家島彦一『イブン・バットゥータと境域への旅――大旅行記をめぐる新研究』


 イブン・バットゥータ『大旅行記』を完訳し、長く研究を続けてきた家島彦一氏によるイブン・バットゥータ研究書。
 
 イブン・バットゥータ『大旅行記』は14世紀のアフロユーラシア各地を一人の人間が歩いて回った記録ということで大変に貴重なものだが、ほぼ同時代のマルコ・ポーロ『東方見聞録』に比べてもあまり研究が進んでいないのだという。
 本書は、第一部が『大旅行記』やイブン・バットゥータに対しての論考(イブン・バットゥータの旅の目的や、写本の諸問題、記述の真偽性についてなど)であり、第二部、第三部はその『大旅行記』から何が言えるかについての論考(海域、陸域それぞれのイスラーム・ネットワークの拡大など)という構成になっている。イブン・バットゥータが旅した時代は、パクス・モンゴリカの世界とイスラーム・ネットワークが接続され、アブー=ルゴドの言うところの「前近代世界システム」が存在していた。したがって、『大旅行記』からはその実態を垣間見ることができるというわけである。
 海域にせよ陸域にせよ、イブン・バットゥータはイスラーム世界とそうでない世界のはざまを好んで旅しており「境域」の有り様がよくわかる。

 第一部は概ね総論や、イブン・バットゥータ研究のための基礎情報の整理となっている。
 第二章「『大旅行記』の構成と諸写本」では著者の渉猟したものも含めて諸写本が紹介されており、著者の苦労が忍ばれる。第三章「『大旅行記』の研究と真偽性」では『大旅行記』に関する研究史がまとめられているのだが、やはり未解明の部分も多いようである。著者によると、『大旅行記』を引用したと思われる文献は前近代においてはほぼ存在せず、特にマシュリクにおいては皆無だという。どうやら、『大旅行記』はその内容の奇異さからビドアの書として見られていたらしい。

 第二部では海域世界について扱っている。
 第一章では中国船の問題について扱い、第三章ではマルディヴ諸島について(この時期のマルディヴに関する史料は少なく、イブン・バットゥータのものは非常に重要らしい)。第五章は「アラビア海を結ぶ人の移動と交流」というタイトルになっているが、イエメンのラスール朝末期のスルタンがアフリカ東岸のキルワ王国に亡命して援助を頼んだものの、国内情勢の逼迫から断られ、新たにインドに亡命したという事例が紹介されているのが興味深い。
 第三部は陸域世界について。
 第一章ではアナトリアのイスラーム化について、特にルーム・セルジューク朝が瓦解して諸侯国(ベイリク)が割拠していた時代の現地社会の実像を大旅行記から読み解こうとしている。本章で扱われているアヒーと呼ばれるリーダーを長とするフィトヤーン(若者集団)に関しては、著者は触れていないのだが佐藤次高他『イスラム社会のヤクザ―歴史を生きる任侠と無頼』で紹介されているイスラーム社会における任侠集団との共通点が見られて面白い。
 第五章では、あまりいわゆる「イスラーム世界」を扱う概説書では触れられないサハラ以南アフリカのイスラーム化・イスラーム・ネットワークの拡大について考察されているので、興味のある向きには必読であろう。

 第二部・第三部については、これらの事例をまとめた上での著者の総括が欲しかったところではあるが、それをさておいても興味深い内容であることに代わりはない。
 イブン・バットゥータと『大旅行記』を知り、またその時代を知るにあたって、必読の一冊であると言えるだろう。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
当ブログの内容を雑誌・書籍等にご利用されたい場合はご一報下さい。
管理人への連絡は掲示板か拍手でどうぞ。

検索フォーム
カテゴリ
リンク
アクセスカウンター
月別アーカイブ