6.対諸侯戦争

以下詳細
 
■ムスリム諸勢力
 十字軍対ヌールッディーン軍のエジプトでの戦いを見る前に、一度時間を巻き戻し、視点を変えてムスリム諸勢力とヌールッディーン政権の関係を、戦争に限らず見ていくことにしたい。
 ここでは便宜的に、ムスリム君主が君臨する歴史的イスラーム世界に属する勢力のことをムスリム(諸)勢力と呼ぶことにする。便宜的というのも、十字軍国家にもムスリムは居住していたし、ムスリム君主を頂く政権のもとにもキリスト教徒は存在し、場合によっては公務についていることもあったからである。シールクーフがザンギーを頼らざるを得なかったのも、キリスト教徒の官吏を殺してしまったからだ。
 流石にこの時期のムスリム君主の政権でカトリック教徒をあえて登用しようという者はそうそういなかっただろうが、少し時代が下ると、ルーム=セルジューク朝の最盛期を築いたカイクバード1世(位1220-37)の宮廷は様々な地域の出身者からなり、西欧人もいたという。
 さて、冒頭で述べたが、ヌールッディーンに関する記述を見ると、特に概説では十字軍関連が圧倒的に多い。しかし、そもそもファーティマ朝からの援軍要請を無視し、十字軍がアスカロンを奪取してしまうのを脇目にして彼が獲得しようとしていたダマスカスはムスリム政権を頂いているのではなかったか。
 では、ダマスカス以外のムスリム諸勢力とヌールッディーンの関係はいかなるものだったのだろうか。
 以下、主にアナトリア方面のルーム=セルジューク朝及と、北イラク方面のザンギー朝のモスル政権及びアルトゥク朝系政権、そしてアッバース朝との関係を扱う。

■北原、白刃の牙クルチ・アルスラーン
 シリアの北、アナトリア(現トルコ)では主に四つの勢力が角逐していた。北部・西部の沿岸を押さえるビザンツ帝国と、内陸部のアナトリア高原を東西に折半する、西部のルーム=セルジューク朝及び東部のダニシュメンド朝、そして南岸のキリキア・アルメニア王国である。
 このうち、ルーム=セルジューク朝はヌールッディーン及びサラディンと同時代のスルタン、刃の獅子という意味の名を持つクルチ・アルスラーン2世(位:1155-92)の時代に急激に勢力を拡大するが、それは必然的に南部のヌールッディーンとの軋轢も引き起こした。
 クルチ・アルスラーンの父マスウード1世は第二回十字軍の侵攻にあたって激しく戦い、アンティオキア公国やエデッサ伯国に対しては攻勢に出ているものの、ヌールッディーンと婚姻同盟を結び、また領地間にエデッサ伯国が存在していたためシリアと事を構えるには至っていない。
 では、クルチ・アルスラーンはどういう人物か。イブン=アル=アシールは「彼は素晴らしい統治者にして大きな威光とあまねき正義の人であり、またルーム(ビザンツ帝国)の地へ多くの遠征を行った」と書いている。ヌールッディーン死後の話になるが、ミュリオケファロンの戦いでビザンツ帝国軍を大破し、ダニシュメンド朝を滅ぼしてその旧領を完全に併合するなど軍事能力に長けている。一方で、必要とあらば敵のビザンツ帝国のもとに出向いて頭を下げ、また別の折にはドイツ皇帝との同盟すら視野に入れるなど、必要に迫られてではあれ、柔軟な外交を展開できる能力もあったようだ。
 彼が即位したのは1155年、父マスウードの死を受けてのことだった。

■ヌールッディーンのルーム出兵
 1155年、ルーム=セルジューク朝のスルタン、マスウードが死去して後継者争いが始まった(マスウードの没年には諸説あるが、同時代と言って差し支えないであろうイブン=アル=カラーニシー(1160没)に従う)。イブン=アル=カラーニシーによれば、ヌールッディーンはこの争いに騎兵隊を派遣して仲裁を申し出た。口実は、十字軍とビザンツを利するような内紛は慎むべきである、というものだった。この仲裁じたいはうまくいき、ルーム=セルジューク朝はお家争いを止め、東方のダニシュメンド朝との戦闘に入る。
 しかし、ヌールッディーンは彼らがダニシュメンド朝との戦闘に没頭している隙を突いてクルチ・アルスラーン領に部隊を派遣し、いくつかの砦を奪取する。ダニシュメンド朝の軍隊にアクサライ近郊で打ち勝ち、凱旋したクルチ・アルスラーンを待ち受けていたのが、このヌールッディーンによる背信の報せだった。ムスリム同士の内紛をいさめておきながら協定破りを行い、あまつさえクルチ・アルスラーンはヌールッディーンにとって義理の兄弟にあたる(先に記した通り、クルチ・アルスラーンの父マスウードはヌールッディーンに娘を与えて婚姻同盟を結んでいた)。クルチ・アルスラーンは激怒した。当然のことだ。
 クルチ・アルスラーンが強い譴責の手紙を送り、ヌールッディーンがこれに申し開きをする形になったが、両者の関係は冷え込み、これは長く尾を引くこととなる。

■ビザンツ帝マヌエルの構想
 57年の地震とヌールッディーンの病もあり、ルーム=セルジューク朝との関係はしばらく膠着状態に陥る。クルチ・アルスラーンもアンティオキア領に侵攻するなどしているものの、ヌールッディーンとの直接対決は避けていたようだ。
 さらに、前の章で述べた通り、1159年にビザンツ皇帝マヌエル1世がシリアに親征を行った。
 マヌエルの意図は、ビザンツ帝国、否、「ローマ帝国」を、世界帝国たらしめることであった。もっとも、かつての大帝ユスティニアヌスのように大征服を行い、占領地を維持できるだけの地力は当時のビザンツ帝国には残されていなかった。実際、マヌエルは父ヨハネスと祖父アレクシオスが十字軍に対してずっと要求してきたアンティオキアの領有権を事実上手放すことになる。
 マヌエルの構想は、ビザンツ皇帝がその財力と権威を以って周辺諸勢力のバランスメーカーとして君臨することであった(さらに詳しくは根津由喜夫『幻影の世界帝国』)。
 ゆえに、マヌエルのシリア遠征は、ヌールッディーンに、対ルーム=セルジューク朝のためのビザンツ=ザンギー朝同盟を結ばせるだけで引き上げることになる。マヌエルにとって、十字軍がビザンツを頼ってくるためには、強力な十字軍の敵対勢力であるヌールッディーンの存在が不可欠であり、また、ビザンツと直接領土を接しているクルチ・アルスラーンを後背から牽制してくれる役割も期待できた。

■クルチ・アルスラーン躍進
 シリア情勢と同じく、ルーム=セルジューク朝を巡る関係も、マヌエルという存在によって動きを完全に止めてしまう。十字軍とヌールッディーンはエジプト遠征にはけ口を求めたが、クルチ・アルスラーンはマヌエルの仕組んだダニシュメンド朝、ザンギー朝の包囲に対して八方塞がりになってしまう。いたしかたなく、クルチ・アルスラーンはコンスタンティノープルを訪問し、マヌエルに頭を下げることになる。
 これに気を良くしたマヌエルは、バルカン及びイタリア情勢にかかずらい、東方への統制圧力を弱める。これを奇貨として、クルチ・アルスラーンはアナトリアにおける自らの勢力を確固たるものとすべく動きだす。
 1164年、クルチ・アルスラーンの最大のライバルだったダニシュメンド朝のヤギ・バサンが没した。この期を見てクルチ・アルスラーンは一挙に勢力拡大を図る。アンカラを保持していた自らの兄弟シャーハンシャーを追い出し、ダニシュメンド朝のズール・ヌーンからカッパドキアを奪い、ヤギ・バサンの寡婦の保持するアマスィヤも住民の暴動が契機になり、クルチ・アルスラーンの手に落ちる。
 ちょうど同時期、情報そのものは入っていただろうが、ヌールッディーンはエジプト遠征の後方支援作戦に当たり、さらにザンギー朝最大のアミールであるシールクーフ自身がエジプト遠征で留守にしていた。おそらく、アナトリア情勢に関わることはしたくとも不可能だっただろう。

■ヌールッディーン、ルーム親征
 1173年、ダニシュメンド朝のズール・ヌーンが領地をクルチ・アルスラーンに完全に奪われ、ザンギー朝のもとへ転がり込んでくるにあたって、ヌールッディーンはついに動いた。今回は親征である。まずヌールッディーンがズール・ヌーンに領地を返還するようクルチ・アルスラーンに提案したが、クルチ・アルスラーンはこれを拒否した。
 6月、ヌールッディーンは軍を率いて北上し、まずマラシュ(現カフラマンマラシュ)を奪取、さらにカイスーン(現アドゥヤマン県チャクルフュユック付近)、マルズバーン、バハスナーを奪い、分隊をシヴァスに派遣してこれも占領した。
 クルチ・アルスラーンはこの事態に、和平を乞う使者を送る。ヌールッディーンはこれを受け入れたが、ズール・ヌーンが元の通りシヴァスを支配することを認めさせた。ズール・ヌーンはシヴァスに戻ったが、シヴァスにはヌールッディーンの軍隊が駐留したままであった。
 ちなみに、この遠征途上でバグダードへ使節として赴いていたヌールッディーンの宰相役、カマールッディーンが「モスル、ジャズィーラ、イルビル、キラート、シリア、そしてクルチ・アルスラーンの領地とエジプトの統治権を認める」という証書を持ち帰ってきている。
 この状態は1175年まで続いたが、ヌールッディーンが没するにあたってクルチ・アルスラーンはズール・ヌーンの領地を再度占領、元の木阿弥となる。
 
■アッバース朝との関係
 さて一方、東方関係はどうだっただろうか。
 ヌールッディーンは、父ザンギーとは異なり、基本的にアッバース朝にその権威の根拠を求めた。ザンギーはもともとセルジューク朝の武将であったこともあり、セルジューク朝を通じてアッバース朝とも繋がりがあったが、アッバース朝とセルジューク朝が対立した時は基本的にセルジューク朝を支持している(ただし、継承者争いに際して一時的にアッバース朝に付いたことはあった)。
 これにはザンギー朝が頂いていた名目上のセルジューク朝君主、アルプ・アルスラーンを結果的に殺したこととも関わりがあるだろう。また、アッバース朝カリフ、ムクタフィー2世はバグダードにおいてセルジューク朝のフトバを切るなど、セルジューク朝に対する独立を志向しており、セルジューク朝との関係で言えば、ザンギー朝と組んだ方が都合が良かったという理由もあるはずだ。
 ただ、ヌールッディーンの兄サイフッディーンの死後、モスル政権を継いでいた弟クトゥブッディーン・マウドゥードは、アレッポ政権に依存することを嫌い、徐々にセルジューク朝寄りになっていく。その最たる行為がセルジューク朝によるバグダード包囲への援軍の派遣であった。
 クトゥブッディーンはセルジューク朝の王族、スライマーン・シャーを後援し、セルジューク朝内部への干渉を強める。だが、この試みはスライマーン・シャーが実権を握ることが無かったため失敗に終わる。
 この間、ヌールッディーンは東方情勢に関与していない。アッバース朝との関係を重視するヌールッディーンの立場からすれば、これは問題であるはずだったが、あえてザンギー朝内の不和を引き起こす必要もなかったのだろう。
 結局、ザンギー朝モスル政権とアッバース朝は和解し、ヌールッディーンとクトゥブッディーンの相違も解消された。
 先に書いたように、ヌールッディーンが病に倒れた際、ヌスラトゥッディーンの行動が目に余ったため、ヌールッディーンはヌスラトゥッディーンへの後継者指名を取り消し、クトゥブッディーンへ継承権を与えているが、それもモスル政権とアッバース朝との和解があったからだろうと思われる。

■モスル政権
 この後、モスル政権のクトゥブッディーンは再びヌールッディーンに対する独立傾向を強める。ヌールッディーンに依存していた父の代からの旧臣が相次いで死去したのを契機に、キリスト教徒のアブドゥルマスィーフを抜擢し宮廷の勢力を刷新、ヌールッディーンの影響力を削ぐことを図った。1168年のことである。
 ヌールッディーンとの関係はかなり険悪なものになったが、さらに1170年、クトゥブッディーンはモスル政権の後継者指名を、ヌールッディーンの娘婿で彼の影響下にあった長男ザンギー2世から、次男サイフッディーン・ガーズィー2世へと切り替えた。この年のうちにクトゥブッディーンは死去するが、彼に引き立てられたアブドゥルマスィーフは、彼の指名通りサイフッディーン2世を擁立する。
 この状況に危機感を抱いたモスル政権内のヌールッディーン派は、すぐさまヌールッディーンにモスルへの進駐を求めた。1171年、これに答えてヌールッディーンはモスルへ進軍する。セルジューク朝が干渉してきたが、これを排除し、さらにカリフにヌールッディーンのモスル支配の正統性を認めさせた。ヌールッディーンはモスルを包囲し、これを開城させて入城。サイフッディーン2世はモスルとジャズィーラの統治権を認められたが、ヌールッディーンは自身の近臣であった男を代官として配置し、モスル政権を監督せしめた。
 ザンギー朝はここにおいてはじめてヌールッディーンのもとにほぼ統一され、またセルジューク朝の宗主権を完全に排除したことになった。

■アルトゥク朝
 さて、さらにモスルの北にはアルトゥク朝の勢力圏が存在していた。この王朝は十字軍時代の初期には十字軍と激しく戦い、イルガーズィーやバラクといった英雄を輩出しているが、ザンギーのモスル進出時にはシリア情勢から手を引いている状態だった。
 この一族は、マイヤーファーリキーンとマルディーンを根拠地とするティムルターシュ系アルトゥク朝と、ヒスン・カイファーを根拠地とするダーヴード系アルトゥク朝にまとめられる。
 ヌールッディーンの父ザンギーはモスルの安全保障上、彼らを激しく叩き、完全に服属させていた。ヌールッディーンも引き続き彼らに対し宗主権を行使し、軍役を課して援軍の捻出を求めるなどしている。
 「もしヌールッディーンを助けに駆けつけなければ、彼は私を領地から追い出すだろう」と漏らしたのは、ヒスン・カイファーのアルトゥク朝領主、ファクルッディーン・カラアルスラーンであった(ちなみに彼は一時期ウサーマ・イブン=ムンキズを迎えて保護したこともある人物である)。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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