アーディル戦記 その2

以下詳細
 

■アル=アフダルという男

 アーディルがエジプトに移ってアジーズを牽制できるようになったことでアフダルの基盤は回復したかに見えた。しかし実のところ、アーディルはこの前後で完全にアフダルを見放していたらしい。先にアーディルがアフダルの悪政に気付いたと、マクリーズィーが伝えている旨書いた。さて、ではそのアフダルという男、どのような人物だったのだろうか。
 父が亡くなった1193年時点で23歳の若い君主だった。意外なことに、サラーフッディーンは彼にしっかりとした教育を与えたため教養にもそれなりのものがあり、詩作や書に関しては秀でたものを持っていたという。アフダルに関しては利害関係のあるイブン・アル=アシールはともかく、マクリーズィーの評価も高い。マクリーズィーは彼を評し「あらゆる長所を備えていたが、ただ、運にだけは見放されたのだ」と書いている。
 一方、彼の放蕩ぶりもよく強調されるところだ――本稿の主人公であるアーディル自身も、即位後はかなり豪勢な生活をしていたと伝えられているのではあるが――。おそらくこれと関係するのであろうが、哲学者としても有名なユダヤ人侍医、モーゼス・マイモニデスことモーシェ・ベン・マイモーンは、アフダルから健康相談を受けている。それによるとアフダルは、「時折かかる憂鬱症、良からぬ思い、神経不安、および死の恐怖」を訴えていたという。あまり精神的に健康な生活を送っていたわけではないようだ。放蕩三昧にしても、政権を担う精神的な不安の反動だったのではないか。
 もう一つ言いうるのは、彼が懲りない男であったということだ。先取りしてしまうが、アーディルからダマスカスを追われた後しばらくはおとなしく隠棲していたが、アジーズが突如死去するとエジプトに乗り込みこれを掌握しようとする。この企みもアーディルに阻止されると、今度はアレッポのザーヒルと組んでアーディルを攻撃するがこれも失敗しサルハドに追放される。ザーヒルが亡くなった折にはアレッポ領有を望み、こともあろうにルーム=セルジューク朝のスルターン、カイカーウスと組んでアレッポを奪おうとした。しかしこれもまた失敗。とは言え天寿を全うし、最終的に亡くなったのは1225年のことだった。
 こう何度も失敗しているのが、マクリーズィーの言うとおり単に運がなかったのか、それとも彼の見通しが甘く失敗するべくして失敗したのか、筆者に判断する能力はない。とは言え、父の代からの旧臣の冷遇については、往々にして政権を継いだ後継者はせざるを得ないことであり、その結果がどうなるかは本人の能力で左右できる部分と、環境などの運次第の部分とがある。その意味では、この点に関して彼はある程度不運であったと言ってもよい。
 全体的な印象としては、意思と血統はありながら、不運と、不安を抑えたり政治を行ったりする能力不足により王座を追われたように思える。何にせよある意味、かなり人間くさい人物ではあった。

■ダマスカス奪取

 1196年6月、アーディルが動く。エジプトに滞在していたアーディルは、巧みなことに、アジーズの近くにあるアミールを送り込んで今度はアジーズの信用を勝ち取り、アジーズの三度目のダマスカス侵攻をそそのかした。
 一方、ダマスカスのアフダルはと言えば、アレッポのザーヒルがアーディルの野心について忠告したにも関わらずアーディルを信用しきっており、「アーディル叔父が我らを害して何の益があるのだ」と言い放つありさまであった。
 そうこうしているうちにアジーズのダマスカス侵攻がはじまり、アーディルとアジーズはダマスカスを包囲下に置き、ダマスカスの守備を担っていたアミールの一人の寝返りを得て、夜間、アフダルが何も気づかぬ間にダマスカスに入り、市内に兵を侵入させた。同月26日のことである。
 夜が明けてこれに気付いたアフダルは慌ててアジーズとアーディルに面会。既に城内に相手がいる以上いかんともしがたく、大した戦闘もないまま手打ちが行われ、アフダルはサルハドを与えられてダマスカスから追放された。アフダルの宰相ナスルッラー・イブン・アル=アシールは殺されることを恐れザンギー朝治めるモスルへ逃げ去った。
 なお、この時アジーズがアーディル不在の宴会で酔っ払ってアフダルにダマスカスを返却しようかと述べ、アーディルが急いで宴会の場に向かい、相変わらず飲んでいるアジーズに自分へのダマスカス譲渡を強く主張したという一幕もあった。
 エジプトへとアジーズは帰還し、アフダルはサルハドへと向かう。
 ここにおいて、アーディルはシリアの主邑ダマスカスを手に入れた。サラーフッディーンが死去して3年余りが経っていた。

■ダマスカスのアーディル

 この後しばらく内乱はおさまり、アーディルは外部との戦いに従事した。なおこの頃、サラーフッディーンの兄弟でイエメンを治めていたサイフルイスラーム・トゥクテギンが死去している。領地が遠かったためか内乱には加わらず、事態を静観しており、イエメンには特に波乱もなかったようだ。
 さて、1197年8月から翌1198年6月にかけて、ダマスカスのアーディルとエジプトのアジーズは十字軍国家と一進一退の攻防を繰り広げている。サラーフッディーン時代の和約をアジーズは延長していたが、ベイルートのアミールが独自の判断で十字軍の船舶の往来をしばしば妨害していた。十字軍側はアーディルとアジーズに説明を求めたが彼らは何ら手を打たなかった。十字軍国家は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に援軍を乞い、兵力を補充する。
 ハインリヒの派遣した兵団が十字軍国家に入ったという報せを受け、アーディルはアジーズを始め、各地に使者を送って援軍を求めた。アーディルおよび各地の援軍はアイン・ジャールートに集合しヤッファへ進軍、これを奪う。十字軍国家側はイェルサレム国王アンリ・ド・シャンパーニュが急死しており、即座に対応できない。
 十字軍はヤッファを諦め、事の元凶であるベイルートへ進軍、こちらは十字軍側の勝利となり、ベイルートは十字軍に奪われる。その後も戦闘は続き、状況の悪化に伴いアジーズ本人がエジプトからかけつけるなどしたが、結局7月1日、アーディルと十字軍は和約を結んだ。効力は5年と8ヶ月。以後、十字軍国家との共存はアーディルの基本的な外交政策となってゆく。
 7月に和約を結び、一度ダマスカスへ戻った後、彼はすぐに北方へ向けて出立した。隣接するアルトゥク朝のマールディーンを攻めるためである。アーディルは補給線を絶ち、マールディーンを包囲下に置いた。彼がマールディーンにいる間に事態は動く。

■アジーズの頓死とダマスカス攻防

 1198年11月22日、エジプトのアジーズが死去した。ピラミッドの近く、ファイユーム地方で狩りを楽しんでいたところ、なんと事故で落馬し、当たりどころが悪くそのまま死んでしまったというのである。享年26。誰にとっても想定外であったはずだ。
 報せはサルハドに追放されていたアフダル、マールディーン包囲中のアーディル両名にすぐさま伝わった。
 アフダルは当初動く気はなかったが、エジプトのアミールたち、特にアサディーヤが彼を招聘している――前述のとおり、ナースィリーヤはアフダルを嫌っていた――と聞いて考えを改めた。エジプトではアサディーヤとナースィリーヤの間で誰をエジプトの統治者とするかで争いがあり、結局アサディーヤ側の意見が通りアフダルを招聘することとなっていたのだ。なお、この件についてイブン・アル=アシールはアミールたちの依頼によりファーディルの裁定があったとするが、全く逆にマクリーズィーはファーディルが裁定を下すことを断ったとしている。いずれにせよ、ファーディルの意見は既に決まっていた結果を追認することしかできなかっただろう。往年の名宰相も、この頃痛風を病んでいたらしい。
 この間、アーディルはマールディーン包囲にかかりきりで動けなかった。アフダルについて、甘く見ていたのかもしれない。
 エジプトではアジーズの息子マンスールが名目上の統治者となったが、実権はアフダルが握った。
 1199年6月、ナースィリーヤを排除しエジプトを掌握し終えたアフダルは、ダマスカスをアーディルから奪うべく北上する。かつて、ダマスカスをエジプト軍から守らねばならなかったアフダルが、ダマスカスを奪うためにエジプト軍を率いるという皮肉ではあった。
 相変わらずマールディーンを包囲していたアーディルのもとにこの報せが届くと、アーディルはマールディーン包囲を長男アル=カーミルに任せ、わずか200ばかりの騎兵とともにダマスカスへ取って返した。アーディルがダマスカスへ帰ったのはアフダルが到着するわずか2日前、アーディルについてこられたのは200騎中わずか8騎だったという。アーディルの帰還が間に合ったとは言えダマスカスには僅かな守備隊しか残っておらず、危機的な状況であった。アレッポのザーヒルはじめ各地の君侯が再びアフダルのもとに集まり、ダマスカスを包囲する。
 アーディルはイェルサレムに残っていたナースィリーヤのアミールたちに助力を乞い、彼らはそれを受けダマスカスへ進軍。アフダルはこれを妨害しようとしたが、敵の進路を見誤り会敵できず失敗。この助力によってアーディルはいっとき持ち直したが、包囲側によって水道は遮断され、穀物は燃やされ、ダマスカス内の物資の欠乏は厳しく徐々に追い詰められてゆく。逃亡者もではじめ、アーディルは降伏さえ考えた。
 ここにきて、アーディルはマールディーンに残していたカーミルを呼び寄せる。カーミルによってなんとか持ちこたえたアーディルは、得意の離間策をアフダルとザーヒルにしかけた。ダマスカスに捕らわれていたザーヒルの贔屓のマムルークを、アフダルが拉致したように見せかけたのである。
 もともと、これ以前からアフダルとザーヒルの関係は悪化しており、この一件で二人は仲違いし、ダマスカス包囲を解いた。アーディル最大の危機は、こうして切り抜けられた。

■エジプトへ
 何度目のエジプトだろうか。アーディルは、この危機を切り抜けるや、ダマスカスを進発しエジプト攻撃を決めた。ナースィリーヤを率いて南下する。アフダルは既に軍を解散しており、再招集が間に合わない。少数の兵を率いてアーディルを迎え撃つべく進軍するが、1200年1月25日、サーニフの戦いでアフダルは敗れ、カイロへ遁走する。イブン・アル=アシールも、マクリーズィーも、この戦いについて、アーディルとアフダルの間に一戦があり、アフダルが敗れたとのみ書いている。対十字軍の戦闘に関しては小競り合いであれあれほど饒舌に語るこの二人も、ムスリム同士の戦闘は決まりがわるかったのだろうか。とは言え、これは野戦であって、少なからず相手を殺す気でかかっている戦闘ではあっただろう。これまで見てきた通り、アーディルはムスリムに対して自分からしかける場合は街を包囲して相手が音を上げるのを待つか、あるいはダマスカスを奪った時のように手練手管であっという間にことを終えることが多かった。それが、ムスリム、それも甥に対して野戦をしかけるというのはどうしたことだろうか。アフダルに対する怒りがあったか、あるいは焦りか。この時、アーディルは55歳。既に兄が亡くなったのと同じ年齢に達していた。
 さらにこのちょうど同じ日、カイロでアル=ファーディルが亡くなった。サラーフッディーン時代、アーディルはファーディルとともに長くエジプトにいたはずだが、この名宰相の死に彼は何を思っただろうか。
 ともあれ、アーディルはカイロへ進軍、これを包囲する。アフダルは打開策を図るが妙案は無い。いたしかたなく、使者をアーディルに送り、ダマスカスとエジプトを交換しようと持ちかける。だが、アーディルはこれを黙殺。
 ではダマスカスではなくハッラーンとエデッサではどうか……、と、どんどん街の規模を下げていき、結局、アフダルはサルハドに送られることとなった。
 アーディルはエジプトを掌握し、1200年の夏、マンスールの名をフトバから外し、自身の名を読み上げさせた。
 この間、軍団のイクターの監査を行い、各イクター保有者が確保すべき兵数を定めている。
 ここに、ダマスカスとカイロというアイユーブ朝の二大都市はアーディルの手に落ちた。
 だが、未だアーディルに従わぬ者がいる。北部シリアの大都市アレッポを治めるアル=ザーヒルである。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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