10.領国統治

以下詳細
 
■ヌールッディーンの政策
 イブン=アル=アシールは以下のように伝えている。

 私は正統カリフとウマル・イブン=アブドゥルアジーズを除けば彼ほど正義を切望し善政を敷いた人を知らない。
 ヌール=アッディーンはハナフィー派の法に造詣が深かったが、必ずしもその学派に固執はしなかった。彼はハディースを学び、それを他の人々に伝えた。
 彼の正義について言えば彼は領国においていかなる不正な税やウシュルをも課さず、エジプト、シリア、ジャズィーラ、そしてモスルではそれら全てを廃止した。彼はシャリーアに従い、その法に依って立った。
 公共事業について言えば、彼はシリアの各地、例えばダマスカス、ホムス、アレッポ、シャイザル、バールベク、その他の地などに市壁と城壁を建築した。さらに、シャーフィイー派とハナフィー派のマドラサを数多く建て、ヌーリーヤ・モスクをモスルに建設した。病院を建て、また主要道路沿いにキャラバンサライを、領国の各地にスーフィーのための寄宿舎を建築し、そのどれもに多くの寄付をした。私は彼のワクフ建築からの収入が月に9000ディナールに上っていたと聞いた。

 ヌールッディーンの政策としては、まず「正統なイスラーム=スンナ派」の護持が挙げられるであろう。彼はイスラーム法に反する諸税を廃止し、自身はハナフィー派であったが他の三法学派も含め四大法学派に理解を示し、彼の治世下ではマドラサが多く建立され、彼が建設したヌーリーヤ学院には彼自身が埋葬されている。さらに、スーフィーにも援助を行っていたようで、ハーンカーをワクフとして寄進したりしている。
 彼は病院や浴場なども建てているが、ヌールッディーン浴場は幾度もの改修を経てダマスカスに現存している。

■アレッポのシーア派住民
 ヌールッディーンの領国はまずアレッポから広がっていったが、そのアレッポはシーア派住民の多い土地だった。かつてのアレッポの支配者、ハムダーン朝の名君サイフッダウラは、ビザンツの侵攻によって減少した人口を回復するため、自身が信奉するシーア派の十二イマーム派に属する住民を他地域から移住させていたのである。
 ヌールッディーン時代に至るまで、シリア=セルジューク朝のリドワーンは親ファーティマ朝政策を採りシーア派を優遇していたし、十字軍という現実的脅威が迫る中ではスンナ派とシーア派の対立は顕在化していなかった。その上先述の通り、ザンギーは大して宗派政策に興味を示しておらず、例えばシーア派のアザーンを禁止するなどの政策も行わなかった。
 ヌールッディーン自身も当初はシーア派住民の活動を放任しており、シーア派からも好意的に見られていた。
 だが、ヌールッディーンはスンナ派振興策を全面に打ち出す方針を固めた。このことは、とりもなおさずヌールッディーンの膝元であるアレッポのシーア派住民との軋轢を意味することになる。
 1148年、ヌールッディーンはシーア派式のアザーンを禁止し、シーア派の有力者を街から追放している。イブン=アビー=タイイによれば、これはヌールッディーンと、ウヌルの娘イスマトゥッディーン・アーミナの結婚に際して、ウヌルが結婚の条件にスンナ派の優遇を挙げたからであるという。しかし、1157年の大病の際に弟ヌスラトゥッディーンがシーア派住民に担ぎ上げられるなど、混乱も大きかった。
 ヌールッディーンが支配の正統性をアッバース朝に求めたのは先述の通りであるが、そうは言ってもシーア派住民の多いアレッポでスンナ派振興の政策を強行するのはリスクが大きい。にも関わらず、ヌールッディーンがスンナ派振興を進めたのは何故だろうか。谷口淳一氏は、シリア統一及びファーティマ朝との対決を睨むヌールッディーンが、第二回十字軍を退け小康状態になった対外関係を利用し、内政で強攻策を採る余裕ができたためだと見ている。

■シャフラズーリー家の登用
 アレッポのシーア派弾圧と連動して、ザンギー時代からザンギー朝と関係の深いシャフラズーリー家の登用が目立つ。アレッポの裁判官は1世紀以上に渡ってアブー=ジャラーダ家が継承していたが、ヌールッディーンは彼らから裁判官職を奪い、シャフラズーリー家に与えている。アブー=ジャラーダ家はスンナ派の家系であり(実際の裁判では十二イマーム派の見解を採ることが多かったようだが)、単にスンナ派振興策という面から見れば不可解である。また、アブー=ジャラーダ家はヌールッディーン時代に入って以降、マドラサの教師も輩出していない。
 これは、旧来のアレッポの名家の影響力を警戒するヌールッディーンの計算が働いていると考えられる。谷口氏は「アレッポにおける人脈や経済基盤に乏しい学者や新興の家系などは、官職やマドラサの職につくことによって経済基盤と社会的な地位を獲得しえた。権力者に依存せざるをえない新参の学者たちは、当然、権力者に大して従順になることが期待できる」と論じている。またこれに続けて「12世紀初めに目まぐるしく交代した支配者たちに比べれば、長期安定政権を実現し十字軍勢力に反転攻勢をかけたザンギー朝は、アレッポに一定の平和をもたらしたと評価できる。また、ザンギー朝の支配者たちのなかでも、ヌール・アッディーンは、マドラサなどの宗教施設をシリア各地に数多く設立し、スンナ派イスラームの振興に寄与した君主としてとくに高く評価されている。しかしながら、そこには冷徹な為政者の計算があったことも事実なのである」と述べている。首肯できる見解であろう。
 ヌールッディーンはダマスカスの大カーディーに、自身の事実上の宰相役でもあったカマールッディーン・ムハンマドを任命し、アレッポの法官にはカマールッディーンの息子を任命している。ダマスカス征服以降は、司法制度をダマスカスの大カーディーを頂点とする中央集権的な形に再編したのである。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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