559年 記事番1 第一回エジプト遠征

イスラム暦559[西暦1163-1164]年 完史英訳2巻PP144-146
「シールクーフと、ヌールッディーンの軍勢がエジプトへ遠征し帰還したことに関する記事」

括弧内は管理人の注
管理人は翻訳・要約に責任を持たない

以下訳文
 
 本年のジュマーダー1月[1164年4月]、ヌールッディーン・マフムード・イブン=ザンギーが大規模な遠征軍をエジプトに送り込み、その指揮権を彼の指揮下にいる最大の武将で最も勇敢であったアミール・アサドゥッディーン・シールクーフ・イブン=シャージーに与えた。私は564[1168-69]年の記事で、神が望み給うならば、彼とヌールッディーンの関係及び、ヌールッディーンの許で彼が高い地位を得ていた理由を述べるつもりである。
 この遠征が行われた理由であるが、エジプトを統治していたファーティマ朝のアル=アーディド・リディニッラーの宰相であったシャーワルが、ディルガームとの競争に敗れ、ヌールッディーンの保護を求めるためにシリアへ逃げこんできたからである。ヌールッディーンは彼を丁寧に向かい入れ、懇切かつ気前よく接した。彼が到着したのは本年のラビー1月[誤りで、1163年2月のことである]のことで、宰相の座を回復するために兵を貸してくれるよう(ヌールッディーンに)頼んだ。ヌールッディーンはエジプトの歳入の三分の一を援軍の見返りとして受け取ることになった。シールクーフは軍を率いてエジプトに残り、シャーワル自身はヌールッディーンの指示と意向に従うという予定だった。後者はこの計画に一歩進み、他は後退した。彼は、支配を広げフランクたちに対する力を得るために、シャーワルが宮廷に返り咲くことに一面では賛成であった。だが、その侵攻路上での危険が彼をためらわせた。実際、フランクたちの領土を横切らねばならなかったし、それにシャーワルが再度権力を確立すれば、約束を守るとも思えなかったのである。
 最終的に、彼は遠征軍を送り込むことに決め、準備を進め必要な物資を用意させるよう命令を下した。アサドゥッディーンは遠征を強く望んでおり、彼の勇気と決断力からして、彼には何の恐れの心配もなかった。準備が整い、彼らはシャーワルとともに559年のジュマーダー1月[1164年4月]に出発した。ヌールッディーンはシールクーフに、シャーワルを宰相の座に戻し、彼の敵対者を除くように指示していた。
 アサドゥッディーンと彼が率いる部隊をフランクが邪魔立てせぬよう、ヌールッディーンは兵を率いてダマスカス付近のフランクの領地との国境に出撃した。フランクたちはヌールッディーンから自分たちの領土を守ることで精一杯であった。アサドゥッディーンと部隊はディルガームの兄弟のヌールッディーンがエジプト軍を待ち受けて出撃していたビルバイスに到着した。彼は破れてカイロへの道を逃げ去っていった。
 アサドゥッディーンはジュマーダー2月の下旬にカイロに到着して野営した。ディルガームは月の終わりにカイロに入ったが、サイイダ・ナフィーサの廟で殺された。彼の死体は二日間放置されてからアル=カラーファに埋葬され、彼の兄弟のファーリス・アル=ムスリミーンも殺された。シャーワルは宰相の衣をラジャブ月1日[1164年5月25日]に与えられ、宰相に復帰し、確固としてその権力を確立した。アサドゥッディーンはカイロの郊外にとどまっていたが、シャーワルは彼を裏切った。シャーワルはヌールッディーン及びアサドゥッディーンとの約束を反故にした。シャーワルは彼にシリアへ戻るよう言いつける手紙を送りつけた。彼は拒否する旨を返信し、約束の履行を要求した。シャーワルは相手にしなかったが、アサドゥッディーンはこれを看取して副官をビルバイスに送り、その権威を東部に確立した。シャーワルはフランクに、もしヌールッディーンがエジプトを征服した時のことについてフランクに警告し、援軍を求めた。フランクたちは、彼が一度エジプトを得てしまえば自分たちが消え去ってしまうことを既に心得ていた。シャーワルがアサドゥッディーンをエジプトから追い出すために彼らに援軍を頼んだ時、彼らは計算外のことに喜んで、ただちに救援要請に応えた。彼らはエジプトを手に入れる野望を持ち、シャーワルは既に彼らに遠征費用の負担を申し出ていた。彼らはすぐに準備を整えて出発した。
 ヌールッディーンはこれを聞き、軍を率いてフランクの領地との国境に向かい、彼らが進撃できないようにしようとしたが、彼らはアサドゥッディーンがエジプトを奪うことの方がもっと危険であると理解していたので、彼らを思いとどまらせることはできなかった。彼らは自領地を守るために兵を残し、イェルサレムの王はその残りの兵力を連れてエジプトへと向かった。
 大勢のフランクがイェルサレムへの巡礼の為に海を渡ってきていた。レヴァントの在地のフランクは彼らの援助を求め、それを得ることができた。彼らのうちいくらかは遠征に加わり、他は領地を守るために残った。フランクたちがカイロの近くまで下ってきた時、アサドゥッディーンはそこを離れ、ビルバイスへ向かい、そこに駐屯して前線拠点とした。エジプト軍とフランクたちは合同してビルバイスのアサドゥッディーン・シールクーフを包囲し、三ヶ月間封鎖した、その間彼は城壁も低く壕も外塁も無いのに持ちこたえた。彼は得るところも無いのに日夜敵に立ち向かった。
 この状況かで、ハーリムのフランクたちが打ち破られたとの情報が入った。神が望み給うならば後に記す予定であるが、ヌールッディーンはハーリムを奪い、さらにバーニヤースに向かっていた。ここにおいて彼らは落胆し、領地の防衛のために帰還することを望んだ。彼らはアサドゥッディーンに、和平を申し入れ、エジプトからシリアへ去り、彼がエジプト人の上に築いたものを放棄することを提案した。彼はヌールッディーンがシリアでフランクに打ち勝ったことを知らなかったのでこれに同意した。食料も必需品も尽きかけていたからである。彼はズール=ヒッジャ月[1164年9月17日-10月20日]にビルバイスを去った。
 アサドゥッディーンがビルバイスを去る時にこれを見ていた人が、私に以下のように話してくれた。

 彼は部下たちを先に送り出した。彼は最後尾に残り、鉄斧を持ち、自らしんがりを務めていた。ムスリムとフランクの両方が彼を見つめていた。海をわたってやってきたフランクの一人が彼のところへ来てこう述べた。
「エジプト軍と我々が貴殿を裏切り、貴殿と部下たちを取り囲んで誰も生きて帰れぬようにするかもしれぬという可能性を恐れてはおられぬのか?」
 シールクーフは以下のように応えた。
「私はむしろそうなることを望んでいるさ。そうすれば、貴殿らに私がいかなる戦いをするかお目にかけることができるからな。神にかけて、私は己の剣を振るう。私の部下たちは自らに倍する数の敵を倒して死ぬだろう。そしてアル=マリク・アル=アーディル・ヌールッディーンは、お前たちと戦い、その指導者を討ち、お前たちを破るだろう。我々はお前たちの領土をうばい、生き残る者は誰ひとりとしていない。神にかけて言うが、俺の部下たちさえついてくれば、最初の日にお前たちに突撃をかけるつもりだった、連中は俺を止めたがな」
 そのフランク人は十字を切って次のように言った。
「我々(=海外からきた新参の西洋人)は、この地の西洋人が貴殿のことを大げさに言い、恐れることを常々不思議に思っていた。だが、どうやら彼らに謝らねばならぬようだ!」
 そして彼は戻っていった。

 シールクーフはシリアへ進み、無事に到着した。フランクたちは彼の帰路に兵を配置し、彼を捕らえるか、そうでなくとも彼に対して何らかの勝利を得ることができるよう目論んでいたが、彼はこのことを知っておりその道を避けて通った。
 このことについて、ウマーラが以下のように述べている。

 汝はフランクに対抗する全ての道を得て
 そして汝は馬の足に向かって言う、「ムッリーのもとへ向かえ」。
 もし彼らが田舎に橋を架けようものならば、
 汝は鉄の海の橋を渡ることだろう。

 最初の節の最後にある「ムッリー」という単語は、フランクの王の名前である[アモーリーのこと]。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
当ブログの内容を雑誌・書籍等にご利用されたい場合はご一報下さい。
管理人への連絡は掲示板か拍手でどうぞ。

検索フォーム
カテゴリ
リンク
アクセスカウンター
月別アーカイブ