559年 記事番2 ヌールッディーン、ハーリム奪取

イスラム暦559[西暦1163-1164]年 完史英訳2巻PP146-148
「フランクの敗北とハーリムの奪取」

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以下訳文
 
 ラマダーンの月[1164年10月]、ヌールッディーン・マフムード・イブン=ザンギーはフランクからハーリムの城を奪った。これは私が以前記したように、ヒスン・アル=アクラード(クラク・デ=シェバリエ)のふもとのブカイヤで破られて戻ってきた時に、彼が資金や武器、その他の物資を配り、軍隊を回復させたからである。彼らはジハードと雪辱戦への準備を進めた。
 既述の通りフランク人たちが彼らの王とともにエジプト遠征を企てた。ヌールッディーンは彼らの国土を攻撃し彼らはエジプトから引き上げた。彼はこのために、モスルとディヤルバクルのあるじで、兄弟のクトゥブッディーン・マウドゥード、ヒスン・カイファーのあるじファクルッディーン・カラアルスラーン、そしてマルディーンのあるじナジュムッディーン・アルピー(後の二者はアルトゥク朝の君主である)や、その他の地方の統治者たちに、軍事援助を頼んだのだ。クトゥブッディーンは彼の軍隊を招集し、彼の総司令官であるザイヌッディーン・アリーととも馬車で大急ぎで出発した。ヒスン・カイファーのあるじファクルッディーンは、私が聞いた所では、身内の集まりで側近から以下のように尋ねられたという。「どうなさるおつもりですか?」。彼が答えて曰く。「ここに留まるよ。ヌールッディーンは断食や礼拝と同じくらい、自分自身や彼の領民たちを危険に晒すのに熱心なのだ」。皆、彼の言葉に納得した。しかし次の日、彼は遠征に向かうよう命令を下した。これらの人々は、再び彼に問うた。「何があなたの考えを変えさせたのですか? 昨日、我々はあなたを決心させたのに、今日我々は逆のことを目撃しています」。彼は応えた。「ヌールッディーンは私に間違いなく以下のことをするのだ。もし私が彼を援助しなければ、私の領民たちは私に反抗し、私の領地を奪ってしまう。彼が苦行者や敬虔な人々、世捨て人に手紙を送り、彼らにムスリムがフランクに殺されたり、束縛されたりしたことを伝え、これらの人々にムスリムが奮闘するよう駆り立てるよう頼んでいる。こういう人々の一人ひとりが、支援者や支持者たちとともに公の場で彼の側に立ち、ヌールッディーンの手紙を読み上げ、嘆いて私を呪う。(こうである以上、)私は行かねばならないのだ」。そのため、彼は準備を整えて自ら出発した。ナジュムッディーンもまた援軍を送った。
 軍勢が集まり、[ヌールッディーンは]ハーリムへ向かった。彼はハーリムを包囲し、トレビシェットを組み立て、多くの武器を展開した。[レヴァントの]沿岸部にいたフランクたちは聖職者や修道士、王侯と騎士ともども武装して集まった。彼らはヌールッディーンに対抗するため急いで進軍した。彼らの司令官はアンティオキアのボエモン公、トリポリ伯、高名なフランク人指導者であるジョスランの息子、そしてビザンツ帝国の偉大な司令官であるアル=ドゥーク[コンスタンティヌス・カラマノスのことである](軍司令官:ドゥークスの音写であろう)たちであった。彼らは歩騎を集めた。その接近にともなって[ヌールッディーンは]ハーリムからアルターへ動き、彼らが自分を追跡しやすいようにし、自分の勢力圏の中に引き込んだ。彼らと戦闘になった時、彼らは自分たちの領地から遠く離れることになるのである。フランクたちはヌールッディーンを追跡し、インムの近くで野営した。彼らはここで、ヌールッディーンと戦うには自分たちが弱すぎることに気づき、ハーリムへ後退しようとした。ヌールッディーンはムスリム騎兵とともに彼らを追跡し、戦いの準備を整えた。
 両陣営が近くなり、彼らは戦闘隊形を整えた。フランクたちはアレッポ隊とヒスンカイファーのあるじがいた、ムスリム軍の右翼に突撃をかけた。ムスリムは逃げ散り、フランクに追いかけられた。この右翼の逃走は計画された作戦だったと言われている。つまり、フランクたちが彼らを追いかけ、その歩兵と分断され、残ったムスリムは歩兵に向かい、彼らを殺すことが出来るというわけである。騎士たちが帰ってきた時には、彼らは歩兵たちが残っておらず、誰の助けもなくなってしまったことに気付くことになる。逃げ散った者たちは踵を返しムスリム軍は前後左右から彼らを制圧する。これが、彼らの計画であった。フランク立ちが逃げ散った者達を追撃した時、ザイヌッディーン・アリーとモスル軍はフランクの歩兵に向き直り、彼らを全滅させ、殺すか捕虜にするかした。彼らの騎兵隊が、歩兵が気になって戻り、逃げ散ったムスリム部隊は踵を返した。フランクたちが到着した時、彼らは歩兵が殺されるか捕虜になっているのを見ることになった。彼らの士気は落ち込み、途方に暮れてムスリム軍に囲まれることろとなった。戦闘は激しさを増し、獰猛に交戦が行われた。多くのフランクが殺され、彼らの敗北は決定的となった。ムスリムたちは殺害をやめて捕虜をとることにし、数えきれないほどの捕虜を得た。捕虜の中にはアンティオキアの公、フランクの中で悪魔のような男でありムスリムに確固とした敵意を向けていたトリポリの伯、ビザンツの司令官のアル=ドゥーク[コンスタンティヌス・カラマノスは、後に5500ディナールと550枚のサテンのローブで買い戻された]、そしてジョスランの息子が含まれていた。殺された人数は一万人に上った。
 ムスリムたちはヌールッディーンにアンティオキアを攻めて奪取するよう助言した。というのも、あの街はその時守備兵も戦闘員も全く欠いていたからだ。しかし、彼はそうしなかった。彼曰く。「街自体は容易に獲れるだろうが、城塞がやっかいだ。ことによれば、統治者が皇帝の甥である以上、彼らは街をビザンツ皇帝に明け渡すかもしれない。ボエモンが隣人である方が、コンスタンティノープルのあるじが隣人であるよりは私にとっては好ましい」。彼は大部隊をこの地域に派遣して略奪し、住民を殺害した。後に彼はボエモン公に大金を払わせ、大勢のムスリム捕虜を解放させて彼を解放した。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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