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8.君臣対立の中で

以下詳細
 
■ヌールッディーンとサラディン
 ヌールッディーンとサラディンの関係については、サラディンの若いころについては並外れた愛顧が伝えられている。だが、エジプト遠征が成功した頃から、その関係には陰りが見え始める。
 宰相となったシールクーフの権勢はあっけなく終わる。1169年3月23日、彼は食後、突然不快感を訴え死去した。伝えられているところによれば、飽食による肥満が原因だという。彼が宰相の座にあったのはわずかに二ヶ月余りであった。
 ここでシールクーフの後釜に誰を据えるかで議論が起きる。シールクーフ子飼いのアサディーヤ軍のアミールたちはサラディンを推したが、ヌールッディーンの常備軍所属の者の中にはそれに異を唱える者も少なくなかったのである。結局、側近の要求を受け入れたファーティマ朝カリフ、アーディドの意向(アーディドの側近たちはサラディンが若輩ゆえに与し易いと考えた)とサラディン側のアミールの説得工作によりサラディンが宰相の座に付くが、アイヌッダウラ・ヤールーキーをはじめ数人のアミールはこの結果を承服せずシリアへ帰還している。ここに既にヌールッディーンとサラディンの仲違いの萌芽を見ることもできようが、二人の関係が直ちに破局寸前にまで至ったわけではない。ただ、このあたりのヌールッディーン・サラディン間、あるいはエジプト・シリア間の関係は史料によって異同があり、特にヌールッディーンがこの状況をどう考えていたのかははっきりしない。
 そもそも、シールクーフが宰相になった時点でエジプトとシリアの関係は送金(エジプトの年収の三分の一)を巡って摩擦が起きていた。送金の責任はシールクーフが負うことになっていたが、彼は送金を先延ばしにしていたのである。さらにシーア派カリフに対するシールクーフの好意的な態度も加わって、ヌールッディーンはシールクーフのシリアにおけるイクターを没収するという挙に出る。シールクーフが死去してこの問題は一旦棚上げとなるが、サラディンの宰相就任でヌールッディーンは再び不安を覚える。どうやら、ヌールッディーンとの事前の協議は一切持たれていなかったらしい。アブー=シャーマは『二つの庭園』で以下のように述べている。

 ヌールッディーンは、「私の命令もなしに、サラディンはどうしてこのようなことをしでかしたのだろうか」と嘆いた。彼はこの件に関して何通もの手紙を書いたが、サラディンはその言葉に耳を貸そうとはしなかった。

 ヌールッディーンはサラディンに対し、アミール・イスファーサラール(軍司令官)の称号を与え、ひとまず彼がヌールッディーンの代理としてエジプトを統治することは認めた。しかし、この称号以外にはヌールッディーンはサラディンに対して特定の肩書を認めておらず、ファーティマ朝の宰相としての立場も当然ヌールッディーンにとっては問題の外であった。

■アモーリーのダミエッタ攻撃
 そもそもエジプト情勢は引き続き不安定で、下手をするとサラディンが離反するしない以前にサラディン自身が倒され元の木阿弥となる可能性もあった。1169年8月に起きた黒人奴隷兵の反乱が有名だが、他にも同年10月にはアモーリーが十字軍を率いてエジプトの港町ダミエッタを攻撃している。アモーリーはヌールッディーンの支配がエジプトに完全に及んでしまうことを恐れ、結果的に失敗したものの神聖ローマ帝国、フランス、イングランドにまで使者を送り援軍を要請している。アモーリーは西欧からの援軍は諦め、ビザンツと結んでダミエッタを攻撃しようとした。
 この攻撃に対し、サラディンは甥のタキッディーンと叔父シハーブッディーンをマングウィリスというアミールが守っていたダミエッタに送り込み防戦に努めている。ヌールッディーンはサラディンからの援軍要請を受け、アミールのクトゥブッディーン・ホスロウ・アル=ハドバーニーを始めとする援軍を組織してダミエッタへと派遣し、さらに自身も十字軍国家に侵攻している。ここから分かるのは、やはり周囲の状況がそもそもヌールッディーンとサラディンの不和を許していないということである。
 結局、この攻撃は十字軍・ビザンツ側の補給問題から不首尾に終わり、サラディンの権威を高めるところとなった。

■アイユーブ家をエジプトへ
 ヌールッディーンの心中がいかばかりであったかは推測する他ないが、少なくともヌールッディーンとサラディンの不和が表面化するのはまだしばらく後である。1170年の初頭、サラディンの要請を受け、ヌールッディーンはサラディンの父アイユーブにいくらかの兵力を付けてエジプトへ派遣した。この時、ヌールッディーンは彼らの安全を図るため十字軍領であったカラクへ牽制攻撃をかけている(なお、この時ヌールッディーンは狩りに出かけたところを十字軍の騎士と出くわし少数どうしで戦闘になっている)。
 ヌールッディーンはアイユーブに対し、カイロでファーティマ朝カリフを廃してアッバース朝カリフ、アル=ムスタンジドのフトバを読ませるよう言い含めて派遣しているが、この背後にはダミエッタでの成功を知って事を急いだアル=ムスタンジドの非難があったようだ。
 イブン=ワーシルによればさらにこれ以前に、十字軍に対抗させるためサラディンの兄弟であるトゥクテギンとトゥーランシャーを「ヌールッディーンに従うのと同じようにサラディンに従う」ように命じて派遣している。
 アンヌ=マリー・エッディは著書『サラディン』の中で、ヌールッディーンがアイユーブ家のイクターを没収したのは、彼のアイユーブ家に対する敵意の現れではなく、彼らの活動がエジプトに移ったことを承認したためではないかと推測している。
 一方サラディン自身も、その将来の計画はさておき現状でヌールッディーンに逆らおうとはしていない。フトバにはファーティマ朝カリフの後にヌールッディーンの名前を入れ、貨幣にもヌールッディーンの名前を刻んでいる。

■ファーティマ朝カリフ廃絶
 1171年9月にサラディンはヌールッディーンの再三に渡る要請を受け、慎重に事を運んだ上でファーティマ朝カリフの廃絶とエジプトにおけるスンナ派信仰の公定化に踏み切った。スンナ派のフトバが金曜礼拝で行われ、シーア派の文句は削除されるところとなったのである。この後、カリフ、アーディドはこの事実を知らぬまま病で息を引き取った。
 この報せを受けたヌールッディーンはすぐさまバグダードに使節を送りこの慶事を伝え、またアブー=シャーマによれば以下のように言っている。

「私は、代理人として指名した人物(サラディン)に以下のことを託した。すなわち幸運の扉を開くこと、私の望みを成し遂げること、私を導くアッバース朝の訓告を確固たるものとし、不信心者を地獄へ追い落とすことである」

 この時点でヌールッディーンが言っている通りサラディンはまだヌールッディーンの代理人にすぎず、ファーティマ朝断絶という快挙はヌールッディーンに帰せられた。アッバース朝カリフはヌールッディーンに名誉の衣を贈り、ヌールッディーンはカリフから貰った馬に乗り、アッバース朝の黒旗を立ててダマスカスでパレードを行ったという。カリフはサラディンにも名誉の衣を贈っているが、これはヌールッディーンに贈られたものよりも一段価値の低いものであった。カリフも、サラディンよりもまずヌールッディーンの立場を重視していることが分かる。
 ここまではまずまず順調であったと言っていいが、大きな問題が起きるのは翌10月のことである。

■シャウバク問題
 1171年10月、サラディンは十字軍領となっていたシリア南部の街シャウバク(モンレアル)を包囲した。ヌールッディーンはこれを援護すべく南下したが、突然、サラディンは包囲を解いてエジプトに帰還してしまう。
 この時サラディンは部下から、シリアとエジプトの緩衝地帯となっているシャウバクがムスリム領となれば、ヌールッディーンは容易にエジプトまで侵攻できてしまうだろうと忠告され、十字軍と和議を結んだのだという。ヌールッディーンにこの不可解な撤退に疑念を持たれたサラディンは、カイロでのシーア派の策動を理由に上げたが、ヌールッディーンはこれに納得せず、エジプト侵攻の決意を固めた。サラディンは父アイユーブの助言に従いヌールッディーンに服従の姿勢を見せ、ヌールッディーンはひとまずエジプト遠征を取りやめた。これはイブン・アル=アシールが伝えている経緯だが、ザンギー朝寄りの彼の記述にはやや問題があるように思われる。
 実際に撤退が行われたのはアラブ遊牧民との闘いによるサラディン軍の疲弊にあったようである。この後もサラディンはヌールッディーンに服従する姿勢を見せ、あえて彼に逆らおうとはしていない。ただ、サラディンがヌールッディーンを実際の脅威として警戒しはじめたのは確かなようだ。
 サラディンは兄トゥーランシャーを1172年未頃にヌビア、1174年2月にイエメンに派遣しこれらを征服している。理由は種々あるようだが、その一つにヌールッディーンが万一エジプトに侵攻してきた時の避難場所の確保が挙げられる。
 ヌールッディーン自身はこの時期、乳母の息子で重臣であったマジドゥッディーンの死去や、地震の発生、北方のクルチ・アルスラーンとの戦争、ザンギー朝モスル政権の後継者問題への介入などでエジプトにはあまり目を向けていないように見える。

■ヌールッディーンの意図はいかに
 果たして、ヌールッディーンはエジプト侵攻を実際に行うつもりだったのだろうか。1174年初頭頃までにヌールッディーンはサラディンの送金の遅れに苛立ちを覚え、主任財政官をエジプトに送り込んでいる。サラディンはエジプトそのものが金食い虫であると弁解し、財政調書をヌールッディーンのもとへと送っている。
 これとほぼ同時にヌールッディーンはザンギー朝モスル政権や両アルトゥク朝などに援軍を要請し、軍を編成しようとした。イブン・アル=アシールはこれは対十字軍戦に乗り気でないサラディンからエジプトを奪うために招集した兵力であるとし、バハーウッディーンも、以下のようにサラディンの台詞として少なくともヌールッディーンがエジプト攻撃を行うという噂があったことまでは伝えている。

「我々はヌールッディーン殿がエジプトを攻撃するだろうと耳にした。彼の敵意が現実のものとなれば、私が彼に反旗を翻すべきで、またヌールッディーン殿の権威を否定し反乱を起こして軍を進めるべきなのだと主張する僚友がいた。私はただ一人、彼らに同意せず、そんな馬鹿げたことはないと説得し続けた。我々の意見の違いは彼の死の報せが届くまで続いていたのだ」

 一方サラディンはと言えば、バハーウッディーンが伝えるこの台詞とは裏腹にカイロ郊外に軍を編成している。もっとも、この目的ははっきりせず、仮にヌールッディーンに対抗するためだったとすれば、1174年の5月半ばにイエメンのトゥーランシャーからヌールッディーンに対する援助の申し出をしているのもおかしいということになる。
 結局のところ、真相は闇のままとなる。軍を編成している最中、ヌールッディーンは扁桃腺炎の悪化で死去してしまったのだ。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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