチ・アルスラーンが帰還し、彼の領地でのアル=マリク・アル=アーディル・ヌールッディーンの行動を知った時、これを、協定と、真実と、彼らの間に結ばれた姻戚関係に対する忌まわしい裏切りだとみなし、譴責と非難、脅迫の手紙を送りつけた。ヌールッディーンは彼に礼儀正しい申開きを、おだやかな調子の言葉で返信したが、この事件以来、彼らの関係は変化しなかった。
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