7.ナイルへの道

以下詳細
 
■ファーティマ朝エジプト内幕
 ヌールッディーンと十字軍はマヌエル帝に頭上を押さえられ、エジプト遠征へと向かう。では、当時のエジプトはいかなる状況にあったのだろうか。
 ファーティマ朝はイスマイール派のカリフを頂く国家だったが、第一回十字軍へ対処を行ったのが宰相アル=アフダルであったことからも分かるように、その後半期には軍人上がりないしその血族の者が宰相として実権を握り、カリフを傀儡化する傾向を強めていた。
 アフダルは強権的であったものの、財政の改善には業績があった。彼は十字軍に対処するため連年のようにシリアに出兵したが、それを可能としたのは年500万ディナールと言われた莫大な歳入である。この富が、エジプトの政権が弱体化するとともに、内紛を引き起こしさらには国外の勢力を呼び寄せることとなる。
 ヌールッディーンと同時期のファーティマ朝宰相のうち、重要な人物は、①タラーイー・イブン=ルッズィーク(在職:1154-1161)、②アブー=シュジャー・シャーワル(在職:1163、1164-1169)、③アブー=アル=アシュバール・ディルガーム(在職:1163-1164)の三人である。なお、この時期のカリフはアル=アーディド・リディニッラー(位:1160-1171)という人物だった。即位当時11歳で病弱な少年だったという。
 ①タラーイーは十字軍やヌールッディーンに圧力をかけ、彼らのエジプト進出を封じていたが、国内での食料の買い占めによる価格の吊り上げや、高官の粛清、投機に失敗して国庫を枯渇させるなどの行為が反感を買い、カリフの護衛兵たちに監禁され、その時受けた傷がもとで死去した。
 彼の死後、エジプトはさらに混乱を増す。タラーイーの息子が次の宰相となるが、その折に上エジプトのクースの総督職を解かれた②シャーワルはこれを不服として反乱を起こした。彼は自ら宰相職に就き、タラーイーの息子を殺害するが、一年も経たぬ間に今度は③ディルガームがシャーワルを排除して宰相の座を狙う。
 シャーワルは辛くも虎口を逃れたものの、息子を殺され、シリアに転がり込んだ。1162年のことである。

■第一回エジプト遠征(1164)
 1153年に、十字軍国家からエジプトへの道を塞いでいたアスカロンが十字軍の手に落ちてから、エジプトへ介入することは十字軍にとっての課題であったから、この混乱は絶好の機会だった。イェルサレム王アモーリーは、1163年、貢納金の未払いを理由にシャーワルが追われた直後にエジプトへ向かった。彼はビルバイスを囲むが、ちょうどナイルの増水期に当っていたため、自然の水攻めにあって撤退せざるを得ない。
 失敗に終わったもののアモーリーの野心がエジプトを狙っていることを目の当たりにして、ヌールッディーンはエジプトへの遠征を決める。
 翌1164年、ヌールッディーンはシールクーフを総大将としてエジプト遠征軍を組織する。シャーワルは前年来、ヌールッディーンにエジプトの年間収入の三分の一を毎年納めるという利をちらつかせてエジプト情勢への介入を薦めており、またシールクーフもこの遠征には積極派であった。
 この遠征は、サラディンがシールクーフにつき従い参加したこともあり、多くの文献で触れられているので、簡単に述べるに留めたい。
 ヌールッディーンがシリア北部で牽制作戦を展開している間に、シールクーフ率いるシリア軍は5月にエジプトに到着、シャーワルに代わっていた宰相ディルガームは殺害され、シャーワルが宰相の座に返り咲いた。しかし、シャーワルはシリア軍の強さを目の当たりにしてこれを恐れ、シールクーフに対してエジプトからの退去を迫った。当然、約束は反故である。
 シールクーフはビルバイスに立てこもり、エジプト軍と、シャーワルが援軍を頼んだアモーリーの十字軍との包囲に耐える。この状況を把握し、ヌールッディーンはモスル=ザンギー朝と、両アルトゥク朝に援軍を要請し、シリアの十字軍国家に対して大規模な攻撃に出た。
 先に、アルトゥク朝のファクルッディーンが側近に漏らしたという言葉を紹介したが、それはこの時の話である。
 ヌールッディーンはまずハーリムに進軍、アンティオキア公ボエモン3世、ビザンツ帝国のキリキア総督コンスタンティノス・カラマノス、トリポリ伯レイモン3世などを得意の偽装退却と包囲でまとめて捕虜にする。イブン=アル=アシールによれば、これは先のクラク・デ=シェバリエでの敗戦後に強化していた軍備が役立ったそうであるから、雪辱戦の意味合いもあったのだろう。ボエモンはアモーリーから留守中の国事を預けられていたから、この敗戦は手痛い一撃だったに違いない。
 この時、ヌールッディーンの部下はアンティオキアに進軍するよう進言した。しかし、ビザンツの宗主権下にあるアンティオキアを奪取することは、話の通じる相手であるマヌエル帝を敵に回すことになり望ましいことではないと、ヌールッディーンは判断した。
 この後、ヌールッディーンはモスル軍とアルトゥク朝軍には帰還を許し、単独でバーニヤースを攻め、これも奪取する。この戦の際に、ヌールッディーンの弟のヌスラトゥッディーンが矢を受けて片目を失明している。既述の通りヌスラトゥッディーンは先にヌールッディーンの後継者指名から外されていたが、遠征に参加する程度には関係が改善していたようである。
 イブン=アル=アシールによれば、ヌールッディーンはこの時、ヌスラトゥッディーンに対して「もしお前(がジハードのために払った犠牲)のために(天国で)用意されている報いが明らかになったなら、お前はもうひとつの目を失うことさえ望むだろうさ」と言っている。また、かつてこのバーニヤースを十字軍に明け渡したウヌルの息子が軍中にいたが、彼に対してヌールッディーンは「この征服によってムスリムは喜びの種を得たが、あなたもまたそうだろう」と声をかけた。得心がいかずウヌルの息子が理由を尋ねると、「(バーニヤースを明け渡すというムスリムに対する裏切り行為を行った)あなたの父の肌を焼く炎を、(バーニヤースの再征服によって)今日神は弱めたもうただろうからだ」とヌールッディーンは答えたという。敬虔さからくる言葉なのか毒舌なのかは微妙なところだが、いずれにせよ、言われた方はあまり気分が良くなかったに違いない。
 これら砦の陥落の報せを受け、シールクーフやサラディンが立てこもるビルバイスを包囲していたアモーリーは急いで撤退せざるを得ない。アモーリーとシールクーフはともにエジプトから立ち去ることで同意した。結果的に、今回のエジプト遠征はシャーワルの一人勝ちということになる。

■第二回エジプト遠征(1167)
 イブン=アル=アシールによれば、ヌールッディーンは再度のエジプト遠征に乗り気でなかったようであるが、シャーワルと十字軍が正式に相互援助条約を結ぶにあたってエジプトが完全に十字軍の手に落ちることを恐れた。シールクーフは相変わらずエジプト遠征に熱心だったので、ヌールッディーンは再度のエジプト遠征を許可するところとなり、シールクーフは1167年、再びサラディンを伴って第二回エジプト遠征に出発した。
 シールクーフはカイロの全面に陣を構えたエジプト=十字軍連合の裏をかき、南下してカイロの南側をナイル西岸へ渡河、バーバインで連合を大破する。カイロへ撤退したアモーリーとシャーワルが態勢を整えている間に、シールクーフはエジプトの港街で大都市のアレクサンドリアを占領していた。
 シールクーフはアレクサンドリアの守備をサラディンに任せ、自信は上エジプトへ南下し、反シャーワル運動を組織、戦時税を取り立て、アレクサンドリアを援護する。また、シリアでもヌールッディーンはモスルからの援軍とともにサフィーサーとウライマ、フーニーン等を攻撃し、シリアでシールクーフの援護に当たっている。
 だが、アレクサンドリアでは食料が欠乏し、また十字軍も領地の安全に対する不安から撤退を望むようになる。
 結局、今回も十字軍とシリア軍は双方が撤退することになった。
 
■第三回エジプト遠征(1168-9)
 ヌールッディーンはこの後もエジプト遠征には熱心でなかったようだ。モスル政権内の権力構造の不安定化に対応せねばならなかったことや(権臣ザイヌッディーンがイクターのほとんどを返上、隠居して権力関係が不安定になっていた)、父ザンギーが晩年に落とし損ねたカルアト・ジャアバルが思わぬ切っ掛けで奪取できそうになったこと(領主が狩りに出かけた時にベドウィンのキラーブ部に捕らえられ、ヌールッディーンのもとへ送られた)、そして前二回の失敗がヌールッディーンをエジプト遠征に消極的にしていたのだろう。だが、既に流動化していた事態は彼にエジプト情勢への傍観を許さなかった。
 先にエジプトとイェルサレム王国が相互援助条約を結ぶにあたって、カイロには十字軍兵士が駐屯することが取り決められていた。この時点でエジプトはイェルサレム王国の属国も同然となっていたが、彼らがしばしば横暴を働いたため、カイロ市内では反十字軍の機運が高まってくる。これに危機感を覚えた駐屯部隊はアモーリーに援助を求めた。アモーリーは聖ヨハネ騎士団が遠征に積極的だったこともあり、1168年の10月に突如アスカロンから出撃しビルバイスを攻撃、陥落させ、この街を略奪、殺戮を展開した。恐怖からカイロは早々に開城するだろうという目論見だったようだが、これが裏目に出る。ビルバイスの二の舞は御免被るとばかり、カイロは徹底した防衛体制を整えたのだ。
 親十字軍ではあったものの首都の占領だけは避けねばならないシャーワルは、この突然の攻撃に慌て、カイロ旧市街(フスタート)の至る所に粗造石油をぶちまけて十字軍到着の1日前にフスタートを焼き払う。イブン=アル=アシールとアブー=シャーマは、燃え盛る炎は54日間消えなかったと記している。
 事ここに至り、ファーティマ朝の傀儡カリフ、アル=アーディドは自らヌールッディーン宛てに書をしたため(イブン=アル=アシールによれば、彼は妃の髪を同封し、彼女は貴公を頼みにしていると書いたという)、エジプトを救援してくれるよう要請した。シールクーフの元にも同様の書状が届いていたようで、ヌールッディーンがシールクーフを召喚するため出した使者が、アレッポの門を出るところで相談のためヌールッディーンのもとへ赴こうとしていたシールクーフと出くわしたという。
 ヌールッディーンは20万ディナールをシールクーフに預け、シールクーフ子飼いの500騎、ヌールッディーン配下の常備軍2000騎、さらにトルコ系遊牧民の傭兵6000騎を指揮させ、イッズッディーン・ジュールディーク、アイヌッダウラ・アル=ヤールーキー、サラディンなどの諸アミールを随伴させエジプトへと向かわせた。
 この間、カイロの抵抗に手を焼いたアモーリーはシャーワルとの折衝を行い、貢納金での手打ちを行って撤退しようとした。その時に、シールクーフがシナイを通過しつつあるという報せが届いたらしい。アモーリーはビルバイスまで急ぎ、シールクーフを防ごうとしたが時既に遅かった。シールクーフは既にナイルに到達していたのである。
 斥候からこの報せを受けたアモーリーは屈辱のうちに撤収を命じた。
 十字軍撤収を知り、ヌールッディーンは領国中で勝利の太鼓を叩かせ、エジプト征服を告げる使者を至る所に送っている。彼の宣伝戦略の一環なのだろうが、はしゃいでいるように見えなくもない。
 こうしてエジプトはシールクーフの前に門を開く。だが、これまで散々ザンギー朝と十字軍を振り回してきたシャーワルは未だ健在であった。

■シールクーフの宰相就任とシャーワルの殺害
 シャーワルは以前のようにシールクーフを排除したいと願っていたようだが、カリフ、アル=アーディドはシールクーフに好意を持っており、容易ではなかった。ちなみに、イブン=アル=アシールはシャーワルがシールクーフと部下のアミールたちを宴会に招いて捕える計画を立てていたが、息子アル=カーミル・シュジャーの反対によって中止したと伝えている。
 致し方なくシャーワルは毎日のようにシールクーフの野営地に顔を出して彼の機嫌を伺っていた。
 この状況に不満を持っていたシールクーフ麾下のアミールたち、就中サラディンとイッズッディーン・ジュールディークは、シャーワル殺害の計画を立て、シールクーフに許可を求めた。だが、シールクーフはこの計画を時期尚早と判断したのか難色を示した。シールクーフは戦場にあっては果断だが、こういう場面ではある種の慎重さを持ちあわせていたのだろうか。
 サラディンたちは独断でシャーワル捕縛を決め、シールクーフがイマーム・シャフィイーの廟に参っている時にシャーワルが訪れた折、彼をシールクーフのもとへ案内するふりをして彼を馬上から投げ飛ばし、捕縛してしまった。なお、この時イブン・アル=アシールはシャーワル捕縛にサラディンとジュールディークが協力して当たったと伝えているが、バハーウッディーンとマクリーズィーはジュールディークの名前を出していない。
 シールクーフが呼び寄せられ、もはや彼は事態を承認する他なかった。アル=アーディドはこれを聞いてシャーワルの首を彼の宮廷に届けるよう要請したという。シャーワルの息子たちと兄弟も宮廷へ逃げ込んだところで殺され、その場に埋められた(シールクーフはアル=カーミル・シュジャーがシールクーフ殺害計画に反対していたことを知っていたので、これを悔やんだという)。
 シャーワルの後釜にはシールクーフが座り、宰相に任ぜられる。ヌールッディーンの前に、エジプト支配への道は完全に開けたかに見えた。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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