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ディミトリ・コロベイニコフ「「東方と西方の王」:ムスリムおよびキリスト教徒の史料中にみるセルジューク朝の王朝理念と称号」

Dimitri Korobeinikov ,''The King of the East and the West': The Seljuk Dynastic Concept and Titles in the Muslim and Christian Sources' , The Seljuks of Anatolia ( 2013 , NY & London )
当該論文における読書メモ。注は断りがない限り管理人による。以下要約。
 
①問題提起
 アナトリアのムスリム政権はしばしば自らビザンツ帝国の後継者を任じた。その最たる例がオスマン帝国である*1。一方、一般に「ルーム=セルジューク朝」として知られるアナトリアのセルジューク朝政権について、その正統意識が奈辺にあったかはさほど議論されていない*2

*1 オスマン帝国が正統性を求めた権威のひとつにローマが挙げられることについては藤波伸嘉「オスマンとローマ―近代バルカン史学史再考」『史学雑誌』 122(6) 55-80,2013年 および、岡本隆司「世界史と宗主権」『宗主権の世界史』名古屋大学出版会,2014を参照。オスマン帝国の正統性意識はローマ、イスラーム、モンゴルの正統性が重層的に折り重なったものである。
*2 このように著者コロベイニコフは述べているのだが、日本においては井谷鋼造氏の「「大セルジューク朝」と「ルーム・セルジューク朝」」『西南アジア研究』41(1994)という論考が既に存在する。

②ビザンツ帝国と大セルジューク朝の正統意識
 ビザンツ帝国は全文明世界の支配者を自ら任じており、テオドロス・メトキテスの記述、ヨハネス6世からモスクワ大公セミョーン・イヴァノヴィチに宛てた書簡から確認できる。
 14世紀において、マムルーク朝スルターンはビザンツ皇帝を正教徒の長としてでなく、テュルク系のような非キリスト教徒の支配者としても認めていた。
 また一方、大セルジューク朝も「マリク・アル=マシュリク・ワル=マグリブ(東方と西方の王)」という称号を用い、普遍支配を志向した。この称号はカリフ、アル=カアイムからセルジューク朝初代スルターン、トゥグリル・ベクに与えられたものである。
 他にも「マウラー・アル=アラブ・ワル=アジャム(アラブとアジャムの主)」(ここで言うアジャムはほぼイランと同義)、「七世界の統治者」を象徴する七着の名誉の衣がアッバース朝カリフから与えられたことなどもセルジューク朝が普遍支配を志向した傍証とする(イランの地理学者は世界を七つの地方に分類していた)。

③ルーム=セルジューク朝の正統意識
 当初ビザンツのニケフォロス3世ボタネイアテスの叛乱を支援し、彼が帝位につくとその保護に寄りかかっていたルーム=セルジューク朝は、ビザンツから離反するだけの力をつけると大セルジューク朝に接近することで生き残りを図った。これは他のムスリム政権の好感を得るためであり、領内のテュルク勢力を引き込むためでもあった。これによってルーム=セルジューク朝は他のアナトリア半島のテュルク系勢力と差別化を計ることに成功する。
 対照的に、半島中央のダニシュメンド朝はギリシア語で君主号「全ローマと東方の王」を名乗っていた。アナトリア領は基本的にセルジューク視点・テュルク視点で言えば「西」であり、ダニシュメンド朝が「東」を名乗っているのは彼らがビザンツ視点に立っていることを意味する。

 12世紀半ばまで、ルーム=セルジューク朝の君主が公式にどんな称号を使っていたか示す史料は残念ながら無い。最初の例はクルチ・アルスラーン2世まで下る。それは以下の通り。
「大スルターン、偉大なるシャーハンシャー、アラブとペルシアの諸スルタンの長、国々の主、世界と信仰の誉、イスラームとムスリムの柱、諸王と諸スルタンの誉、法の守護者、不信心者と多神教徒を討ち滅ぼす者、運命の戦士たちの援助者、神の国の守護者、神の僕の保護者、シリア、フランク、アルメニア、ルーム諸地方のスルタン、アブー・アル=ファトフ・クルチ・アルスラーン・イブン・マスウード・イブン・クルチ・アルスラーン、信徒の長の援助者」
 これは明らかに大セルジューク朝のスルタン、マリク・シャーが用いていたものの延長線上にある。マリク・シャーの使っていたものは以下の通り。
「大スルターン、偉大なるシャーハンシャー、アラブとペルシアの支配者、神の大地のスルターン、神の国々の統治者、イスラームとムスリムの柱、世界と信仰を強める者、アブー・アル=ファトフ・マリク・シャー・イブン・ムハンマド・イブン=ダーウード、信徒の長の右腕」
 クルチ・アルスラーンは国威にしても権威にしても大セルジューク朝のスルタンたちに劣る。ゆえに彼は大セルジューク朝のスルタンたちが用いた「東方と西方の王」のような、普遍志向の君主号を名乗ることはできなかった。代わりに、地域を挙げて限定している。「シリア、フランク、アルメニア、ルーム諸地方のスルタン」という部分がそれである。
 彼はここに「ルーム」を組み込んでいるが、自らをビザンツの後継者と見なしてはいない。また、彼がローマの後継者であると認められていなかったことも別の史料から確認できる。彼がシリア正教会のカトリコス、シリアのミカエルに宛てた書簡がミカエルのシリア語年代記に収録されているが、当該部分は「ルーム(=ローマ)」の代わりにカッパドキアが充てられ「カッパドキア、シリア、およびアルメニアのスルターン」となっている。

④ルーム=セルジューク朝スルターン称号の普遍支配志向化
 クルチ・アルスラーン2世死後、しばらくルームは内紛が続くがカイホスロウ1世がこれを収拾する。1194年の大セルジューク朝系政権の終焉と、アンタルヤとシノプの征服により、ルーム=セルジューク朝の君主号に変化が見られるようになる。
 カイカーウース1世は自身を世界の統治者として表現し、「ルーム」を含むいかなる地理的限定も用いなかった。地名が出てくるのは「二つの海(=黒海と地中海)の支配者」のみであり、これはアンタルヤとシノプの再征服によって両海岸に領地を得たことによる。彼が用いた普遍志向の君主号は「東方と西方を覆う神の影」、「アラブとペルシアの諸スルタンの長」、「世界における諸王の王(マリク・ムルーク・アル=アーラム)」。当時ビザンツの正統君主を任じていたトレビゾンド帝国のアレクシオス1世コムネノスを破り、シノプを征服することに成功したすぐ後に、彼は大セルジューク朝のスルターンに倣って以下のような称号を名乗る。
「勝利せるスルターン、東方と西方の王、世界の諸スルターンの長、アラブとペルシアの支配者、世界とイスラームの誉れ、イスラームとムスリムの助け、海と陸のスルターン、アブー・アル=ファトフ・カイカーウース・イブン・カイホスロウ、信徒の長のあかし」
 これはルーム=セルジューク朝の外交上の文書でも強調されており、カイクバード1世とホラズムのジャラールッディーンのやり取りや、クルチ・アルスラーン4世からカイカーウース2世へ当てた手紙などからも確認できる。
 ところが、ルーム領内のキリスト教徒へ向けては、特にこの要素は強調されていない。また、ギリシア語・ラテン語史料でも、ルームのスルタンを普遍君主として認めるような記述はない。つまりルーム=セルジューク朝こそ普遍君主であるビザンツ皇帝の後継者であるとは主張していない。逆にギリシア語・ラテン語史料に共通するのはルームのスルタンが、高貴な血筋(セルジューク家の一員)であり、諸地方を征服した者である、ということを認めていることである。
 ルーム=セルジューク朝のスルターンが高貴な血筋であることはムスリム側の史料でも強調されており、カイクバード1世が「セルジューク家の王朝の王冠」なる称号を用いたことも記録されている。

⑤結論
 「ルーム=セルジューク朝」という言葉は「スルタン・アル=ルーム」及びそのバリエーションから来ているが、この語はルームの外の年代記作家か、後世の学者たちが使ったものにすぎない。これらをルームのスルタンの公式号と見なすことはできない。結局、彼らがルームを君主号に組み入れたことがあるのは、シリアやアルメニアと同じく単に地理的な問題であり、ビザンツの後継者たらんと欲したものではなかった。彼らの意識は自らセルジュークの正統を任じたことにある。
 ゆえに、自らこそが大セルジューク朝のスルターンよりも大セルジューク朝の支配者にふさわしいと考え、叛乱を起こしたこととて驚くには当たらない
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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