小杉泰『ムハンマド――イスラームの源流をたずねて』
預言者ムハンマドの評伝。
ムハンマドの評伝は数多い。日本では井筒俊彦『マホメット』が長く読まれてきた名著だろう。海外のムハンマド伝が和訳されたものを含めると、日本語で読めるムハンマド伝はかなりの数に上る。中東・西アジアの人物の評伝というと大して数はないのだが、やはりイスラームの預言者ともなると例外に当たるらしい。つい最近の話だが、原典史料であるイブン・ヒシャーム『預言者ムハンマド伝』も岩波書店から和訳が発売された。
そういう状況下で執筆された本書はイスラーム地域研究・イスラーム思想史の専門家である小杉泰氏の手によるムハンマド伝である(本書含め歴史シリーズでちょくちょく単著を出しておられるが、歴史学者ではない)。
章立ては「1 家庭の人」「2 啓示の器」「3 神の使徒」「4 戦いと裁定」「5 ムハンマドの実像を求めて」「6 人類史のなかのムハンマド」となっている。本書を読むことによってムハンマドは啓示を受け、その教えを広める使徒であったが、イエスなどとは違い家庭を持ち戦場にも立つ非常に人間らしい人物だった、ということがわかる。(ここで預言者が戦場に立つ、ということがすなわちイスラームが好戦的であるという結論を導くわけではないということを付言しておかなければならない。イスラームは宗教と国家の創始が同時に行われ、前近代の国家は戦争と無縁であることなど絶対にできなかった)
内容として大部分は非常にスタンダードなムハンマド伝だが、ただ特徴的なのは、「思想や宗教的想念がもつ実体性を人間社会の基本要素としてとらえるという立場」を取る、と明示してある点であろう。イスラームが前提とする価値体系をそのまま前提として理解する、ということだ(受け入れる、ということではない)。自文化の文脈に引きつけて他文化を評価することは、とりもなおさずエスノセントリズムである。著者は賢明にそれを避けているのである。
文章は読みやすく、また難しい専門用語も出てこない。初学者にはおすすめの一冊であろう。