アーディル戦記 その3

以下詳細
 
 
■伝説

 かつて、サラーフッディーンが存命だった頃、カイロの城塞は建設中であった。アーディルとサラーフッディーンは連れ立ってその建設現場に出かけた。その折、サラーフッディーンが奇妙なことを言い出した。

 彼は弟のほうを振り向き、「弟よ、私は、この城塞をお前の息子たちのために建設しているのだ」といった。驚いたマリク・アル・アーディルは「神は、この世をあなたとあなたの子孫にお与えになられた」と答えた。するとサラーフッディーンは「お前は私の言葉をわかっていない。私は成功したかもしれないが、私の息子たちは私と同じように幸運だとは思えない。お前は成功していないが、お前の息子たちは幸運に恵まれるだろう」と答えた。

 この典拠の怪しい会話は、マクリーズィーが伝えているもので、松田俊道氏の『サラディン』(p.33)から訳を引用させていただいた。
 事実とも思えないが、サラーフッディーンが弟の血筋に権力が移ることを見越していた、もっと言えば、それを仕方のないこととして承認していたようにも読める。少なくともこういう言説が現れる背景は、アーディル時代の統治にあったのだろう。エジプトは、彼のもとで繁栄を迎えたのである。

■エジプト掌握

 アーディルはエジプトに入り、長男カーミルをエジプトの副スルターンとし正式に後継者に任じ、また別の息子ムアッザムをダマスカス総督に任じるなどしたが、かつてアーディルが長くエジプトで政務を執っていたとは言え、彼のエジプト掌握は必ずしも順調ではなかった。まず、アジーズの息子マンスールを廃位したことにより、協力関係にあったナースィリーヤのアミールたちと対立することになる。彼らは蜂起を望まなかったが、アーディルに対しては非協力的となる。
 マンスール自身はエデッサに追放され、アレッポのザーヒル配下として行動している。
 さらにこの年はナイルの増水が不十分で、エジプトは不作の年であった。食料が不足し、飢饉となり治安が悪化する。
 この困難な状況の中、アーディルはアレッポのザーヒルと向き合わねばならなかった。

■アル=ザーヒル

 アイユーブ朝の内乱の種はまだ残っていた。アレッポのアル=ザーヒルである。ザーヒルは1193年時点で21歳、1200年には28歳になる。サラーフッディーンの三男であり、アーディルは娘ダイファ・ハトゥンを彼に嫁がせていた。
 時折仲間割れをしつつもほぼ一貫してアフダルに協力している。義理堅い男だったか、あるいはアーディルの野心を見抜いていたからだろうか。
 宰相には父サラーフッディーンの顧問であったバハーウッディーンを置き、放蕩にふけっていたアフダルや財政難にあえいでいたアジーズとは異なり、確固とした収入源を持ち、アレッポをしっかりと確保していた。失敗を許さず、無慈悲でかなり厳しい人柄である一方、明敏にして慎重、政治家としてはかなり優秀であったようだ。
 実際のところ、アーディルは彼に娘をとつがせたことといい、アフダルのように街を奪って追放しなかったことといい、この甥には一目置いていたふしがある。彼こそが最後までアーディルに抵抗しえた人物、そして実際に抵抗した人物であった。

■スルターン・アル=マリク・アル=アーディル

 アーディルがエジプトに入ってしばらくした1201年2月、サルハドのアフダル、アレッポのザーヒルらはアーディルと対抗するため周辺諸侯と連絡を取り始めた。
 アーディルはこれを知るとダマスカス総督である息子ムアッザムに報せを送り、サルハドのアフダルを捕えるよう命じる。しかしムアッザムが軍を編成してサルハドへ向かう前に、アフダルはいちはやくアレッポのザーヒルのもとに移っていた。
 ザーヒルとアフダルは連合してダマスカスへ向かい、これを攻撃しようとする。今回は、ザーヒルが全シリアを取り、アフダルがエジプトを取る計画だったという。アーディルはこれを知ってカーミルを代理としてエジプトに残し、軍を率いて北上した。
 同時期、ザンギー朝のヌールッディーン・アルスラーンシャーも周辺諸侯と結び、アーディル領へ侵入している。
 8月半ば、アーディル軍とザーヒル軍の間で戦闘が勃発したが、またもアーディルの計略に引っかかったザーヒル軍は分裂して士気が上がらず、アーディルと和約を結んだ。アルスラーンシャーも旗色の悪いことを悟り引いていった。
 アフダルはサモサタへ隠棲し、ザーヒルはアレッポを確保する。ほぼ従前どおりの取り決めである。この後、アフダルはアーディルと面会しているが、何を話し合ったのか史書は語らない。
 1201年10月、アーディルはザーヒルを屈服させることを諦め、彼と和解する道を選んだ。大量の贈り物を用意し、和平を結ぼうと提案したのである。アーディルはエジプト・ダマスカス・シリア沿岸部、イェルサレムなどを取り、ザーヒルはアレッポを確保する。アフダルはサモサタのみを保持。その他の君侯についても割り当てが取り決められた。
 全ての君侯はこの取り決めを飲み、アル=アーディルは全アイユーブ朝のスルターンとして認められる。1203年3月、アレッポにおいても、ようやくアーディルの名がフトバで読み上げられた。
 この時、アーディル57歳。兄サラーフッディーンの死から9年に渡った内乱の時代は、これでひとまず終結を見たのである。

■その後のアーディル
 スルターン・アル=アーディルは十字軍国家とは共存の道を選び、1204年には休戦協定の延長に応じた。さらには息子の副スルターン、カーミルを海商国家ヴェネツィアとの交渉に当たらせる。商業上の優遇措置と、ヴェネツィアの十字軍遠征への非協力が取り決められた。
 最晩年にこそ第五回十字軍の侵攻を受けたものの、アーディルは謀略と闘争に明け暮れた9年間が嘘のように、14年間の平穏をエジプト・シリアにもたらした。これを長かったと見るか短かったと見るかは人それぞれだろうし、身内で激しく争っておきながら信仰上の敵には甘いという批判も成り立つであろう。ただし、マンスールの追放、アフダルの追放、ザーヒル領の安堵に見るように、身内殺しや幽閉は他のアイユーブ家諸侯に比べれば、その内乱期の長さにもかかわらず非常に少ない――あるいは、少ないからこそ長引いたのかもしれないが。
 基本的に、彼は軍事指揮官というより政治家であった。自分からしかける場合はあまり血を流すような手段を取らず、策謀を好む。相手からしかけられた場合は、1199年のダマスカス防衛戦が示している通りむしろ苦戦している。その意味で、冒頭に示したイブン・アル=アシールとマクリーズィーのアーディル評は妥当であったと言えるだろう。
 最後に一つ、アーディル自身が好んだ冗談を紹介したい。まだサラーフッディーンがスルターンにもなっていない頃の話だ。
「私がエジプト遠征に出かける折、父アイユーブに財布を貸してくれと頼みに行ったことがある。父は「エジプト遠征が成功したらこの財布、金貨で一杯にして返してくれよ」と冗談めかして言った。思いもかけずエジプト遠征は成功し、父がエジプトに来てこの財布のことを尋ねたから、私はエジプトの質の悪い貨幣を詰め、その上に良質の金貨をかぶせて下の質の悪い貨幣が見えないようにして渡したのだ。父はこれを見て「お前はエジプト人からどうやって悪貨を相手につかませるか学んだのか」と言ったものさ」
 自身がどう見られているか、分かっていたからこその冗談ではなかったか。
 兄ほどのカリスマは無く、策謀家ではあったが、それを笑える強さも彼は持ち合わせていたようだ。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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