11.ヌールッディーンの被官

以下詳細
 
■マムルーク
 被官の紹介に入る前に、まずマムルークについて説明しなければならない。ヌールッディーンの配下に限らず、この時代の軍人にはマムルークもしくはマムルークの家系出身の人物がしばしば見えるからである。
 当時、西アジアでは広くマムルーク制度が採用されていた。平たく言えば、「奴隷軍人」である。8世紀始め、トルコ系勢力とアラブ勢力の衝突が始まった。戦闘で捕虜となったトルコ人は、奴隷として扱われ、その優秀な戦闘能力を買われて軍人として採用されることになる。これがマムルークの起こりだ。後の時代にはクルド人、モンゴル人、アルメニア人、スラヴ人、ギリシア人などもマムルークとして採用されることになった。マムルーク朝時代の記録では「契丹人」(字義通りの契丹人か、もしくはいわゆる漢族)のマムルークもいたという。なお、これに対して黒人奴隷兵は「スーダーン」「アビード」などと呼ばれている。
 「奴隷」とは言ってもその地位は高く、軍団の司令官や地方総督に抜擢されるものも多く、事実ヌールッディーンの祖父アクソンコルはマリクシャーのマムルークであり、アレッポを任されていた。一般にマムルークが高位の職務につく時には奴隷身分から解放されると言われるが、史料上、その人物が未だ奴隷身分なのか解放奴隷であるのかはっきりしない場合もある。

■ムクター
 イクター保持者のことを「ムクター」と呼ぶ。イクターとは、カリフやスルタンから与えられる分与地、もしくはそこからの徴税権を指す言葉である。もともとはブワイフ朝のムイッズッダウラが悪化しきっていた財政状態のために軍人たちへの現金俸給が賄いきれず、徴税権を配分したことが始まりである。後々の政権もこの政策を踏襲し、ザンギー朝も配下の軍人たち(マムルークを含む)にイクターを配分している。
 ムクターは、イクターからの収入によって配下の兵を養い、イクター授与者に対する服従と軍事奉仕(ヒドマ)を義務付けられていた。基本的にイクターは君主の裁量による授与・没収が可能であり、イクター収入を失った軍人は「浪人」(バッタール)となり、不遇に喘ぐこととなる。
 ザンギー朝ではイクターが世襲されることがしばしば見られ、これはアイユーブ朝時代のシリアにも引き継がれる(なお、アイユーブ朝支配下であっても、エジプトではイクターの世襲はほとんどなかった)。
 では、ヌールッディーン配下の文臣、軍人たちについて以下で見ていこう。

■バヌー=アル=ダーヤ家
 ヌールッディーンの乳兄弟にあたるため、バヌー=アル=ダーヤ(乳母の子ら)と呼ばれる。兄弟は4人。政権運営に重要な役割を果たした。

●マジドゥッディーン・アブー=バクル
 アレッポにおけるヌールッディーンの代官。1157年10月にヌールッディーンが病に伏した際はアレッポを掌握しており、ヌスラトゥッディーンと対立。シリア北部の軍を統括し、1168年のカルアト・ジャアバル攻撃の際援軍を率いている。最終的に、アレッポ、ハーリム、カルアト・ジャアバルをイクターとして保持していた。1170年5-6月没。彼の死去にヌールッディーンは大いに動揺したとバハーウッディーンは伝えている。

●シャムスッディーン・アリー
 長男。アレッポの城砦の中に居を構えていた。マジドゥッディーンの没後、彼の地位を引き継ぐ。ヌールッディーン没後、アレッポの指揮を摂らねばならない立場にあったが、その時既に半身不随だったようである。

●バドルッディーン・ハサン
 アレッポの警察長官を務めた。ヌールッディーン没後、サーリフがアレッポに到着した際にシャムスッディーンともども投獄されている。 

●サービックッディーン・ウスマーン
 三男。ヌールッディーン死後サラーフッディーンに仕え、サラーフッディーン死後まで生き残っている。

■アル=シャフラズーリー家
 シャフラズール出身のウラマーの家系で、ヌールッディーン以前からザンギー家と深い関係にあった。ザンギー没後もザンギー朝のシリア政権、モスル政権の両方でカーディーに任じられる人材を輩出している。

●カマールッディーン・ムハンマド
 1098-9年にモスルで生まれる。
 バグダードで法学を修めた後、ザンギー時代のモスルのカーディーとなる。ザンギーはしばしば彼を外交使節として起用しており、対東方外交に用いていたようである。ザンギー没後、はじめはモスル政権のサイフッディーンに仕えたが、何らかの理由で投獄される。モスル政権がクトゥブッディーンに代替わりすると解放されたが、彼を見限って1155年頃にヌールッディーンに鞍替えする。
 ヌールッディーン統治下では事実上の宰相として振る舞い、ダマスカスの大カーディーに任ぜられ、シリアの全カーディーを統括する権限を与えられた。また彼の息子のムヒーユッディーンはカマールッディーンの代理としてアレッポのカーディーを務めた。
 外交関係ではしばしばアッバース朝との交渉に当たっている。
 ヌールッディーン没後はダマスカスにおいてサラディン擁護の論陣を張り、サラディンのシリア進駐後も死去の直前までダマスカスの大カーディー職にあったようで、相変わらず外交使節も務めている。
 詩人としても名を残しており、イマードゥッディーン・アル=イスファハーニーが彼から披露されたという詩を書き残していたようだ。イブン=ハッリカーンによれば、慈善に励み、法学者としても有名であり、また陽気でユーモアある会話のできる人物であったという。
 なお、先にヌールッディーンが裁判で訴えられた際、法官に自身に遠慮せず正し裁定を下すよう求めて被告人席に座ったという逸話を紹介したが、その時の法官は彼であった。
 1176年7月15日没。

●ムヒーユッディーン・アブー=ハーミド
 カマールッディーン・ムハンマドの子。アレッポにおいて父の代理を務めていた。
 サラディン期にはザンギー朝モスル政権との和議に関連して、アッバース朝との交渉のためバグダードへ出向いている。

■サラーフッディーン・ムハンマド・アル=ヤギシャーニー
 もとはアンティオキアのヤギ・シヤーンのマムルークだった。ザンギーに仕え、度々南進の先遣隊を率いる。
 ザンギー没後ははじめ名目上のセルジューク朝君主アルプ・アルスラーンに付いたが、すぐに離脱を求めヌールッディーンのもとへ走る。
 1149年の対アンティオキア戦の時には大規模な軍勢を率いている。
 1157年の未に死去。地位は息子たちへ引き継がれた。

■イマードゥッディーン・アル=イスファハーニー
 イラン系。サラディンの側近として、また『シリアの稲妻』の著者として有名。
 もとはバグダードでアッバース朝の宰相に仕えていたが、その宰相の死去とともに失脚し、ダマスカスへ移住、カマールッディーンの知遇を得た。
 イブン=ハッリカーンによればカマールッディーンは、「彼の優秀さと才能をスルタンのヌールッディーンの御前で激賞し、公文書の起草に全きうってつけの人物であると推薦」し、彼はヌールッディーンに書記として登用される。
 バグダードへ使節として派遣された後、ヌールッディーンは彼を閣僚の長(イシュラーフ・アル=ディーワーン)にまで取り立てている。
 もともとイマードゥッディーンのおじとサラディンの父アイユーブが知り合いだったようだが、この時期にイマードゥッディーンとサラディンは交流を深めたようである。
 ヌールッディーンが没すると政争に敗れバグダードへ向かうが、サラディンがシリアへ進駐したとの報せを受け、シリアへ引き返し彼に仕えることとなった。
 なお、イマードゥッディーンの兄弟のタージュッディーンはカリフ・ナースィルに仕えていたようである。その他、さらに2人の兄弟がいたことが確認できる。

■アイユーブ家
 クルド系。もとはセルジューク朝のバグダードのシフナだったビルフーズの代官で、ティクリートを治めていた。
 ザンギーがムスタルシドに敗れた際に彼の渡河を助け、その時の縁で後にザンギーに登用される。

●ナジュムッディーン・アイユーブ
 サラディンの父として知られる。
 ザンギーに登用された後、ザンギーがウヌルから奪ったバールベクを任されそこに滞在していたが、ザンギーの死去に伴いウヌルがバールベクを攻撃すると、弟シールクーフとは袂を分かちウヌルに降伏してダマスカスで登用された。ウヌル没後にダマスカスの宮廷で隠然たる力を振るい、ヌールッディーンに有利になるよう工作を展開。ダマスカスがヌールッディーンに無血で開城した要因の一つは、アイユーブとシールクーフが連絡を取って連携して動いていたことである。
 ヌールッディーンのダマスカス併合の後は彼に仕え、ダマスカスの統治権を委ねられる。ヌールッディーンの御前では、唯一彼のみがヌールッディーンの許可を得ずとも着席することを許されていたという。
 サラディンのエジプト掌握の後、ヌールッディーンによってシリアからエジプトへ派遣され、シリアとエジプトの衝突回避に努めた。
 1173年8月没。不注意による落馬が原因と伝えられる。
 なお、バールベクには彼が建立したナジュミーヤと呼ばれるハーンカーがあった。

●アサドゥッディーン・シールクーフ
 アイユーブの弟。イブン=ハッリカーンとマクリーズィーによれば、ザンギーの生前からヌールッディーンに仕えていたらしい。
 ザンギー死去の直後、ヌールッディーンのもとへ走り事態収拾に動く。ザンギー朝モスル政権の宰相ジャマールッディーンとパイプがあったようで、ザンギー朝が二系統に分裂しながらも存続できたのは彼の力が少なからず働いている。
 ヌールッディーンの下では最高位のアミールの一人であり、ヌールッディーンの軍勢を指揮した他、直属のアサディーヤ軍団も組織していた。
 イナブの戦いの際、アンティオキアのレイモンを討ち取ったのは彼であったとの噂があったことが伝えられている。
 また、ヌールッディーンが病に倒れ、ヌスラトゥッディーンを後継者に指名した際、ヌールッディーン没後のダマスカス方面の支配はシールクーフに委ねられる手はずになっていた。
 三度のエジプト遠征の総指揮を任され、最終的にその目標を成し遂げるが、1169年3月、エジプトの支配体制を整えないまま食後に腹痛を訴え頓死。
 なお、シールクーフとアイユーブの遺体は同じ場所に埋葬されたが、1184年にメディナに移葬されたという。
 直属の部下に、トルコ系宦官のバハーウッディーン・カラークーシュ、クルド系の軍人でウラマーでもあったディヤーウッディーン・イーサーがいる。ディヤーウッディーンはヌールッディーン軍の閲兵を担当し、毎朝、兵を招集していた。

●サラーフッディーン・ユースフ
 サラディンとして知られる。アイユーブの息子。
 はじめ、父アイユーブとともにダマスカスのウヌルのもとにいたが、1152年、14歳でアレッポのシールクーフのもとへ移る。
 アブー=シャーマによれば、シールクーフは彼をヌールッディーンと引き合わせ、ヌールッディーンは彼に上等のイクターを授与したという。
 ダマスカス陥落後の1154年にヌールッディーンによってダマスカスのシフナと、ディーワーンの監督に任ぜられるが、少々荷が重かったのか数日で職を辞してアレッポへおもむいている。
 シールクーフの三度のエジプト遠征に気が進まないながらも同伴。最終的にエジプトの宰相に任ぜられ、その実権を握り、アイユーブ朝を打ち立てる。

 ちなみに、サラディンの母方の叔父、シハーブッディーン・マフムード・ブン=トクシュ・アル=ハーリミーもアイユーブ家と行動を共にし、ヌールッディーンに仕えている。

■マフムード・アル=ムスタルシド
 ブーリー朝時代からダマスカスのハージブ職にあり、ヌールッディーンがダマスカスを征服した後も続けてヌールッディーンのハージブとなった。

■ウサーマ・ブヌ=ムンキズ
 1095年生。もとはシャイザルの城主家の一員だったが、1157年の地震で一族ほぼ全てを失う。『回想録』の著者として有名。ザンギー、ヌールッディーン父子の他、アルトゥク朝のファクルッディーン・カラアルスラーン、イェルサレム王国のフールク王などとも交流があった。
 彼がヌールッディーンに仕えていたのは1154年から64年までの11年間で、しばしばヌールッディーンの狩りに付き合ったり、軍事行動に参加したりしている。ヌールッディーン時代におけるサラディンのことは『回想録』には書き残していないが、シールクーフの名前は出しており、面識があったようである。
 余談だが、彼の『回想録』にはヌールッディーンと狩りに出かけた時の記述がある。興味深いので『回想録』の和訳から引用しておこう。
「或日のこと、アレッポのカラー・ヒサールでヌールッディーンの下に参上したとき、丁度、ヌールッディーンが狐に向けて一匹の雌犬を放ったところであった。ヌールッディーンとわたしは、狐の後を追って馬を走らせた。雌犬が追いついて狐の尻尾を捕えたとき、狐はふりむきざま犬の鼻に噛みついたので、雌犬は悲鳴をあげ、亡きヌールッディーンは大笑した。それから狐は犬にはかまわず、穴の中に隠れてしまい、我われは狐を取り損なったのである」
 どちらかと言えば厳格なイメージのあるヌールッディーンが大笑いしたという貴重な場面である。
 晩年はサラディンの庇護のもとで平穏に暮らし、1188年に死去。

■アイヌッダウラ・アル=ヤールーキー
 トルコ系のアミール。ザンギー及びヌールッディーンに仕えた。
 第三回エジプト遠征に参加。サラディンがエジプトの宰相に就任した時はヌーリーヤ軍団を率いてサラディンのもとを離脱、シリアへ帰還している。

■サイフッダウラ・シワール・イブン=アイダキン
 もとはブーリー朝の軍人だったが、失脚したところをザンギーに拾われ、アレッポ方面軍の司令官に任ぜられる。
 ザンギー没後はヌールッディーンを擁立し、その権力の確立に功があった。

■クトゥブッディーン・ホスロー・イブン=タラーイー
 クルド人アミール。ジャズィーラのイルビル領主アブー=アル=ハイジャーの甥にあたる。

■ムワッファクッディーン・アブー=ターリブ・ハーリド・イブン=ムハンマド
 1171年以降のヌールッディーンのワズィール。

■ファクルッディーン・マスウード・イブン=アビー=アリー・アル=ザファラーニー
 有力なアミールの一人。1168年のカルアト・ジャアバル攻撃の際一軍を率いる。
 サラディンのシリア侵攻までにホムス、ハマー、バーリーン城、サラミーヤ、テル・ハーリド、エデッサなどをイクターとして保持していたが、イブン=アル=アシールによれば苛政のために住民の反発を招き、ヌールッディーンの死後は領内をまともに統治できていなかったという。
 サラディンのシリア侵攻時にはその威容を恐れ、自ら降伏に出向くが、降伏条件で決裂しバーリーンに立てこもり、サラディンの攻撃を受け開城。その後もエデッサでサラディンと戦うなどしていたようである。

■イッズッディーン・ジュールディーク・アル=ヌーリー
 ヌールッディーンのマムルーク。第三回エジプト遠征に従軍、サラディンと協力してシャーワルを殺害する。その後は(おそらくアイヌッダウラとともに?)シリアへ戻っていた模様。サラディンのシリア進駐には抵抗を示したが、アレッポにおいて逮捕される。
 その後、サラディンに仕え彼と行動を共にした。サラディンの死去直前にはイェルサレムの統治者に任じられている。
 1194/5年、アレッポにハナフィー派のマドラサを創立している。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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