中村小夜『昼も夜も彷徨え――マイモニデス物語』


 ヨーロッパではマイモニデスの名で知られるユダヤ教徒哲学者にして医師、ラビ、モーセ・ベン・マイモン(モーシェ・ベン・マイモーン、アラビア語ではムーサー・ブン・マイムーン)を主人公とした歴史小説。
 
 モーセ・ベン・マイモンと言えば(日本ではあまり知られていないが)、前述の経歴の他、サラーフッディーン時代にアイユーブ朝の宮廷医を務めていたこともあり、中世のユダヤ教徒の中ではネームバリューが極めて大きい人物である。

 本書はそのモーセが幼少の折、ムワッヒド朝のスペイン侵攻を迎えて一家で故郷を去る直前から始まる。彼が旅するのは時に残酷な弾圧で、また時に寛容な友愛でユダヤ教徒を迎えるイスラーム教徒たちの支配する地中海世界だ。その地中海世界を渡り歩きながら、モーセはユダヤ教徒共同体のために、言論で戦う。この作品において、彼の行動の原点となるのは、ムワッヒド朝に強制改宗を迫られ本心ならずもイスラームの信仰告白をしてしまったあるユダヤ教徒が、ユダヤ教の共同体から爪弾きにされる様を見たこと、そして彼を擁護しようとして父親(彼も高名なラビである)のマイモンに反抗するも、父の論に歯が立たなかったことである。
 この父マイモンという人物が本作品においては非常に父親らしい父親として描かれており、息子に対し厳しく立ちはだかるのだが、その真意は息子を導くところにあった。モーセは父親を乗り越えた上で己の考えを示すため、膨大な知識、そして怜悧な理性を以て己の弁舌、論説を鍛え上げていく。それは時に苛烈なまでの筆致となって火を噴く。

 物語中でモーセとよく似ているとされているのがアイユーブ朝の宰相、ファーディルだ。ファーディルもまた言葉を武器とする男である。彼は歯に衣着せず舌鋒鋭く修辞で相手を煙に巻きながら正論を突きつける人物として描かれている。
 モーセとファーディルの出会いは物語の中盤頃になるが、このあたりでエジプトの支配者がファーティマ朝からアイユーブ朝へ移り変わる内幕なども描かれており、アイユーブ朝に馴染みの深い人間にとっては嬉しい部分だ。脇役ながらサラーフッディーンも登場し、名君としての顔を見せる。

 他にもモーセと弟ダビデとの家族愛や、モーセの恋模様(という言葉で表現するにはあまりにも克己的すぎるのだが)なども読みどころであろう。副題通り、モーセの生涯は旅に生きた生涯であり、その道中の活劇もまた物語に華を添えている。
 なお、モーセの終の棲家となったアイユーブ朝が持ち上げられ、逆にムワッヒド朝が悪く描かれている部分はある。物語の演出として許容できる範囲ではあるが、歴史上のムワッヒド朝の実像について知りたい場合は適切な本を当たるのがいいだろう。

 それにしても、よくマイモニデスを主人公とした小説がこの出版不況の中で書店に並ぶことになったものである。出版に漕ぎ着けた著者の中村氏と中央公論新社の郡司氏には大いに賞賛を贈りたい。
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鉄勒京二

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