アーディル戦記 その1

以下詳細
 

 1193年3月、エジプト・シリアを統一し、十字軍からイェルサレムを奪回したアイユーブ朝の英雄、サラーフッディーン・ユースフが死去した。決して豪傑然とはしていなかったが、人間的魅力ある君主であった彼の存在によって支えられていたシステムは、彼の死後機能不全に陥り、内乱を呼び起こす。アイユーブ朝が個人の人格に頼りすぎる体制であったがために引き起こされた、ある種不可避の事態ではあった。
 時が降って1202年3月、サラーフッディーンの弟、アル=アーディルはこの混乱を収拾し、各地の君侯から全アイユーブ朝のスルターンとして認められるところとなる。
 アーディルは兄サラーフッディーンに比べ、影が薄い。兄の存命中、イングランドのリチャード王との交渉を受け持ったことによって知られている程度だろうか。
 さりながら、内乱の9年は誰にとっても難局の連続であった。アーディルはそれを乗り越え、最終的な勝者となる。この難局を彼が乗り切る過程を見ることによって、アーディルとは何者であったのか、その一端が見えるのではないかと筆者は考えた。
 アーディルと同時代の歴史家、イッズッディーン・イブン・アル=アシールは著書『完史』の中でアーディルを以下のように評している。すなわち、「彼は賢明かつ良識があり、狡知と策略に長け、忍耐強く、温和で、艱難辛苦に耐えた。自身を不快にさせることも耳に入れ、例え謂れ無きことであってもそれを意に介さなかった。必要とあらばすぐさま激怒し、手段を選ばなかったが、必要のない時はその限りではなかった」。また、時代が降ってマクリーズィーのアーディル評は以下のようなものだ。「外交と雑務の処理に巧みであり、経験からよく学んでいたために見通しは明るく、物事を成功に導くことができた。相手とあからさまに敵対することを賢明とは見なさず、むしろ策謀と調略を好んだ」。
 二人のアーディル評からは、頭の切れる優秀な政治家の姿が浮かび上がる。さて、これらの評価は果たして妥当だろうか。筆者とともに内乱の9年を追うことで、読者にも、それを考えてもらいたい。

■内乱のファクター

 まず簡単に、内乱の主要な登場人物とこれまでの略歴を整理しておこう。

①アル=アーディル
 本稿の主人公にしてサラーフッディーンの弟である。サラーフッディーンとはおそらく異母兄弟。1193年の時点で48歳。
 兄に従い対十字軍戦争に従軍し、新設の艦隊庁の長官にも任じられている。サラーフッディーンにとっては良き相談役でもあった。兄の死去の段階ではカラク、シャウバク、ディヤルバクルを保有。
 カラクは、シリア南部、死海東方にある要衝で、すり鉢状の山の上に城塞と市街がある。難攻の拠点で軍事的に重要ではあるが、経済的生産性においてはあまり見るべきものはないように思われる。

②アル=アフダル
 サラーフッディーンの長男。現代の史家からの評判はあまりかんばしくない。サラーフッディーンは彼を後継者としていたが、その取り決めの実効性は甚だ不安の多いものであった。
 サラーフッディーン死去の段階ではダマスカス、イェルサレム、シリア沿岸地帯を保有。ダマスカスはシリア第一の都市であり、かつて全イスラーム世界を統治したウマイヤ朝の都であった街である。ザンギー朝もこの場所に首都を置き、サラーフッディーンもこの地で亡くなった。
 サラーフッディーン没後、すぐにアフダルはカリフ、ナースィルに使者を送り政権の正統性の保証を求めたが、カリフはこれを黙殺した。

③アル=アジーズ
 サラーフッディーンの次男。サラーフッディーンが最も贔屓にした息子だったという。
 領地としては全エジプトを確保。ただし、サラーフッディーン時代の軍事費のツケが回ってきたのか、財政はかなり苦しい状態だったようである。
 部下にサラーフッディーンの宰相であったアル=ファーディルと、サラーフッディーンの叔父シールクーフ期以来の老将バハーウッディーン・カラークーシュがいる。

③アル=ザーヒル
 サラーフッディーンの三男。ザーヒルは学問を好み照明学派の哲学者、スフラワルディーと交流があったが、スフラワルディーは異端の嫌疑を受けてしまう。ザーヒルは父サラーフッディーンに抵抗し、スフラワルディーを保護しようとしたが、結局、スフラワルディーは処刑されてしまった。
 サラーフッディーン死去時はシリア北方の大都市アレッポを所持。
 部下にサラーフッディーンの顧問であったバハーウッディーン・イブン・シャッダードがいる。

 この他、シリア中部においてサラーフッディーンの叔父シールクーフの子孫がホムスを、サラーフッディーンの兄シャーハンシャーの子孫がハマーを確保している。
 話を先取りしてしまうと、皮肉なことに、アーディルに対抗し最後まで政権を確保できたのはサラーフッディーンに後継者に任じられたアフダルでもなく、サラーフッディーンの贔屓の息子だったアジーズでもなく、父に抵抗したザーヒルだった。

■サラーフッディーンの死

 さて、時は1193年3月4日の水曜日、側近バハーウッディーン、ファーディル、そして長男アフダルらが控える中、サラーフッディーンは息を引き取った。群衆は哀悼の叫びを上げ、英雄の死を嘆いた。サラーフッディーンの一番幼い子どもたちは、泣きながら群衆の中へ走りこんだという。
 とは言え、成年に達していたサラーフッディーンの一族たちにとって、悲嘆に暮れている時間はそれほど長く許されているわけではなかった。
 この時、アーディルは自領地のカラクにいた。兄の命でカラクに赴いていたのだが、その直後にサラーフッディーンが死去し、ダマスカスへの帰還が間に合わなかったのである。サラーフッディーン死去の報に接して、アーディルがどう反応したか、我々は直接の記録に当たることはできない。果たして、この段階で、あるいはそれ以前から、アーディルは国盗りを心に秘めていたのだろうか。それとも、これより後、どこかの時点で決意することがあったのだろうか。
 アーディルはアフダルからの度重なる召還にも関わらず腰を上げなかった。様子を見ていたのだろうか。
 だが、この段階でディヤルバクル方面のアーディルの領地に外敵が迫っていた。モスル=ザンギー朝のイッズッディーンである。イッズッディーンはサラーフッディーン没後の混乱に乗じ、領地を奪うつもりであったようだ。
 この事態と、アフダルからの脅迫もあり、アーディルはダマスカスへ出頭。気を良くしたアフダルは、イッズッディーンを撃退するためアーディルに兵力を貸すことを決め、さらにアイユーブ家の諸侯を招集しアーディルに協力するよう命じた。これは結局イッズッディーンが突如病没したため無意味に終わるのだが、アーディルの消極的抵抗があったとは言えこの段階ではアフダルの指揮権はひととおり、アイユーブ家諸侯の間に一定の効果を見せているように見える。
 ところで、アフダルがアーディルに強気の態度を見せたのはなぜだろうか。この後、たびたびアフダルがアーディルに援助を頼んでいるところを見ると、アフダルはアーディルを警戒していたというより、味方に引き入れたかったのではないだろうか。

 1193年8月の未にイッズッディーンが死去し、一旦は事態が収まったかに見えた。しかし戦争こそ起こらなかった裏で、アフダルの地盤は崩れ始めていた。アフダルが宰相に任じたナスルッラー・イブン・アル=アシールが、サラーフッディーン時代からの旧臣を排除しにかかり、その多くがエジプトのアジーズのもとへ走っていたのである。新政権確立のための手段として前代の旧臣が冷遇されることはよくあることだが、これはアフダルにとって悪手となる。サラーフッディーンの宰相であったアル=ファーディルもダマスカスに見切りをつけ、エジプトへ移っていおり、アジーズは自ら彼を迎えに出かけて歓迎したという。
 なお、ナスルッラーは名前の示す通り歴史家イッズッディーン・イブン・アル=アシールの兄弟であり、ゆえにこの前後の『完史』の記述の取り扱いには注意を要する。事実、この件について『完史』に記述はなく、以上はマクリーズィーに依っている。

■アジーズ動く

 この時期から1194年にかけて、旧臣たちを保護したアジーズと追放したアフダルの間で徐々に対立が持ち上がってゆく。サラーフッディーンの部下だったアミールたち(ナースィリーヤ)は、アジーズこそ全アイユーブ朝のスルターンに相応しいと考えた。自分たちを迎え入れてくれたことに加え、アジーズがサラーフッディーンの贔屓の息子であったことも関係しているのかもしれない。彼らは喧しくアジーズにダマスカス侵攻を進言している。
 1194年春、ついにアジーズは動いた。エジプト軍を従えシナイ地峡を越えて北上、ダマスカス近郊に軍を展開し、アフダルに対してモスクでのフトバ(説教)で名前を唱えさせ、コインに名前を打刻する権利を譲り渡すよう要求した。スルターン権力の移譲を求めたのである。
 この時、アーディルはアフダルの要請を受けてダマスカスへ赴き、アレッポのザーヒルをはじめとする他のアイユーブ家諸侯と相談。アジーズがエジプトに加えてシリアの主邑ダマスカスを獲れば、遅かれ早かれ他の領地も奪われるという認識で一致し、連合してアジーズに対抗することを取り決めた。ここに、アーディル、アフダル、ザーヒルらのアイユーブ朝中北部の連合と、南部のアジーズが対立する構図が出来上がる。
 アジーズは賢明にもこの状況を見てダマスカスを奪うことは不可能と判断し、和議を申し出た。妥協は成立し、ほぼそれぞれが従前の領地を治めることで決着を見たが、アフダルはパレスチナとイェルサレムをアジーズに割譲しており、またアーディルはエジプトにあったイクターを安堵されている。これを見る限り、アジーズは必ずしも不利であったわけではないらしい。
 また、アーディルのエジプトのイクターにも注目したい。サラーフッディーン統治時代、アーディルは兄の名代としてエジプトの統治を任されており、また対十字軍戦争にもエジプト軍を率いて参加している(1183年のカラク攻撃、及び1187年のヒッティーンの合戦以降の一連の戦闘)。アジーズとは別に、アーディルの潜在的な地盤もエジプトにあったと見ることもできるのではないか。

■二度目の対決

 さて、一度は退いたアジーズであったが、彼は諦めたわけではなかった。アジーズが再度の遠征の準備をしているとの報せを受けたアフダルは、わざわざダマスカスからカルアト・ジャアバルまで出かけてアーディルを呼び出し、真っ先に援助を求めている。さらにアフダルはアレッポへ赴きザーヒルにも援助を要請。使者を送らず、自ら出向かなければならないところに、彼の権力の弱さを見て取れる。
 アーディルはアフダルがアレッポへ向かっている間に既にダマスカスへ入った。アフダルは相当アーディルを信用していたようで、留守を預かる部下に、アーディルならばダマスカス城塞に自由に出入りしてもよいと言いつけていた。
 イブン・アル=アシール曰く、このタイミングで、アフダルがエジプトを首尾よく奪えた場合、ダマスカスをアーディルに引き渡すという約束があったといい、マクリーズィーによればエジプトの三分の一をアーディルが、三分の二をアフダルが取る約束であったという。また同時に、アフダルの悪政にアーディルが気付いたのもこの時であるとマクリーズィーは伝える。
 1195年初夏、ザーヒルも味方につけたところで、再びダマスカス近郊まで出張っていてきたアジーズのエジプト軍に対し、アーディルは離間策をしかける。アジーズが旧サラーフッディーン系のアミール(ナースィリーヤ)を優遇したことは先に書いた通りだが、旧シールクーフ系のアミールたち(アサディーヤ)は、冷や飯ぐらいの感があった。彼はそこにつけこみ、アジーズとアサディーヤたちそれぞれに書簡を送り、互いの不信感を煽った。これが功を奏し、アサディーヤはアーディル側に寝返る。これによって軍団の戦力が目減りしたアジーズは撤退せざるを得なくなる。
 これに勢いを得たアフダルとアーディルは先年の和議でアジーズ領となっていたイェルサレムに進軍し、これを奪った。
 ただ、この成功でアフダルが調子に乗った様子があったのか、アーディルは慎重になりはじめる。密かにアジーズと水面下で交渉し、和解の機運を探り始めた。
 表向きはアフダルに従いつつ、エジプトへ入りビルバイスを包囲する。この街には、アジーズが派遣していた旧サラーフッディーン系の――要するに、アフダルが冷遇した――アミールたちが立てこもり、アフダルに対向する構えを見せていた。
 あくまで強気に息巻くアフダルに対し、アーディルは以下のように言い放ったと伝えられる。

「我らはイスラームの戦士であるのに、もし一方が他方と争えば誰が不信心者どもを追い返すというのだ? これらの土地はお前の権威の下にあり、お前のものだからあえて争う必要などない。もしお前がフスタートやカイロを武力によって奪うのならば、お前を畏敬する者はいなくなり、敵を利するだけのことになる」

 いささか白々しい台詞だが、本当にアーディルはこう説得したのだろうか? この言葉を伝えるイブン・アル=アシールは先にも書いた通りアフダルの宰相の兄弟であり、強い利害関係を持つ。そのまま鵜呑みにはしがたい。
 ともあれ、アジーズはかつてのサラーフッディーンの宰相アル=ファーディルをアーディルとの交渉に差し向けた。イブン・アル=アシールによれば、これはアーディルがファーディルを交渉当事者にするようアジーズに求めたのだという。
 二人の間で話し合いが持たれ、和平条件の取り決めが行われた。結果、イェルサレムとその周辺は再びアフダル領となるが、他の領地は概ね従前どおりとなった。もう一つ、重要なこととしてアーディルがエジプトのイクターに居住することが決まった。マクリーズィーは、この目的を、アーディルがアイユーブ朝支配を固める腹を決めたからだとしている。

 ともあれ、これまでアフダルと組んでいたアーディルが、シリアを離れてエジプトに入った。これは一つの画期となる。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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