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12.ヌールッディーンの家族

以下詳細
 
■アクソンコル家
 ヌールッディーンの家系は祖父の代、マリク・シャーのマムルーク、アクソンコルに遡る。アクソンコルに何人の子があったのかは分からないが、歴史の表舞台にたったのはザンギーのみで、ヌールッディーンに叔父や従兄弟がいたかどうかは分からない。なお、先にも触れたがザンギーを保護したモスルのキワームッダウラ・カルブガーはアクソンコルの兄弟を名乗っていた。
 ザンギーとヌールッディーンの父子関係については、あまり伝えるものがない。ヌールッディーンがザンギー最期の地となったカルアト・ジャアバルの包囲に参加していたことに鑑みるに、父の遠征に従うことはあったのだろう。

■兄弟
 ヌールッディーンはザンギーの次男にあたり、彼の兄弟は彼自身を含めて四人いる。彼らの動向については柳谷「ザンギー朝二政権分立期の研究」に詳しく、本稿でも大変参考にしている。

●サイフッディーン・ガーズィー
 1106/7年生。
 本文中でも紹介したが、ザンギーの長男にあたる。ザンギー生前は父の名代としてセルジューク朝に伺候。
 ザンギー没後にモスルを確保し、ヌールッディーンと勢力を二分。ザンギー朝は彼が優位に立ちながらもそれぞれの政権の独立性を認める形でまとまった。
 堅苦しさが目立つヌールッディーンとは異なり、兵と鷹揚に接し、気前の良い人物であった。
 軍の装備に統一的な基準を設け、近隣の諸侯も皆彼を真似たとイブン=アル=アシールが伝えている。
 第二回十字軍の撃退などに動くが、政権を継いでそれほど時がたたない1149年10月に熱病で死去。モスルは弟クトゥブッディーンが継承した。

●ヌスラトゥッディーン・アミーリ・アミーラーン
 ザンギーの三男。
 1157年、ヌールッディーン大病の際に後継者に指名される。しかし、ヌールッディーンが起き上がれない時期にアレッポを占領し、シーア派住民の支持を得るためにアザーンにシーア派のフレーズを復活させ、後に奇跡的に回復したヌールッディーンの不興を買う。彼はハッラーンに逃亡し、ヌールッディーンは後継者指名をヌスラトゥッディーンからクトゥブッディーンに切り替えた。
 1164年、ヌールッディーンによるバーニヤース攻撃に参加し、矢を受けて片目を失明する。

●クトゥブッディーン・マウドゥード
 ザンギーの四男。
 イブン=アル=アシールは、彼をおよそ40歳で死去したと伝えているので、これが正しければ生年は1130年頃ということになる。
 サイフッディーンの死後、重臣たちの提言を容れてヌールッディーンの優位を認めたが、1150年代半ばにはアレッポ政権からの自立をはかり、アッバース朝とセルジューク朝の対立に際してセルジューク朝に接近する(ヌールッディーンは一貫してアッバース朝支持であった)。1158年にはセルジューク朝によるバグダード包囲に援軍を派遣している。ただ、セルジューク朝とアッバース朝の対立がアッバース朝優位になるとクトゥブッディーンはアッバース朝に謝罪を行い、ヌールッディーンとの相違も解消された。
 1159年、ヌールッディーンはヌスラトゥッディーンに与えていた後継者指名をクトゥブッディーンに切り替え、モスルとの関係改善を図った。同年、クトゥブッディーンはアレッポに援軍を派遣し、これに応えている。
 治世の末期にはヌールッディーンを支持していた重臣たちの後退によって再び独立志向を強め、後継者指名をヌールッディーンの娘婿となっていた長男ザンギー2世から、次男サイフッディーン2世へと切り替えた。
 イブン=アル=アシールによれば、統治は概して善政であったというが、彼のザンギー朝贔屓を鑑みるとやや差し引く必要はある。
 1170年、熱病によって死去。
 政権は彼の方針通りサイフッディーン2世が継いだが、ヌールッディーンの介入を受け、すぐにザンギー2世に取って代わられた。サイフッディーン2世は代替地としてスィンジャールに領地を与えられることになる。

■妻
 ヌールッディーンの女性関係を伝えるエピソードは少ないが、例外として以下のものがある。
 ヌールッディーンの妻の一人(誰かは不明)が、夫の求めに応ずるだけの余裕がないとこぼしたので、ヌールッディーンは自分がホムスに持っていた3つの店(売上は年20ディナールほど)を妻に任せた。それでもまだ足りないと妻が言ったので、ヌールッディーンは以下のように言った。「私が自由にできるお金は全部、ムスリムのために管理しているにすぎない。私は彼らを裏切りたくないし、おまえのせいで地獄の業火に焼かれるつもりもないんだよ」。
 どちらかと言えば為政者としての顔を見せたのだという話であろう。
 ヌールッディーンの妻として確認できる女性は以下の三人がいる。

●アル=シット
 サーリフの母については名前が分かっておらず、正妻ではなかったようだ。ただ「アル=シット(婦人)」とのみ記されている。アレッポで息子を養育していたが、サーリフに先立たれ、彼女が建立した廟(シタデルの麓にあった)に彼を埋葬したという。その後の消息は不明。

●イスマトゥッディーン・アーミナ・ビント=ウヌル
 ダマスカスの宿将、ムイーヌッディーン・ウヌルの娘。1147年4月、アレッポ=ダマスカスの和解に際し、ヌールッディーンのもとへ嫁ぐ。
 サラディンのシリア進出後はヌールッディーンの後継者であることを示したいサラディンの意向によって彼と再婚(この時既に40を過ぎていた)。サラディンとの間に子は無い。
 ハーンカー、マドラサを建立し多くのワクフを設定していたことが記録に残る。
 1186年のはじめ、病に倒れ、同年のうちに死去。サラディンは彼女に毎日長文の手紙を送っており、イマードゥッディーンは宰相アル=ファーディルの要請で主君がショックを受けるのを避けるために二ヶ月間彼女の死を隠していた。
 生前、彼女自身が建立したダマスカスの廟に葬られる。
 なお、彼女の兄弟(つまりヌールッディーンの義理の兄弟)が1164年のバーニヤース攻撃の際にヌールッディーンの軍中にいたことが確認できる。

●マスウードの娘
 1150年にルーム=セルジューク朝のスルタン、マスウードの娘がヌールッディーンのもとへ嫁いでいた。この婚姻によってルーム=セルジューク朝のクルチ・アルスラーン2世とヌールッディーンは義理の兄弟の関係になるのだが、この事実に反してマスウード没後のルームとザンギー朝の関係はそれほど良くなかったようである。

■子
 ヌールッディーンの子についてはサーリフ以外に目立つ人物は居ない。なお養子的な関係であれば、兄サイフッディーンの息子がヌールッディーンに養育され、クトゥブッディーンの娘と結婚したが、若くして亡くなったようだ。

●アル=サーリフ・イスマーイール
 死去時19歳とイブン=アル=アシールは伝えており、逆算すると1162年生まれとなる。
 ヌールッディーン死去によって11歳でザンギー朝を継承。有力アミールのイブン=アル=ムカッダムが後見人となる。サラディンは裏切り者とみられることを嫌ったので、サーリフの顔を立て、フトバで彼の名前を読み上げさせ、貨幣にも彼の名前を入れいていた。
 ヌールッディーン死去に乗じて事態は流動化しており、モスルのサイフッディーン2世や十字軍の脅威を感じたイブン=アル=ムカッダムはサーリフをアレッポに避難させる。しかし、サーリフを手中にしたアレッポのアミールたちはサイフッディーン2世と結び、イブン=アル=ムカッダムを排除しにかかった。
 これに危機感を覚えたイブン=アル=ムカッダムはサラディンをシリアに招聘、無血でのダマスカス入城となる。
 サーリフは若年ではあったが、人心をよく掌握し、1174年にサラディンがアレッポを包囲した時には演説を打って世論を味方につけようとしている。1176年にサーリフとサラディンは和約を結んで休戦。しばらくアレッポは安泰となったが、サーリフは1181年に病によって死去。アレッポもサラディンの併合するところとなった。

●娘
 モスル政権のクトゥブッディーンの長男ザンギー2世に、ヌールッディーンの娘が嫁いでいる。モスル政権を影響下に取り込む意味合いがあったようだ。ただ、クトゥブッディーンとヌールッディーンどうしの関係は疎遠のままだったという。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
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