名士列伝:カーディー・アル=ファーディル

『名士列伝』英訳2巻PP.111-116
Al-Kadi'l-Fadil
「アル=カーディー・アル=ファーディル」

角括弧内は原注、丸括弧内は管理人の注
改行は管理人が適宜行った
管理人は翻訳に責任を持たない

以下訳文
 

 アブー=アリー・アブドゥルラヒーム・アル=ラフミー・アル=アスカラーニー[ラフム族の一員でアスカロン出身]、はカーディー・アル=ファーディル[博学なるカーディー]の称号と、ムジールッディーン[信仰の保護者]のラカブでよく知られている。彼は、アル=カーディー・アル=サイード[祝福されしカーディー]・アブー=ムハンマド・ムハンマド・イブン=アル=ハサン・イブン=アル=ハサン・イブン=アフマド・イブン=アル=ファラジ・イブン=アフマドの息子であるアル=カーディー・アル=アシュラフ[最も高貴なるカーディー]・バハーウッディーン・アブー=アル=マジド・アリーの息子であった。
 アル=カーディー・アル=ファーディルは、アル=ミスリーとも呼ばれていた。彼がミスル、エジプトで高い地位に上り、アル=マリク・アル=ナースィル・サラーフッディーンの宰相となり、彼の愛顧を受けたからである。書簡の執筆者として、彼は最高に近い程度に達しており、いかなる前任者をも凌いでいた。また、彼の作品は多く存在するが、彼はよく体裁の美と素晴らしい考えを示している。私は、このカーディーを尊敬していて物事に精通し才能と誠実さで知られているある男性から、彼の書簡の草稿を含む本と、彼のターリーカス[覚書]の書かれた反故紙が百部にも及んでおり、これらの文章の大部分が名人芸であるということを教えてもらった。
 カーディーのイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーは、彼の『カリーダ』の中で以下のように語っている。
「彼は文筆と雄弁、言葉による明快な表現の達人だった。彼の才能は豊かで思考は鋭く、その文体は独自性と美しさで特筆される。もし、いにしえの文筆家たちが彼と同じ時代に生きていたとしても、彼と競いあるいは並ぶことさえ出来る者を私は知らないほど彼の能力は素晴らしいものであった。彼はまるで以前の全ての法を取り消し、すべての学問の基礎となったムハンマドの法(シャリーア)のような人物だった。斬新な思考、発案の独自性、輝きの発露、そして公正さの精華の確立は彼に帰した。その助言によって帝国を運営し、[文体の]真珠を[話法の]縦糸に結んだ人こそ彼であった。気分のいい時には彼は一日に一つ、いや、一時間に一つ、準備されて能う限りの書簡の芸術の粋と見なされるものを創りだす。コッスが雄弁で、カイスが慎重さで、彼にどれだけ劣るのか! 寛大さでハーティムと、勇気でアムルと比べられるのか?」
 彼は続けて、アル=ファーディルの言葉遣いの程度の高いことに称賛を向ける。
 私はここで、アル=カーディー・アル=ファーディルの、サラーフッディーンに宛てられ、アイダーブのカーティブによって彼に提出されたた書簡を示そう。この中で彼は、この使者がカラクのウラマーに適任であると推薦している。
「我が神よ、スルタン・アル=マリク・アル=ナースィルを護り、彼を助け給え。神が彼の行為を嘉したまい、それらに実を結ばせたまいますよう。神が惰眠をむさぼる彼の敵を不意に襲って粉砕してしまいますように! そして神が彼らの傲慢を彼のしもべたちの剣で平らげ、彼らを屈服させたまいますように!
 この手紙は、あなたの慎ましやかなしもべの進言で、アイダーブのカーティブによって提出されるでしょう。私は彼に充てがわれた不快で不便な邸宅に住まわせることを止めるよう具申いたします。一連の勝利の報せが届きましたので、その名誉は地上を覆っており、あなたは住民たちの称賛を受ける資格があることでしょう。彼はアイダーブの燃えるような大気と塩害に侵された土地を去り、昼間のように輝く希望の夜を旅して来ました。どのような朝が来るべきか、判断していただきたいのです。
 彼はカラクのウラマーとなることを熱望しており、彼は適任のウラマーです。また、彼は、私のこの具申を届けるのに従事しており、この提案は受け入れられやすいものと思います。
 彼はエジプトからシリアへ、アイダーブからカラクへ向かいました。この変転は十分に大変なものです。しかし、貧困が暴力を以って彼を襲えば、彼の家族は大きすぎ、彼の力はつまり、小さすぎるのです。
 人々への神のみ恵みが我が王の上に最も深くありますように。
 草々。」
 彼が以下の独自の文体で書いた書簡の中に、高い丘の上の城[おそらく、カルアト・カウカブであろう]について記したものがある。
「この城は崖と崖の間の儂であり、雲の中の星であり、とりとめもない考えをターバンにした頭であり、夜に光に染められた指であり、それはその爪を新月となす」
 彼の韻文は美しさと独自性に満ちている。彼はまたいくつかのすばらしい詩を残している。例えば、スルタン・サラーフッディーンの随員としてユーフラテス河に到着して、エジプトのナイルを再び見ることを望んだ時に作られた以下のものである。
「私からナイルへ言伝を持っていけ。言うのだ、ユーフラテスの水では私の乾きは癒されない。我が心に真実を問いかければ、私の目がその涙を流さずとも、十分な証明となるだろう。ああ、我が心よ! いかに多くのブザイナが汝の後に残そうとも、神は汝の悲しみを諦め耐えることを許し給う」[ジャミルとブサイナの恋に引っ掛けてある]
 彼はまた、以下の詩をしばしば吟じた。
「幸運の目が汝を守っている時、恐れなく眠り、危険な場所も安寧の場所になるだろう。不死鳥を追って、幸運は汝を網のように受け止める。オリオン座に乗る時、幸運は汝の馬勒となる」(オリオン座はアラビア語でジャッバール=巨人と呼ばれているが、これは巨人の狩人オリオンの訳だろう)
 また、以下の節も彼によって創られたものである。
「私たちは望みを満足させて夜を過ごした。しかしその喜びを表現することなどできはしない。我らが門の守護者は夜の帳で、私は彼女にこういうのだ。『我々を置いて行かないでくれ、でないと朝が来てしまう』」
 私は、上の句が、以下のものと対句になると聞いている。
「私達は山のふもとでなんと喜ばしい夜を過ごしたことか! それを言い表すことは我が手に余る。私は夜に言う。『汝は我らが門の守護者である。我らを置いていくでない。夜明けが来るのが怖いのだ』」
 アル=カーディー・アル=ファーディルは大変な数の詩を残した。
 彼はA.H.529年のジュマーダー2月15日[1135年4月]にアスカロンで生まれた。彼の父はしばしばバイサーンの街のカーディーの職を担っており、そのため、この一族はアル=バイサーニー家と呼び習わされるようになった。アル=ムワッファク・ユースフ・イブン=アル=ハッラールの生涯の項で、私はいかにしてアル=カーディー・アル=ファーディルが世に出て、エジプトへ行き、アル=ハッラールによって裁判所での文書の起草に携わるようになったのかを述べるつもりである。ゆえに、ここで同じ既述を述べる必要はあるまい。彼はそれからアレクサンドリアでスルタンに仕官したが、彼はしばしばそこに滞在していた。
 法学者のウマーラ・アル=ヤマニーはアル=ファーディルについて、その『アル=ヌカト・アル=アスリーヤ』と名付けられたエジプト宰相列伝の中で述べている。この本には、アル=アーディル・イブン=アル=サーリフ・イブン=ルッズィークの生涯も述べられている。
「彼[アル=アーディル]の名誉を取り囲む行動の中で、彼の生涯において記録されるべきことは――あるいは、私が述べるべきなのは彼が以前行ったものの比較にならないほどよい行いと、報いられなかった忠勤なのかもしれないが――アレキサンドリアの統治者に、アル=カーディー・アル=ファーディルを宮廷へ召し出す命令を下したことである。彼はアル=ファーディルを召抱えて、秘書の職に任じた。彼はそうしてその国土のみならず、信仰を育てることからも利益を得る樹を植えた。あるじの許しを得て嘉された樹は見る間に育ち固く根を張り、空に枝を伸ばし、全ての季節にすばらしい実をつけた」
 私は既に彼がサラーフッディーンの宰相となり、スルタンが死去するまでの間、しだいに愛顧を得ていったことを記した。その王の息子で後継者であったアル=マリク・アル=アジーズの在位中は、アル=カーディー・アル=ファーディルは相変わらずその地位にあり影響力を振るった。アル=マリク・アル=アジーズの息子、アル=マリク・アル=マンスールが玉座を継ぎ、結果的に彼の伯父アル=マリク・アル=アフダル・ヌールッディーンにその地位を奪われ、アル=カーディー・アル=ファーディルは彼の死の瞬間までその地位と名誉を保持し続けた。
 アル=マリク・アル=アーディルがエジプトの領有権を得てカイロに入った時、A.H.596年ラビー2月7日[1200年1月]の水曜日の夜にアル=ファーディルはカイロで突然息を引き取った。彼は翌朝、ムカッタム山のふもとのカラーファ小共同墓地の彼の名を冠した廟に埋葬された。私は彼の墓に何度か参ったことがあるが、墓標を取り巻く大理石の壁に彫り込まれていた彼の死去の日付が先ほど述べたものである。彼は時代を代表した人物の一人であり、彼以外の人物をしてこの時代が生み出されることはなかっただろう。
 彼はカイロのダラブ・アル=ムルーキーヤと呼ばれる通りにマドラサを建てたが、私はそこで彼の手書きの記録を読んだ。580年のムハッラム月の朔日[1184年4月]の日付がしるされていた。この建物は最初は児童教育のために建てられたものだった。
 彼の一族は彼のラカブがムヒーユッディーン[信仰の復活者]だと言っているが、イブン・アビー=ウスルーンから彼に宛てられた手紙にはムジールッディーンとあるのを私は発見した。
 アル=カーディー・アル=アシュラフ・バハーウッディーン[最も高貴なるカーディー、信仰の輝き]と呼ばれていた彼の息子のアブー=アル=アッバース・アフマドは、[サラーフッディーンの一族である]王家の愛顧を得ていた。彼はハディースを学ぶことに熱心で、書籍の収集にも飽きを見なかった。彼の誕生はA.H.573年ムハッラム月[1177年7月]、カイロでのことで、また彼の死去はA.H.643年ジュマーダー2月の7日[1245年10月]のことであった。彼は父の墓のとなりに埋葬された。アル=カーディー・アル=アシュラフは、アル=マリク・アル=カーミル・イブン=アル=マリク・アル=アーディル・イブン=アイユーブ王に任命されてカイロからバグダードへ使者として赴いた。彼は宰相に以下の自作の詩をささげている。
「わがあるじ宰相よ! 私を縛る不運を溶かしてしまう好意を持つ汝! 私は与えられたこのような名誉に耐えることはできないほどで、いかにあなたの好意に感謝したらいいだろう。これらの好意はあなたの手の中にある光であり、しかしその重荷はそれを受け取る者の肩にかかるのだ」
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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