桜井俊彰『消えたイングランド王国』


 七王国時代が終わり、「イングランド王」の名が初めて史料に見えてから、ノルマンディー軍によるイングランド征服が行われるまでの「イングランド王国」の142年の歴史を扱った新書。

 一般人の認識で中世イングランド史はほぼノルマン・コンクェストから始まると言っても過言ではない。それ以前で高校世界史で出てくるのはアルフレッド大王とクヌートくらいか。本書は、七王国時代の終焉からノルマン・コンクェストまでの1世紀半ほどの間を扱うが、この時代は特に史料が少なく、イングランド通史の中でもニッチであると言ってよい(手近にあった君塚『物語イギリスの歴史』を確認してみたが、上下巻合わせて本文400頁強のところ、この時代を扱ったのは15頁ほどであった)。
 著者の桜井氏は七王国時代を扱った『イングランド王国前史』という著作もあり、時代的にはその続きということになる。マイナーな分野の本を分かりやすい筆致で書いてくれるので、とてもありがたい。

 構成は、まず一章を割いて簡単にこの期間のイングランド史の概略を示す。この時期のイングランド史は主に北欧のヴァイキング、デーン人たちとの戦いを中心に動いている。アングロ・サクソン系の王家がイングランドを支配した時代ということになるが、クヌートの北海帝国の支配もあり、中断を挟む。
 以降は、人物に焦点を絞りつつ、各時代を詳述していく。帯には「魂を揺さぶる、勇者たちの物語」とあるが、確かに英雄と言うにはあまりに等身大の、それでいて戦士然とした「勇者たち」の肖像である。扱われるのはビュルフトノース、ウルフケテル、エドモンド剛勇王、視点が変わって征服者側である大王クヌート、そして最後のアングロ・サクソン人の王、ハロルド2世。
 ビュルフトノースとウルフケテルがややエピソード寄りの武勇譚であるのに対し(そもそも王でなく地方の有力者であったようなので、情報もないのだろう)、後の三人の王については詳しい動きと、国際的なやりとりも示されている。
 王が王たり民は民たる中世中期以降の西欧の歴史とは違い、未だゲルマンの戦士こそが王である伝統の色濃く残る時代の戦史には、それ以後にはないダイナミックさを見て取ることができるだろう。

 総じて、政治史よりも戦史に重きを置き、歴史学的な厳密性よりも(歴史学的な厳密性を担保しようと思えばこの時代をここまで長く書くのは不可能であろう)、話としての面白さの方をやや重視しているように見える。とは言え、史料の少ない時代では推測に頼らざるを得ない部分も多いのは当然の理ではある。過去の史実そのものというよりも、「どう伝えられてきたか」という事実を読む、という視点を忘れないようにしたい。
 最初からこの時代を目的に読む、という需要は少ない本かもしれないが、読み物としては面白い上に読みやすいので、ヨーロッパの歴史が好きであれば特別この時代と地域に思い入れがある、という人でなくても読むといいのではないだろうか。


 なお、クヌート期前後に関してはマンガ『ヴィンランド・サガ』で扱われている時代である。本書にはトルケル(本文中ではソーケル)も出てくるので、その方面から興味のある人にもおすすめだ。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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