9.シリアの覇者堕つ

以下詳細
 
■「一ヶ月後に会えるかどうかさえわからないのだ」
 イブン=アル=アシールが伝えるところによれば、ヌールッディーンは死去の11日前、あるアミールと遠乗りに出かけていた。そのアミールがヌールッディーンに「来年もこうして会えるかどうかは神のみぞ知るところですね」と言ったところ、彼は「いや違う。一ヶ月後に会えるかどうかさえわからないのだ」と応えたという。果たして、彼はこの時既に死期を悟っていたのだろうか。
 1174年5月15日、扁桃腺炎を悪化させたヌールッディーンは、ラフバ出身の医師ユースフ・イブン=ハイダラが瀉血を進めたが、「60歳の老人から血など抜くものではない」と拒否し、病を悪化させ死去した。イブン=アル=アシールが伝えるイブン=ハイダラの言葉を信じるなら、ヌールッディーンは病状が悪化するまで医者に診せようとしなかったようだ。
 なお、死因についてマクリーズィーは狭心症であると伝えているが、イブン=アル=アシールの方が時代が近く、信用するに足るのではないかと思われる。
 彼の後は、息子アル=サーリフ・イスマーイールが継いだ。
 当時11歳のサーリフを擁立したのは、アル=ムカッダムの息子のシャムスッディーン・ムハンマド・イブン=アブドゥルマリク、通称のイブン=アル=ムカッダムで知られる男だった。彼は後にアレッポ勢との駆け引きに負け、サラディンをダマスカスに引き入れることとなる。
 サーリフはアレッポへ退いた後、サラディンと和約を結び逼塞していたが、20歳に至らぬ間に死去した。アレッポはザンギー朝モスル政権系の君主、ザンギー2世の進駐を受けて彼に統治されるところとなる。ところが1183年の5月未、サラディンはまたたくまにアーミドを奪取し、周辺諸侯の帰順を取り付けてアレッポを包囲した。
 アレッポの住民はザンギー朝への忠誠心が強く、サラディンへの開城を拒否したが、ザンギー2世はサラディンと密かに交渉し、スィンジャールの統治を認めてもらう代わりにアレッポを明け渡す。アレッポの住民はこれに激怒し、怒ったある住民が「お前に相応しいのは王ではなく洗濯男だ!」と怒鳴ったという。
 ともあれ、ここに名実ともにザンギー朝のシリア支配は無血で終わりを告げた。

■ヌールッディーンとは何者であったか
 さて、ここまででひと通りヌールッディーンの生涯を追ってきたわけだが、ヌールッディーンがその生涯において目指したものは何だったのだろうか。
 彼を対象とした伝記研究の古典、『ヌールッディーン』を著したエリセエフは、ヌールッディーンが生涯をジハードに捧げたのだと見ている。これは、イブン=アル=アシール、イブン=アル=カラーニシー、それにイマードゥッディーン・アル=イスファハーニーなど彼と同時代の歴史家たちが、ヌールッディーンに与えている評価を反映したものだ。
 日本の西アジア史研究の大家、佐藤次高氏も著書『イスラームの「英雄」サラディン』の中でヌールッディーンについて、彼が前線で戦うことを辞さなかったエピソードを挙げた後、「危険をかえりみることなく、常に軍隊の先頭にたって異教徒と戦う、一途で勇敢な君主」「政治的な駆け引きとはあまり縁のない、まっすぐな性格の人物」とし、また別の部分で「敬虔で、しかも真面目な人物」と述べている。
 だが一方で、ヌールッディーンにとって、ジハードの遂行は究極的な目的なのではなく、領地を拡大する征服活動のための道具にすぎなかったという解釈も成り立つ(これは、彼の父ザンギーの延長線上にヌールッディーンを置く見方であろう)。十字軍史家アスブリッジは著書『十字軍』の中で、先に見てきたようなヌールッディーンが十字軍と妥協したり、十字軍を弱体化させる好機を逃してまで同胞たるムスリムと戦ったりしている事例を挙げ、必ずしもヌールッディーンにとってジハードが最優先課題ではなかったと述べている。
 アスブリッジが言うように、一人の人間の内面を信仰や野心だけで割り切ってしまうには無理がある。ただ、彼の信仰心が見せかけのものであれ、本心からのものであれ、一つ言いうるのは、彼は「自分が信仰心厚い人間である」という評判を利用することに非常に長けていたということだ。イブン=アル=アシールが伝えるファクルッディーン・カラアルスラーンが部下に「ヌールッディーンに従わねば、法学者やスーフィーたちから総叩きにあう」と漏らした事例はもとより、歴史家たちがヌールッディーンを持ち上げていること自体がそれを示している。

■時代の中のヌールッディーン
 やや長いスパンで眺めた時、ヌールッディーンの位置付けはどうなるだろうか。
 ムスリム=シリアの統一は、ヌールッディーンが父であるザンギーから引き継いだ政策だが、ザンギーがダマスカスにジハード遂行を要請し、それを裏切る形でサヴィンジを牢にぶち込んだという大いに非難しうる方法を取ったのに対し、ヌールッディーンは大義名分を立て、世論を味方につけてダマスカス併合をなしとげた。
 またその後に目を向けると、ヌールッディーンの王朝はサラディンに乗っ取られた形になるにもかかわらず、ヌールッディーンの政策はほぼサラディンに継承されたと言ってよい。自らの「敬虔さ」を宣伝政策に用いること、アッバース朝の重視とスンナ派の護持に加え、エジプトにおけるイクター制の施行はサラディンがザンギー朝から持ち込んだものであろうという。むろん、これには裏切り者と見られたくないサラディンが意識的にヌールッディーンの後継者を演じたという面もあるだろう。だが、サラディンはアイユーブ朝がほぼ安定した後もこの方針を貫いている。ザンギーがアッバース朝よりもセルジューク朝に付くことが多く、スンナ派振興策も煮え切らないものであったことを鑑みると、多くの面でザンギーとヌールッディーンの連続性よりもヌールッディーンとサラディンの連続性の方が大きいのは明らかだ。
 さらに、ヌールッディーンの評価と同じ問題、すなわち、信仰心が見せかけだけのプロパガンダのためのものに過ぎなかったか、それともその本心からのものであったかという論争は、サラディンに対しても起こっている。現代の史家であればエーレンクロイツやヒレンブランドは、公的イメージ・プロパガンダを重視し、逆にジョディシュキーは、例え「宗教上の信条は宣伝にさらされたとしても、真摯なものであった」と述べ、また佐藤氏は「ムスリムの君主として信徒たちの範たるべく努力を重ねたと考えるのが妥当ではないだろうか」としている。ここでは深く立ち入らないが、この論争の存在自体、これもまたサラディンがヌールッディーンの後継者であることの一つの傍証となろう。
 ヌールッディーンについて、ザンギー時代の政策から大きく舵を切った、サラディンの先駆者として大いに評価しうるのではないだろうか。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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