長谷部史彦『オスマン帝国治下のアラブ社会』


 世界史リブレットの一冊。
 
 世界史リブレットシリーズには特に和書において「情報が膨大すぎてどこから手を付けていいかわからない人のための要約・案内書」と「情報が少ないので頁数の多い本にはまとめられないが分野として手薄なのでまとめておいた方がいい情報を手頃な頁数でまとめた本」の両者がある(もちろん中間もある)が、本書は紛れもなく後者の本であろう。タイトルは『~アラブ社会』であり、地元の政治勢力の展開だけでなく、文化・社会史まで手広く取り扱っている。

 さて、内容の展開であるが、まずアラブ地域の近世について前置きがある。民族主義以前のアラブ地域においては、アラブの一体性というものは意識されず、社会のあり方も各地各様であったということを著者は示している。ひとくちにアラブ社会と言っても、一絡げにまとめて理解できるというわけではない、ということだ。以降もアラブ地域内のどこを対象とするのか名言されてから話が進む。
 「①近世アラブ史の展開」ではまずアラブ地域内の各地の政治的展開が要約されている。徴税請負制の発達とともに多かれ少なかれ地方の勢力が半自立化していくのはどこでも同じなのだが、その展開には差がある。
 また、アラブのみならずオスマン帝国史において重要なトピックである「スルタン=カリフ制」についても記述がある。従来、スルタン=カリフ制は欧州からの外圧が強まっていく中、近代に生み出された擬制、あるいはフィクションであるという説が有力であったが、近年これを見直す研究が現れはじめており、本書でもスルタン=カリフ制が強調されはじめるのこそ近代であれ、オスマン帝国のスルタンがカリフを兼ねるという言説は近世期から見られているという事例が紹介されている。
 「②近世アラブ都市とワクフ」では、近世のアラブ都市を主に施設から分析し、その中でワクフ制についても詳しく述べられている。本シリーズの三浦徹『イスラームの都市世界』と比べて読むことにより、この20年での研究の進展が分かる部分である。また、三浦氏の本が中世の事例の紹介が多いのに対し、本書は近世を扱うので、時代の変化に伴う都市の変容についても分かることだろう。中世との対比で見て目立つ事はマドラサなどの宗教施設が複合化・大規模化していく傾向だろうか。著者はこれによって大都市のモスクが教育・学術・宗教の活動にとって特別な地位を占めるようになると述べている。既存の施設の拡張と、新規の複合建築物の建立の両方によってこの傾向は進んでいった。
 他にも、福祉施設(給食施設、初等教育機関、病院など)の紹介や住宅、商館、店舗と工房、娯楽の場についても述べられる。コーヒー・ハウス(マクハー)の出現は近世に特殊なものであろうが、物語師が『バイバルス武勇伝』のような講談で人気を博したのはこのようなマクハーでのことであったようだ。
 「③近世アラブの社会と政治文化」では、社会におけるウラマーの活動や「イエ」の存在、法廷制度、市民が政権に対して抗議を行う際の行動パターン・作法、障害者の社会内での地位、ズィンミーの動向などが語られる。
 面白いのは法廷で、必ずしも裁判だけを行っていたわけではなく、不動産や動産の売買・賃貸借契約、商業上の協業契約、結婚・離婚契約、遺産相続や贈与などについて法廷のカーディーが証書を発行したという。市民にとっては現在の地方の役所のような役割を一手に引き受けていたということだろう。また、県総督に襲撃被害などを訴え、犯人の捜索や処罰などを行ってもらうために、一度法廷へ出向いて被害証書をもらう過程を経ていたのだろうと推測される事例も紹介されている。
 「④近世アラブの社会と経済」では、これまで都市が中心であったのに変わって農村と遊牧民にも視点が振り向けられている。小杉泰氏は『イスラーム 文明と国家の形成』の中で農耕・都市・遊牧の三つの文化の関連がイスラーム文明を形作っている、としているが、その視点からもこの部分は都市に偏らない視点を提供する意味で重要だろう。同時期の近世中国の経済史の分析が地方の開発なども併せてかなり解明が進んでいるのに対し、オスマン帝国治下の地方についてはあまりはっきりしていなかった部分が、本書を読むとようやく展望が開けてきたように思える。
 また、この章はナポレオンのフランス軍によるエジプト占領とその影響で締められている。ヨーロッパの衝撃が直接目に見える形でアラブ地域を訪れた最初の事件の影響は、決して少なくなかったようだ。

 総じて、邦語の他書では見ない話題が多く、また他書と重なっている部分でも最新の知見が反映されている。都市に関しては中近世で共通しているところも多く、また近代への前提ともなっている。西アジアのイスラーム時代以降に興味のある向きは、仮に近世に興味がなくとも本書はぜひ読むべきであると言えるだろう。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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