1.王権とジハード

以下詳細
 
■ジハードの英雄

 1187年10月、長らくキリスト教徒の手にあった聖地イェルサレムは、第一回十字軍から数えて88年の時を経て、再びムスリムの手に渡った。この「偉業」を成し遂げた男の名はサラーフッディーン・ユースフ。西欧にサラディンの名で知られる人物である。日本で最初に詳細なサラーフッディーンの評伝を著した佐藤次高氏の言葉を借りれば「エルサレムの解放によってサラディンはイスラーム世界の英雄となった」。年代記作家は彼をこぞって讃えたし、また側近のバハーウッディーンが著したサラーフッディーン伝も同様である。『完史』の著者であるイブン・アル=アシールは親ザンギー朝の立場を取りサラーフッディーンにはやや厳しい*1が、それでも彼はサラーフッディーンの美点を並べ立てた後、「異教徒に対するジハードの巨大な戦士であった」と躊躇いなく記す*2。
 その後の第三回十字軍におけるリチャード獅子心王との戦いもあってその事跡は西欧にも広く知られることとなり、既に中世の西欧でもサラーフッディーンの表彰とも言えるような事態が発生している*3。
 佐藤氏も述べている通り、サラーフッディーンの聖人化を見直そうとする動きはやはり西欧からも始まり、その実像を見直そうという動きは早くからある。
 どう評価するのであれ、注目を集めてきたのがサラーフッディーンという男である。
 しかしながら、ほぼ同時代、サラディンのアイユーブ朝と国境を接したアナトリアにおいて、同じくジハードの英雄と見なされた人物がいることはあまり巷間では知られているとは言い難いのではないだろうか。彼の名はクルチ・アルスラーン2世。アナトリア高原の西半を維持するに過ぎなかったルーム・セルジューク朝の領土を拡大し、やはりサラーフッディーンと同じく「ジハードの英雄」と見なされたスルタンである。彼が戦った相手はビザンツ皇帝マヌエル1世、ミュリオケファロンにおいてのことであった。この戦いのインパクトは凄まじく、マヌエルが築き上げてきた世界戦略が瓦解し、それまで無理を重ねてきたビザンツ帝国は1204年の第四回十字軍による破局を迎えるという見方がされてきた。実際の所、この戦いがビザンツに与えた影響はそこまでではなかったらしいが*4、いずれにせよビザンツ史上では有名な戦いの一つである。
 節を改めて述べるが、「ジハードの英雄」であることは王権の正統性の担保にとって重要であった。特に、主家であるザンギー朝のシリアを事実上乗っ取ったことになるサラーフッディーンにとって、王権の正統性は無視できない問題である。サラーフッディーンにとって、ジハードそれ自体が目的であったか、あるいはジハードを行うことが他の目的(例えば領土の拡大、正統性の担保など)のための手段であったかは議論のあるところだが*5、結果的にジハードによってサラーフッディーンの権威が確立されたのは、彼を称える言辞から明らかであろう。
 本稿では、王権の正統性の担保および、そのためのジハードという二つの側面からサラーフッディーンとクルチ・アルスラーンの半生を跡付ける。希望としては、これによって十字軍史よりも大きな枠組みからの視点で彼らの営みを見ることが出来れば幸いである。

■12世紀西アジアの王権と正統性

 12世紀西アジアにおいて、スルタンたちの王権の正統性を担保するものは何だったのだろうか。
 この時期、上位の権威者(アイユーブ朝やルーム・セルジューク朝の場合はアッバース朝カリフやセルジューク朝)からの委任も一定の重要性を認められており、例えばサラーフッディーンの息子、アフダルはカリフに支配の正当性の保証を求めたし*6、サラーフッディーンの主君であったヌールッディーンは宰相カマールッディーンをバグダードに派遣し、各地の支配を認める証書を得ている*7。しかしながら、これは所詮建前であり、空手形に終わる場合もあるだろう。実際、ヌールッディーンが得た証書にはアナトリアのクルチ・アルスラーン領をヌールッディーンの領土と認める旨が記されていたが、その地を実効支配していたのはやはりクルチ・アルスラーンであった。
 とは言え、彼らがイスラーム的統治を行うにあたっては、カリフの権威に寄りかかるのが正解であっただろう。小杉泰氏は「多くの地方王朝が、アッバース朝が衰えた後でもカリフの宗主権を認めたのは、彼らが、カリフが象徴するイスラーム的システムに依存していたからと考えられる」と述べている*8。
 カリフからの委任と同じく重要であると思われるのは、下からの支持、すなわちバイア(忠誠の誓い)とフトバである。
 この二つについては佐藤次高氏が『イスラームの国家と王権』で詳しく述べているので、以下引用しつつ佐藤氏に従って述べよう*9。
「10世紀半ば以降のイスラーム諸国家においても、カリフやスルタンの権威の承認にはこのバイアが用いられた。バイアは元来はカリフとムスリム個々人との間に取り交わされる契約であったが、征服の進展につれてムスリムの数が増大し、居住の範囲も拡大すると各地のモスクでは「集団のバイア」が実施されるようになった」
 また、イブン・ハルドゥーンを引いた後、その記述について佐藤氏は以下のように述べる。
「この説明によれば、バイアとは主権者(アミール)、つまり統治権(イムラをもつ者)への服従を条件とする契約であり、それは自らの手を主権者の手に重ねるという形での握手として実行される」
 さらに佐藤氏はイブン・アッティクタカーの王権観を引いている。佐藤氏はあまり詳細に触れていないが、原典の全訳に従って少し詳しく見てみよう*10。
 彼は「臣民は王者に対して義務を負い、また王者は臣民に対して義務を負うている」と述べる。臣民が負う義務については服従が挙げられているが、その根拠に「信仰する者たちよ、アッラーに従い、使徒とおまえたちのうち権威を持った者に従え」(クルアーン4章59節)を挙げる。
 また、その解釈として「これによって王者は弱者を強者から公平に裁くことができ、真実によって分別することが可能となる」としている。
 佐藤氏は「これを専制的な王権とみなすのではなく、臣民の服従を受けてはじめて王権が実態をもつという、イブン・ティクタカー独自な権力論の表明であることに注意が必要」と述べている。確かに、イブン・アッティクタカーはモンゴル支配下のイラクの人物であり、異教徒であるモンゴルの支配下で生きている自分たちを正当化しようとする時、このような論法を取らざるを得なかったという事情はあるだろう。
 しかしながら、佐藤氏が述べるように軍隊がしばしばバイアを拒否する事態が起こっていたこと、以下に述べるように住民の側がフトバを切り替えることによって統治者の支配を否定したことなどから考えると、建前はさておきイブン・アッティクタカーの王権観はむしろ一般的な現実を描写していると言えるのではないだろうか。中村廣治郎氏は、イブン・アッティクタカーの論理についてローゼンタールの評価を引き、「国家を独立の一つの実体としてとらえ、歴史観察の中から国家理性としての統治原理を引き出そうとする」と述べている*11。
 さて、一方フトバは金曜礼拝における説教あるいは講話である。重要な事は、このフトバが「このフトバを○○(支配者の名前が入る)の名において読む」という形式で結ばれることだ。これは、「バイアによって承認された王権を、一週間ごとに確認する儀礼」であると佐藤氏は述べる。地域の住民が支配者の統治を拒む時、このフトバから支配者の名前が消えたり、別の人物の名前を入れるということがしばしば行われた。

 カリフからの委任であれ、住民のバイアであれ、実際の権力者の軍隊の前には無力である。しかし、そうは言っても正統性が無いと見なされた王権は安定を欠く。そこで、支配者たちはカリフの承認と住民の支持の両方を得ることを重要視した。サラーフッディーンの君主であったヌールッディーンは、ザンギー朝の支配者であったが、セルジューク朝の王子の後見人としての立場があった父ザンギーとは異なり、セルジューク朝の後ろ盾が無い状態でシリアを支配せざるを得なかった。そのため、ヌールッディーンは上で述べたようにカリフに支配の保証を求める他、住民の支持を得ることにも腐心している。
 ヒスン・カイファーのアルトゥク朝系領主、ファクルッディーン・カラアルスラーンは、ヌールッディーンのハーリム包囲に援軍を要請された際に、以下のように近臣に漏らしたとイブン・アル=アシールは伝えている。
「もしヌールッディーンを助けに駆けつけなければ、彼は私を領地から追い出すだろう。なぜなら彼は土地の熱心な聖職者、苦行者たちに手紙を出して礼拝による彼らの応援を求め、ムスリムをジハードに立ち上がらせるよう彼らを励ましているからだ。いま、このとき、彼らのめいめいは弟子や友人とともに座してヌールッディーンの手紙を読みつつ現状を嘆き、私を呪う。このような激しい非難を避けたいなら、彼の求めに応ずるしか無い」*11
 こうなってしまっては、カラアルスラーンもヌールッディーンの宗主権を認めざるを得ない。

■讃え得べきジハード

 では、カリフや住民の好印象を得るためには何が必要だったのだろうか。公正な統治や気前の良さはもちろんであるが、ジハードもやはり重要である。
 ここで、サラーフッディーンと同時代の旅行記作家、イブン・ジュバイルの文章を引いてみよう。彼はムワッヒド朝支配下のグラナダに住んでいた宮廷書記であり、サラーフッディーンを褒め称えることによって彼に利益があったとは思われない。むしろ、彼の巡礼旅行と前後してアイユーブ朝とムワッヒド朝はリビア周辺を巡って対立しており*13、イブン・ジュバイル自身、カイロ住民の間にムワッヒド朝のエジプト侵攻への懸念が存在していたことを記している*14。
 また、一方アイユーブ朝側でも(建前にすぎなかったのだろうが)サラーフッディーンはイェルサレムの他、グルジア、コンスタンティノープルに加え、ムワッヒド朝の領土を征服する旨カリフに宣言している*15。ムワッヒド朝はカリフの別称であるアミール・アル=ムウミニーン(信徒の長)を君主号として用いており、アッバース朝カリフの権威とは相容れず、またアッバース朝カリフを支持するアイユーブ朝とも同じく相容れなかった*16。
 つまり、仕える政権の視点で見る限り、イブン・ジュバイルとしてはあえてサラーフッディーンを賞賛する理由はない。にも関わらず、彼は実際に訪れたアイユーブ朝治下の領土を通った際の記述において、具体的に彼の業績を挙げた上で何度もサラーフッディーンを褒め称えている*17。アレクサンドリアではサラーフッディーン配下の徴税官にひどい目に合わされたが、サラーフッディーンがこのことを知ったらば決して許しはしなかったであろうと書いているほどである。ここまでくるといささか奇妙な念を覚えぬでもない。
 さて、そのイブン・ジュバイルも、サラーフッディーンのジハードについて特記している(以下、[]内は訳者の家島氏による補足)。
「スルタン、サラーフ・ウッ=ディーン・アブー・アル=ムザッファル・ユースフ・ブン・アイユーブの立派な行動、彼が現世と[真のイスラーム]信仰[の両面]において偉大なる業績を成し遂げていること、さらには神の敵たちとのジハードへの彼の輝かしき功績」*18
「彼こそはいっときの休息のために身を落ち着ける暇もなく、また[一時も]安閑として無為に時を過ごすこともできずに、いつも彼の[軍馬の]鞍[の上]が自分の[日常生活の]座所であった」*19
 イブン・ジュバイルはサラーフッディーンが十字軍国家への攻撃に出る場面を目撃しており、それと関連してこのように述べた。ムワッヒド朝に仕えた書記官であった彼でさえ、サラーフッディーンの公正な統治は認めざるを得ず、またそのジハードも褒め称えるべきものであると見なしていたわけである。
 上でカラアルスラーンが述べた言葉を引いたが、やはりジハードは統治者の義務と見なされており、この義務を果たすことは住民の支持を得るにあたって必要であったと考えられる。

 さて、整理も終わったので小難しい話はここまでとして、サラーフッディーンとクルチ・アルスラーンを対比させつつ、正統性とジハードの観点から彼らの歩みを見ていくこととしよう。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
当ブログの内容を雑誌・書籍等にご利用されたい場合はご一報下さい。
管理人への連絡は掲示板か拍手でどうぞ。

検索フォーム
カテゴリ
リンク
アクセスカウンター
月別アーカイブ