564年 記事番2 第三回エジプト遠征

イスラム暦564[西暦1168-1169]年 完史英訳2巻PP171-175
「アサドゥッディーンのエジプト征服とシャーワル殺害についての記事」

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以下訳文
 

 既述であるが、フランクたちがカイロに総督を置いてエジプトで権力を振るい、街の門の管理権を得て、大規模な兵力を配置しムスリムに対して暴政を敷いた。これが原因となり、この年のラビー1月[1168年12月]、アサドゥッディーン・シールクーフ・イブン=シャージーはヌールッディーンの兵を引き連れてエジプトを征服するところとなる。駐屯部隊の兵士らは、この状況下で自分たちを守ってくれる者が誰もいないことに気づく。そこで彼らは守備兵力の不足と征服の容易さを述べ、壮挙と策略を好むシリアのフランク王アモーリーに手紙を送り、占領体制を保護するために来てくれるよう頼んだが、アモーリーの返答は肯定的なものではなかった。フランクの騎士と文官は連れ立って彼の前へ進み出て征服事業を推めるよう進言する。アモーリーはそれに答えて以下のように言った。「エジプトから我々のもとへもたらされた富はヌールッディーンに対向する力の源となっている。もし我々がエジプトを征服せんとすれば、彼の地の統治者も兵士も市民も農民も皆我々に立ち向かい、あるいはヌールッディーンに国を明け渡そうとするだろう。もしエジプトがヌールッディーンの手に落ち、その部下の誰か――例えばアサドゥッディーン――がエジプトへ配置されれば、それは我々の死と消滅を意味する。征服などすべきではない」。しかし彼らはこの言葉に納得せず、以下のように反論した。「エジプトにはもはや彼の地を守れるだけの兵力がありません。ヌールッディーン軍が準備を整えエジプトに進軍する前に、我々はエジプトを奪取してこの問題に終止符を打たねばなりません。そうすれば、ヌールッディーンは我々に安全保障を望むこととなるでしょう」。こうして、アモーリーは自らの意志に反して彼らとともにエジプトへ向かうこととなった。
 フランクたちは準備を進め、それをホムス攻撃のためであると偽装した。ヌールッディーンはこれを知り、同じく兵を招集しはじめた。フランクたちは全速力でエジプトへ向かい、到着すると同時にビルバイスを囲んでサッファール月の1日[1168年11月4日]に占領、略奪と殺人を働き、捕虜を取り奴隷にした。
 イブン=アル=カイヤート、イブン=ファルジャラの両名を含む一団のエジプト人名士たちが、シャーワルに対する恨みから手紙でフランクに協力を申し出た。フランク達は一路勇躍、ビルバイスを発ちカイロを目指し、サッファール月の10日[1168年11月13日]にはカイロに到着して包囲下に置いた。カイロにはビルバイスの住民たちがいかなる憂き目にあったかという情報が届いていたので、自分たちが同じ目に遭うのではないかという恐れがカイロの住民たちを抵抗へと立ち上がらせるところとなる。彼らは強靭な戦いを見せ、街を守るために最善を尽くした。もしフランクたちがビルバイスの住民たちに好意的に振舞っていたならば、容易にカイロ全体を征服できたことだろう。だが、全能の神が「初めから起こると決まっていたことに最後の決着をおつけになるために[コーラン8章42節・44節]」彼らの行いが自らにとって最善であると確信させたのである。
 シャーワルはサッファール月9日[11月12日]、市民をカイロ新市街に避難させた上で旧市街を焼き払うよう命じており、街は略奪に晒された。人々は避難したが、路上に残された。略奪の対象となった住民は貧困に見舞われ、彼らの財産はフランクが到着する前に失われてしまったのである。これらはすべてフランクがその地を奪ってしまうのではないかという恐れから起こったことであった。炎は54日間燃え続けた[この出来事についての再検討はクバイク「ミスル・アル=フスタートの炎上」を見よ]。
 カリフ・アル=アーディドはヌールッディーンへ手紙を送り、フランクに対抗するにはあまりに無力なムスリムたちを助けてくれるよう頼んだ。アル=アーディドは婦人の髪を手紙に同封し、「この髪は私の妻たちのものです。彼女たちはフランクから守ってくれるよう貴公を頼みにしています」と記した。ここに至り、ヌールッディーンは派兵を決めた。
 その間フランクはカイロへの圧迫を強め、住民を出られぬようにした。シャーワルは戦闘の指揮を取っていたが、状況は困難となるばかりで、フランクたちを追い出すには力不足が否めない。そこで彼は言い逃れに転じ、フランクの王に好意と変わらぬ愛を伝え、彼の行為がただヌールッディーンとアル=アーディドを怖れるがためなのだと申し開いた。しかし、ムスリムたちはフランクの王に屈服することに同意していなかった。彼は和平を申し入れ、ヌールッディーンから国を守るために貢納金を差し出す準備があると述べた。フランク人の王はこれに同意し100万エジプト・ディナールを受け取ることとなり、頭金を得て残りは分割で支払うということになった。
 フランクたちはエジプトが彼らに反感を持っておりヌールッディーンに降伏するだろうと見ていたので、不承不承これを受け入れた。彼らは以下のように言った。「我々は資金を受け取ってこれを自分たちを強くするために使い、ヌールッディーンさえ軽視できるような軍を引き連れてこの国へ必ず戻ってくるだろう」。「彼らは策略をかまえたが、アッラーも策略をかまえ給うた。策略にかけては何者もアッラーにかなうものはない[コーラン3章54節]」。シャーワルが彼らに10万ディナールを払い、残りの資金を集めるために撤退してくれるよう頼んだので、フランクは包囲を解いたが、近くに留まった。シャーワルは新旧カイロの市民から徴税をはじめたが、カイロ旧市街の住民は家から焼け出され、なんであれ持ちだしたものも略奪に晒されていたので、結局シャーワルのもとには5000ディナールに満たない金額しか集まらなかった。彼らは食べるものにも事欠いたのだから貢納金が集まらないことなど言うまでもなかった。カイロ新市街の大部分の住民は兵士とその従者であって、もはやこれ以上の資金集めは不可能だった。しかし、この間彼らはヌールッディーンと連絡を取り、彼らが置かれた状況を報せ、アサドゥッディーンが一軍とともに駐留してくれれば、エジプト[の歳入]の三分の一を納入し、さらに駐留部隊に対する資金援助も三分の一とは別に行うと申し出た。
 ヌールッディーンはアル=アーディドの手紙をアレッポで受け取り、アサドゥッディーンを手紙で召喚した。使者が彼を探すためにアレッポの門を出たところで、彼とばったり遭遇した。ヌールッディーンは彼が素早く現れたことに驚いたが、既に彼も同じ内容の手紙をエジプトから受け取っており、ヌールッディーンのもとへ向かうために彼の領地であったホムスから到着したばかりのところだったのである。ヌールッディーンはこれに喜んで吉兆と思い、エジプト遠征に向かう準備を命じ、衣料、馬、武器、その他の物資の上に20万ディナールを用立て、軍に対する指揮権と国庫に対する管理権を委ねた。アサドゥッディーンは常備軍から2千騎を選抜し、さらに6000騎を金で雇った。彼とヌールッディーンはダマスカスへ向かい、サッファール月の終わり[1168年12月2日]に到着した。アサドゥッディーンは続いてラス・アル=マーへ向かい、ヌールッディーンはアサドゥッディーンに従う全ての兵士に、一般の給与とは別に特別に20ディナールを与えた。ヌールッディーンはアサドゥッディーンにさらに以下の一団のアミールたちを随伴させた。彼のマムルークであるイッズッディーン・ジュールディーク、イッズッディーン・キリジュ、シャラフッディーン・ブズグシュ、アイヌッダウラ・アル=ヤールーキー、クトゥブッディーン・イーナール・イブン=ハサン・アル=マンビジー、そしてサラディン[シールクーフの兄弟アイユーブの息子]で、サラディンは望まなかったにも関わらず参加させられた。「一体、汝らが自分では厭だと思うことでも案外身の為になることかも知れないし、自分では好きでも、かえって害になることもあるもの[コーラン2章13節]」。ヌールッディーンはサラディンにエジプトへ向かうことを望んだが、それはヌールッディーンの家系の断絶を意味した。一方でサラディンはエジプト行きを望んでいなかったが、しかし彼はエジプトで幸運と統治権を手にすることとなる。神が望み給うならば、この件についてはシールクーフの死去と一緒に扱うつもりである。
 アサドゥッディーンはラビー1月の中旬[1168年12月17日]、全速力でラス・アル=マーを発った。彼がカイロ旧市街のち各まで来た時、フランクは失望して既にこの地を去って自分たちの領地へ帰っていた。ヌールッディーンはフランクが撤退したことを知って喜び、彼の領国中で勝利の太鼓を叩かせ、エジプトの再征服とシリア、その他の地域の維持を告げる使者をいたるところに送った。
 アサドゥッディーンはラビー2月7日[1169年1月8日]にカイロに到着し、アル=アーディド・リ=ディニッラーと面会した。アル=アーディドは彼に名誉の衣を与え、アサドゥッディーンはそれを着て幕営に戻り、カイロ旧市街の人々を喜ばせた。アサドゥッディーンと彼の軍は多くの手当と大量の物資を受け取った。シャーワルはこれを阻止することができなかった。というのも、シールクーフの兵力は大軍で、アル=アーディドも彼を支持していたからで、加えて、彼は腹の中を明かしていなかったが、軍隊への支払いと、エジプトの収入三分の一をヌールッディーンへ支払うという約束の履行を延ばし延ばししていた。毎日彼はアサドゥッディーンのもとへ通い、彼と乗馬に出かけ、約束をして彼の野望を炊きつけた。「シャイターンは人にいろいろと約束し、その欲情を煽り立てるけれど、彼の約束することはどれもみな誑りばかり[コーラン4章120節]」。
 その後シャーワルはアサドゥッディーンと彼のアミールを宴会に誘い、その時に彼らを捉え、彼らの軍隊を用いてフランクから国を守るという算段を立てた。彼の息子アル=カーミルはこれに反対し、彼に以下のように言った。「神にかけて、もし父上がこの計画を実行に移すというのなら、私はこれをシールクーフに告げます」。彼の父は息子に以下のように答えた。「神にかけて、もしこの計画を実行しなければ、間違いなく我々は殺されるのだ」。アル=カーミルは答える。「確かに。しかし私達はこの地がイスラームのうちにある時にムスリムとして殺される方が、フランクがこの地を手に入れてから殺されるよりましではありませんか。父上がシールクーフを捉えたことが伝われば、フランクを呼び寄せることになるだけです。そうなれば、例えアル=アーディド自らがヌールッディーンのもとへ赴いたとしても、彼は騎兵の一人もよこさずフランクが国を征服してしまうでしょう」。こう言われ、彼は計画を放棄した。
 ヌールッディーンの軍はシャーワルの背信を知り、彼が何か問題を起こすのではないかと恐れ、サラディンとイッズッディーン・ジュールディーク、その他のアミールはシャーワルを殺すことに同意した。彼らがアサドゥッディーンに相談した時、彼はこの計画に難色を示したが、彼らはシャーワルを殺すことを決めるまで沈黙を保った。ことが起こったのはシャーワルがいつものようにアサドゥッディーンの兵たちを尋ねた時だった。その時に限ってシャーワルはアサドゥッディーンの姿を見つけることが出来なかったのだが、彼はイマーム・シャフィイーの廟を訪れていたのだ。サラディンとジュールディーク、それに兵団の一部がシャーワルと出会い、挨拶をした後シールクーフがイマーム・シャフィイーの廟にいることを伝えた。彼が「一緒に彼に会いに行こう」と言うので、彼らは連れ立ってシールクーフのもとへ向かった。サラディンとジュールディークは彼を挟むように馬を並べ、彼を馬の上から放り投げた。シャーワルの従者たちは逃げ散って、彼は囚われの身となった。彼らはアサドゥッディーンの許可無くシャーワルを殺すわけにはいかなかったので、念入りに彼を警備した上でアサドゥッディーンに状況を知らせた。アサドゥッディーンは彼らのもとにやってきたが、もはや事態を承認する他なかった。エジプトのあるじ、カリフ・アル=アーディドはこの報せを嬉々アサドゥッディーンに手紙を送り、自分のもとへシャーワルの首を届けるよう要請した。一言やり取りした後、彼は殺され、その首はラビー2月17日[1169年1月18日]にアル=アーディドのもとへ届けられた。
 アサドゥッディーンはカイロへ入り、自分たちの命のことを恐れている人々に出会ったので、彼らに「信徒の長[アル=アーディドを指す]は、シャーワルの邸宅を略取するよう命ぜられた」と言った。人々は邸宅へ一目散に集まり、略奪した。アサドゥッディーン自身はアル=アーディドの宮廷に向かい、宰相の衣を与えられ、アル=マリク・アル=マンスール、アミールたちの司令官の称号を与えられた。彼は宰相の衣を着てシャーワルが使っていた宰相の館の執務室に向かったが、そこにはもう座るものさえ残っていなかった。彼は政務を掌握し、もはや右に出る者はいなくなった。シールクーフは信頼出来る部下に各州を任せ、兵士たちにイクターを分配した。
 アル=カーミル・イブン=シャーワルについて言えば、彼の父が殺された時、彼と兄弟たちは宮殿に保護を求めて逃げ込んでいた。これが彼らについての最後の記録である。シールクーフはアル=カーミルを見失ったことを悔いた。というのも、彼がシールクーフ殺害の計画に関して、父とどういう議論を交わし、計画を思いとどまらせたかを知っていたからである。彼はしばしば、「もし彼が生きていてくれたなら、彼の行いに厚く報いることもできたのだが」と言っていた。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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