スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

伝承は幽谷の淵より―ニザール派とハサン・サッバーハ―

 俗に「暗殺教団」と呼ばれる組織がありますが、実際の彼らはシーア派の分派であるイスマーイール派の派内分派であるニザール派信徒の集団でした。イスマーイール派の王朝であったファーティマ朝の後継者問題と絡んで廃嫡されたニザールを支持するためニザーリ(ニザール派)の名で呼ばれています。初代指導者はハサン・サッバーハというイラン人男性でした。
 このニザール派はヨーロッパでも知名度の高い英雄サラーフッディーン(サラディン)や十字軍との関わりもあり、しばしば創作のネタになっていますが、そもそも早い段階から伝承と事実が入り混じっています。

 まず、マルコ・ポーロはいわゆる『東方見聞録』において、「山の老人」と呼ばれる怪人物が少年たちを拐かし暗殺者として教育する様を述べています。老人はこの世の楽園と思われるような庭園を創り、少年を眠らせてからそこに連れ込み、そこを天国であり、自身が預言者であると思わせます。そして暗殺の必要があると、少年をまた眠らせてその庭園の外へ連れ出し、天国から連れ出されて困惑する少年に「しかじかの要人を暗殺せよ。成功すれば私が再び楽園へ連れて行ってやろう。失敗して死んでも天使がお前を楽園へ連れて行くだろう」と言い含めて暗殺に送り出す、というわけです*1
 この類の伝承はヨーロッパに伝わり、早くも14世紀には「アサシン」の語が「暗殺者」を意味する普通名詞として使われるようになっています*2
 十字軍時代を中心として要人暗殺を事としていたのはある程度まで事実のようです。しかしながら、彼らが麻薬を用いたというのはどうも眉唾に近く(当時、一般的な罵倒語として「大麻野郎(ハシーシーン)」が用いられており、これがヨーロッパに伝わったと考えられているとのこと*3)、麻薬狂いのイメージは勝手に膨らんでいったようです。

 なるほど彼らの実像が見えにくくなっているのはオリエンタリズムのせいかと思えば、たしかにそういう一面はあるものの、西アジアでもヨーロッパとは違った形で奇妙な伝承が作り上げられています。これは既に14世紀の歴史書『集史』の時代には逸話として成立していたようです*4
 この伝承の主要登場人物は三人。一人が酒好きながら大詩人として名を成し科学者としても著名なウマル・ハイヤーム*5、セルジューク朝最盛期を現出した大宰相ニザーム・アル=ムルク、そして今回の主題、ニザール派の開祖ハサン・サッバーハ。内容は以下のようなものです。

 1042年頃、イランのニーシャープールのあるマドラサ(学院)で三人は知り合った。彼らは大の親友となり、ある時ウマルの提案で、三人のうち将来最も幸運に恵まれた者が他の二人にあらゆる援助を惜しまずに与えることを誓いあった。ウマル自身は内向的な性格で立身出世にもあまり興味がなかったのだが、他の二人は非常な野心家で、国務に与ることを念願した。特にニザームはめざましい出世をとげ、セルジューク朝のスルターン、アルプ・アルスランに仕え宰相にまでのし上がった。
 ウマルは若き日の約束を思い出し、ニザームに伝えると、ニザームは快く約束を果たし、ウマルには年金を、ハサンには仕官の道を与えた。ところが、ハサンは嫉妬心の強い男で、恩人のニザームの失脚を企図し、謀略をしかけた。これはニザームによって阻止され、面目が潰れたハサンは宮廷を逐われる。彼はカイロへ赴き、イスマーイール派の布教の使命を得て、ニザームへの復讐心を持って再びイランへ舞い戻るのであった……*6

 ジュワイニー『世界征服者の歴史』によると、ニザール派の手によって暗殺された最初の要人はセルジューク朝の名宰相ニザーム・アル=ムルクということになっています*7。ウマル・ハイヤームは天文学者としてセルジューク朝宮廷と関わりがあり、新しい暦を献呈したりしているので、必ずしも三人に全く関係がなかったわけではないのですが、とは言え三人が学友だったとするのは年代的に無理があるので、この逸話は魅力的ではあるもののおおよそ作り話であると考えていいでしょう。
 ニザーム・アル=ムルクはセルジューク朝の宰相を務め、またニザール派を含むイスマーイール派の宣教に対抗してスンナ派振興策を熱心に行った人物でした*8。ニザール派がニザームを狙ったのは、指導者の個人的恨みというよりも宣教に対する妨害の排除という面が大きかったのでしょう。

 実際のハサン・サッバーハはイランのコムに生まれ、レイで学問を修めたのち、1072年にイスマーイール派の宣教師となり、78年、エジプトのファーティマ朝宮廷に赴き、再びイランに戻って宣教活動に従事しています。94年には先に述べた通り、ファーティマ朝の後継者問題でファーティマ朝と関係を絶ち、独自の勢力として立ち現れることになりました*9
 ニザール派の特徴として暗殺ばかりが取り上げられるのですが、面白いのはハサンが1090年にイラン北部の山中の要害アラムート城塞を奪取して以降、この集団は各地で要塞を奪い、あるいは購入し、点々とした飛び地の領地を持っていることです(サラーフッディーンが攻撃したものの攻略できなかったシリアのマスヤーフ(マシャフ)城塞もその一つ)*10。この細切れの領地のネットワークは他に類を見ないもので、当時のニザール派の特徴とも言えるのではと思います。
 ニザール派がどうしようもないほど頭の固い集団かと言えばそういうわけでもなく、特にシリアのニザール派は信仰上の敵である十字軍やスンナ派のザンギー朝やアイユーブ朝とも合従連衡を繰り返しています。
 アイユーブ朝と言えば、シリアのニザール派の指導者、ラシードゥッディーン・スィナーンにもサラーフッディーンとの逸話があります。ニザール派に二度の襲撃を受けたサラーフッディーンは、ニザール派の拠点であるマスヤーフを包囲し攻撃するのですが、ある夜、サラーフッディーンが護衛を立たせて陣営で就寝していたところ、誰にも気付かれずいつの間にか毒塗りの短剣で止められた紙片が置かれ、「どうあがこうとも、勝利は我らにあり」と書かれていたというのです*11。この一件でサラーフッディーンはマスヤーフから兵を引いたというのですが、ちょっと常識では考えられないので、これも事実ではないと見なしていいでしょう。

 ともあれ、ヨーロッパに伝わった伝説といい、三人の学友の伝承といい、サラーフッディーンとラシードゥッディーンの逸話といい、伝承を引き寄せやすい集団ではあったようです。
 彼らは最終的にモンゴル軍の侵攻を受けて壊滅するのですが、モンゴル絡みでもカラコルムに400人もの暗殺者が送り込まれていたという噂があったとカラコルムを訪れたギヨーム・ド・ルブルク修道士が書いています*12
 イランで勢力が壊滅する最後の最後まで誇張と事実と伝承の間を彷徨い、実像の見えにくい集団ではありますが、それだけに研究者諸氏のニザール派の実像に迫ろうとする研究は面白いのだなあと思うのでありました。

*1 月村辰雄・久保田勝一[訳]『マルコ・ポーロ東方見聞録』pp.46-49
*2 加藤秀和「アサッシン」『新イスラム事典』
*3 同前
*4 佐藤次高『イスラーム世界の興隆』p.210
*5 近年の研究では科学者ウマルと詩人ウマルは別人であり、14世紀頃に二人が混同されてしまい、詩人にして科学者という人物像が出来上がってしまったのではないかとも言われている。詳細は伝ウマル・ハイヤーム著「ノウルーズの書(附ペルシャ語テキスト)」(訳注・校訂 守川知子・稲葉穣)に添えられている守川氏の解説を参照。
*6 小川亮作[訳]『ルバイヤート』の訳者による解説を参照(pp.118-125)。
*7 Ala-ad-Din Ata-Malik Juvaini , THE HISTORY OF THE WORLD-CONQUEROR, vol.2 p.677
*8 佐藤前掲書pp.208-209
*9 加藤秀和「ハサン・サッバーフ」『新イスラム事典』
*10 岩村忍『暗殺者教国』p.38
*11 佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン』p.124
*12 カルピニ/ルブルク『中央アジア・蒙古旅行記』p.312



 『世界征服者の歴史』に関してはJhon Andrew Boyle の英訳がある。
 なお、イランでの勢力が壊滅した後のニザール派の大部分は、19世紀にインドにコミュニティを移し、指導者アーガー・ハーン3世の時代には宗派近代化政策を取り、西洋文明を積極的に摂取、融資・保険制度を宗派内部に整備。後継者アーガー・ハーン4世はアーガー・ハーン財団を設立し国際的な開発機関として注目を集めているという(子島進「アーガー・ハーン」及び小牧幸代「アーガー・ハーン3世」、いずれも『岩波イスラーム辞典』)。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
当ブログの内容を雑誌・書籍等にご利用されたい場合はご一報下さい。
管理人への連絡は掲示板か拍手でどうぞ。

検索フォーム
カテゴリ
リンク
アクセスカウンター
月別アーカイブ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。