アーディル、獅子心王の死に想う

執筆時間は三時間ほどなので、まああんまりたいした物ではありませんが……
「リチャード王が……亡くなった、か」
 ダマスカスの静かな夜。アル・アーディルは腰をどさりと椅子に落した。1199年、寒い季節のことである。兄サラディン亡き後、アーディル自身がダマスカスを甥のアル・アフダルから奪取したように、アイユーブ朝は内乱期にあった。アーディルは内乱期につけ込まれることがないように、西洋の動向には常に気を配ってきていた。もっとも、内乱が長引いている原因はアーディルにもある。エジプトを盗る、その決心が出来ない。
 エジプトのスルタンであったもう一人の甥、アル・アジーズが落馬して死亡。エジプトをアイユーブ家の各アミールが狙っている。
 そういう状況下での、イングランド国王の訃報であった。
 多忙な中の報せで、昼にそれを聞いた時にはそれほど気にかけることもなかった。だが、こうして夜、自室で一人になってみると妙な感慨も湧く。
「そうか、あの獅子心王が……」
 敵国の王とはいえ、一度は義兄弟になりかけたのだ。よく覚えている。知性を感じさせる鋭い眼と強靱な体躯、気持ちよく笑う男だった。
 彼が、死んだという。戦の傷だ。戦での死からは最も遠い男だと、思っていた。もちろん戦が好きな男だった。だからこそ、しかし、こうもあっけなく――。
 そこまで考えたところで、扉の外から声がした。
「父上?」
「起きている。入れ」
 長男、マフムードが入ってきた。
「エジプトのマンスールはどうやら周囲の支持を取り付けることに失敗しているようです。ダミエッタとアレキサンドリアの知事から密書が届きました」
「……そうか」
 密書を受け取り、燭台の光で目を通す。
 アーディルは迷っている。エジプトを盗れるか――。シリアとは、ダマスカスとはわけが違う。シリアもまた実り多き地だが、エジプトは三千年来の強国である。自然、狙う勢力も多い。アーディルがダマスカスを盗ったのはアフダルが無能だったからだ。兄の遺志はアフダルの方には向いていなかった。だからこそ、エジプトはアジーズに分封したのだ。アフダルを追ったことについて、兄は許してくれるだろう、その確信はある。だが、エジプトは――。
「マフムード」
「は?」
 スルタンになりたいか、との言葉が喉まで出かかったが、思考を戻す。たずねたのは別のことだった。
「リチャード王を覚えているか?」
「はい、当時、幼いながらに気圧されたことを覚えています。父上によく似ている御仁でした」
 意外な返答。
「私に?」
 密書から目を離し、息子の方を見る。
「ええ。どこが、とは言えないのですが……」
「ふむ、似ていた……か」
 あるいは、俺もころりと死ぬかもしれんな、とアーディルは思った。
 死は怖くはない。いずれ誰もが死ぬ。だが、何もなせぬまま死ぬことは厭う。そうだ、リチャードは「生きているうちに事をなせねば意味がない。この世を動かすのは死者ではなく生者だ」と言っていた。
 マフムードは頭を下げ、退出の許可が出るのを待っている。
 しばらく考えていたアーディルは、ニヤリと笑った。
「ふふふ……嘘を付け、リチャード王。貴方は死して今、私を動かそうとしている」
 口の中で息子には聞こえぬよう台詞を転がす。
 だが、それを思い出して決心が付いた。兄サラディンの遺志は、この世を動かす生者には尊重されこそすれ、強制力は無い。現実は、死者が死んだ時から常に動いていく。ならば……。
「マフムード」
「はい」
「お前はいずれスルタン・アル・カーミルと名乗ることになるだろう」
「……は!? 今、何と……?」
「ふふふ、兄上の廟に参ってくる。留守を頼むぞ」
 アーディルは外套を引っかけ、悠然と部屋を後にした。
 その強引さ、獅子心王とよく似ている。アーディル自信は気づいただろうか。

「私の偉大な兄よ、あなたの強敵<とも>はやはり偉大な人物だ。私も……いや、俺も願わくばその足元程度には追いつきたい……!」
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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