クルアーン異聞―聖典異本伝―

 少し前にバーミンガム大学所蔵のクルアーンが、年代測定によって現存する最古のものであると確認されたことがニュースになりました*1。預言者ムハンマド存命中のものである可能性もあるとのことですが、何がそんなにビッグニュースであったかというと、そもそも書物としてクルアーンがまとめられたのは、ムハンマドの死後20年経ってから、第三代カリフ、ウスマーンの命によるものだとされてきたからです。
 それまで、クルアーンは部分的に書き留められた他、主にハーフィズ(クルアーン暗誦者)によって引き継がれていましたが、戦争でのハーフィズたちの戦死や、領土の広がりに伴い、クルアーンを書物としてまとめる必要が出てきました。ウスマーンはクルアーンを冊子の形にまとめることを命じ、編纂作業がはじまります。書物の形にまとめられたクルアーンを「ムスハフ」といいますが、この時、ウスマーン版以外のムスハフは全て焼却されたことになっています。そのため、現在世界で流通しているクルアーンは全てウスマーン版に基づき、例外はありません。
 ところが今回出てきたクルアーンは、ムハンマド存命中のものである可能性があるといいます。これは、クルアーン成立史に何がしかの示唆を与えてくれる可能性があるわけです。

 さて、枕が長くなりましたが本題、中世に存在した非ウスマーン版のクルアーンの話です。聖典の異本というと、少し眉唾ではないかと疑いたくなる話ですが、実際、これを伝えているイブン・アン=ナディームも半信半疑のようです。概要は以下のとおり。
 ムハンマドの直弟子であったアブドゥッラー・イブン・マスウードは独自にムスハフを編纂しており、ウスマーン版のクルアーンが作られる時、これに抵抗を示したと伝えられる。というのも、彼はハーフィズの一人で、またムハンマドが指名したクルアーン読誦の師範の一人であり、要するに、最初期のクルアーンの権威であったからだ(なお彼、『諸国征服史』などを読んでいるとイスナードにも時折名前が出てきます)。結局、イブン・マスウードはウスマーンに対して折れてイブン・マスウード版のクルアーンは消滅した……はずだった。ところが。
 イブン・アン=ナディームは10世紀バグダードの書籍商で種々の書籍を扱い『アル=フィフリスト』(目録の書)と呼ばれる書誌学の大著を物している人物で、文化史の研究をする上ではかならずぶち当たる人物です。その彼が『アル=フィフリスト』の中で、イブン・マスウード版のクルアーンを実見したと述べているのです。とは言えイブン・アン=ナディームは「イブン・マスウードのムスハフの写本と称するものを数多く見たが、どれ一つ互いに一致するものはなく、その多くが何度も削られた獣皮紙を使っていた。一度200年前に書かれたムスハフを見たが、それには開扉章があった。[情報を伝えている]ファドル・イブン・シャーザーンはクルアーンと伝承(ハディース)に関する権威の一人なので、我々自身が実見したことにもかかわらず、彼からの伝聞を記載した」*2と述べています。
 彼が見たのが偽作であるのかどうなのかは分かりませんが、仮にウスマーン版以前のものだとすれば、これもムスハフ成立の歴史についていろいろなことが分かるであろうという期待から、西洋の学者たちは血眼になって探していますが、未だ手がかりは杳として掴めていないのでありました。

 余談ですが、ウスマーン版のクルアーンの最初期のもの、特にウスマーンが所持したとされるものは、第二回十字軍の際にブーリー朝ダマスカス政権が士気高揚のために持ちだしたり*3、ティムールが中央アジアに持ち帰った伝承があったり*4、こちらにもいろいろと尾ひれが付いて伝えられているようです。

 いずれにせよ、どこまでが事実でどこからがただの虚構か、分かりかねる部分もありますが、聖典というのものはそれだけで様々な言説を纏う磁場を持っているのかもしれないなあ、 という話でした。

*1 The Qur'an Manuscript display 2015年11月28日閲覧
*2 小杉泰『『クルアーン』――語りかけるイスラーム』 p.44 より引用。
*3 Thomas Asbridge (2010) The Crusades pp.234-235
*4 大川玲子「ウズベキスタンのウスマーン写本―「世界最古」のクルアーン(コーラン)写本―」『国際学研究』37、2010年



 本稿の種本は小杉泰『『クルアーン』――語りかけるイスラーム』。古典入門シリーズ「書物誕生」の一冊。書物としてのクルアーンの成立などにも詳しい。
 イブン・アン=ナディームと『アル=フィフリスト』については日本語ではさしあたり清水和裕「イブン・ナディームの『目録』」。『イスラーム 書物の歴史』に収録されている。
 『アル=フィフリスト』そのものはBayard Dodgeの手による英訳がある。
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