アイユーブ―表裏比興の男―

 ここのところ世間は真田信繁(幸村)で湧いています。真田家と言えば、機を見るに敏で寝返り移り身を繰り返し、生き馬の目を抜く戦国時代にあって国衆から見事近世大名にまで成り上がった一族です。中でも信繁の父である真田昌幸は、仕えていた武田家が滅亡した後の天正壬午の乱の時期をかわぎりに、僅か三年ほどの間に織田、上杉、北条、徳川、再び上杉と主君を変えており、なかなかの世渡り上手であったことが伺えます。秀吉は、この世渡り上手を表裏があって信用できないとみなし、「表裏比興の者」と評しました。

 ところで、セルジューク朝(特に西部)が分解しつつあった十字軍時代の西アジアにおいても、寝返りを繰り返して生き残り、最終的に王朝にその名を冠せしめることになる人物がいました。他でもないサラディンの父、アイユーブです。
 もともとアイユーブ一家はクルド系の住民が多いアルメニアの都市、ドヴィーン出身のクルド人でしたが、アイユーブの父シャージーの代にシャージーの旧知の友人、ビフルーズの伝手でセルジューク朝に仕官し、ティクリートの城代を務めていました。アイユーブは父の職掌を引き継ぎ、ティクリートを治めています。
 しかしながら、時代には既に動乱の機運が漂い始めていました。イラク北部やシリアでは分封されたセルジューク朝の幼少の王子たちを後見していたアタベクたちが半独立(ザンギー朝、ブーリー朝など)。バグダードでは長らく実権を奪われていたアッバース朝カリフが軍事指揮権を回復し、直轄支配地の拡大に乗り出します。
 アイユーブは、当時イラク北部を二分する勢力であったザンギー朝とアッバース朝の間にあり、アッバース朝に敗れて追われていたザンギー朝初代アタベク、イマードゥッディーン・ザンギーの逃亡に手を貸します。
 数年後、事情があってティクリートを離れざるを得なくなったアイユーブはこの時の縁を頼ってザンギーのもとへ転がり込みますが、これが彼の変転の経歴の始まりでした。
 ザンギーはシリア北方のアレッポを拠点とし、シリア南方のブーリー朝のウヌル治めるダマスカスと度重なる勢力争いを繰り広げていました。アイユーブはザンギーのもとでウヌルから奪ったシリアの都市、バールベクを任されますが、ちょうど武田信玄が上杉謙信と勢力争いを繰り広げていた前線である川中島の押さえを、真田幸綱が任されたようなものでしょう。

 ところが、ザンギーは四方への快進撃の最中、子飼いの奴隷に酒の諍いで殺されてしまいます。天正壬午の乱ほどでは無いにしろ、ザンギーの旧領も南方のウヌルの侵攻、本拠奪還を狙うエデッサ伯国の扇動、ザンギー朝からの独立を狙うアルトゥク朝の離反などにより混乱し、二つの拠点であったモスルとアレッポもザンギーの二人の息子、サイフッディーンとヌールッディーンの間で分割されました。
 この時、一度目の寝返りとしてアイユーブは仕官先をウヌルに変え、弟シールクーフはヌールッディーンに仕えさせています。家を割って存続を図るのは真田家でもしばしば見られましたが、アイユーブの場合はどちらかが滅びるということはなく、後年アイユーブはシールクーフと再開を果たすことになります。

 ウヌルに仕官し、いくつかの村落を得てダマスカスに移住したアイユーブは、あまり行動がはっきりしないもののウヌルに仕え、第二回十字軍の侵攻の際には息子シャーハンシャーが防衛戦で戦死しています*1。また、ウヌルとヌールッディーンがザンギー時代の方針を転換し同盟を結んだため、兄弟相討つ可能性はほぼなくなりました。
 しかし、ウヌルが死ぬとアイユーブは二度目の寝返りを準備しはじめ、ヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取り、ヌールッディーンに有利になるようダマスカス市内で工作を始めました。最終的にアイユーブは民兵組織の好意的中立を取り付けることに成功しますが、この民兵の指揮を執っていたのはダマスカスの歴史家イブン・アル=カラーニシーの兄弟でした。
 イブン・アル=カラーニシーは兄弟を通してアイユーブを知っていた可能性があり、アイユーブを以下のように評しています。すなわち、「決断力と知性、それに状況への対応能力に優れていることで知られている男」である、と*2。アイユーブの評価には、彼の息子サラディンがエジプトのスルタンになったこともあり、過大評価される可能性がありますが、イブン・アル=カラーニシーが死去したのは1160年で、彼はサラディンがエジプトの支配者になるということを知りません。その点、アイユーブの評価として知っておくに足ると言えるでしょう。
 ヌールッディーンは自身の計略とアイユーブの協力もありダマスカスを無血で接収。アイユーブはヌールッディーンのもとでも重用されるようになります。ヌールッディーンの御前でも唯一彼のみがヌールッディーンの許可を得ずとも着席することを許されていたといいます。普通であれば、アイユーブはヌールッディーンの重臣として生涯を終えたでしょう。しかし、彼の前には三度目の離反の機会が待っていました。

 よく知られているように、アイユーブの息子サラディンはヌールッディーンの命によりエジプト遠征に派遣され、エジプトで独立を果たすことになります。アイユーブはヌールッディーンとの直接対決は避けながらもエジプトをヌールッディーンの影響下から切り離そうとするサラディンをよく支えました。イブン・アル=アシールによると、彼は主戦派を宥めながらもこっそりとサラディンにこう語っています。「神にかけて、もしヌールッディーン公が例えエジプトのサトウキビ一本にでも手を出してみろ、私は死ぬまで戦うだろう」*3

 真田家は信州の故郷を守るために寝返りを繰り返しましたが、アイユーブ家は(少なくともアイユーブ本人は)領地を転々とし、必ずしも土地には執着を示しませんでした。都市化していたとは言え、山岳遊牧民であるクルドの価値観が影響しているのかもしれません。
 この表裏比興の男、アイユーブの最後は、落馬による事故死というあっけないものでした。裏切り・離反を繰り返したとは言え、息子がサラディンであるためか、あるいは本人の人望か、そこのことを非難するアイユーブ評は、意外なことにあまり見られないのではありました。

*1 Eddé SALADIN p.24
*2 Ibn al-Qalanisi The Damascus chronicle of the crusades p.273 より重訳
*3 Ibn al-Athir The Chronicle of Ibn Al-Athir for the Crusading Period from al-Kamil Fi'l-ta'rikh part.2 p.200 より重訳



 真田昌幸については古くは人物叢書の柴辻俊六『真田昌幸』が定番であったが、ここのところ良書の出版が相次いでいる。さしあたり価格が手頃で内容も詳しい丸島和洋『真田四代と信繁』を挙げておく。
 アイユーブについては専門に扱った書籍は無いが、サラディン関連のものに記述がある。邦語では佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン』とアミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』。英語ではEddé SALADIN
 原典には英訳のあるものがあり、イブン・アル=アシールとイブン・アル=カラーニシーはそれぞれD.S.RichardsとH.A.R.Gibbが訳している(ただしイブン・アル=カラーニシーは抄訳)。
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