竹中亨『ヴィルヘルム2世』


 ドイツにおいて最後の君主となったヴィルヘルム2世の評伝。副題は「ドイツ帝国と命運を共にした「国民皇帝」」
 
 ヴィルヘルム2世はあまり評判のいい人物とは言い難い。ビスマルクと決別し、自身の道をゆこうとした先にあったのは第一次世界大戦での敗戦とドイツ帝国の崩壊であった。本書でも筆致は比較的穏やかな割に著者のヴィルヘルム評は厳しい。ただ、著者はヴィルヘルムに関心を初めて持ってからの期間が長いためにヴィルヘルムに対しある種の親近感を覚えているようで、あとがきでは「旧友」と述べている。
 本書で描かれるヴィルヘルム像は、自ら事態を主導したがる割に、熱しやすく冷めやすく、さらに内心弱いところがあるために外面では虚勢を張る、といった形でお世辞にも褒められたものではない。既に時代は近代であり、既に王制を捨てた国や立憲君主制を確立させた国が多く、ドイツ帝国もまた立憲帝政を選択していた。そんな中で、皇帝がトップダウンで政治を行おうとしても上手くいく可能性が低いのは自明の理である。
 ただ、面白いのはその近代という時代にあって、ヴィルヘルムがメディアを存分に利用しようとしたことだ。メディアが「近代」を象徴する一つのガジェットであることは言を俟たないが、本書はヴィルヘルムがメディアを通じて国民の支持を得ることで「国民皇帝」になろうとしたとする。しかし、うわべだけの言辞ではもはや政治的自覚を持ちはじめたこれまた「近代」の国民はヴィルヘルムの首尾一貫性のなさや失策を十分に知っていた(時にはメディアに皇帝自らの露出が多かったために、皇帝に直接の責任がない事態まで皇帝の責任だと考えられることもあった)。

 近代政治を生きる人間は、ビスマルクであれナポレオンであれ、あるいはハサン・バンナーであれ、前近代性と近代性が一人の人物の中に同居していることがままある。それは時に前近代的な強引さでもって近代性を擁護したり、あるいは逆に近代的な手法をもって前近代性を存続させたりしようとする。
 先に挙げた三人は、それなりにその前近代性と近代性の同居がうまくいった人物だが、本書を読む限り、ヴィルヘルムはことごとくその取り合わせに失敗しているように見える。例外と言えば、彼は「ドイツ皇帝」として振る舞おうとしたがゆえに、領邦国家であったドイツ帝国がひとつの国民国家としてまとまりを持つことになる契機を作ったのは彼だと言えることだろう。しかしながら著者の言う通り、それはヴィルヘルムが自らの栄光を企図したものであって、彼は特段国民国家の理想のようなものを考えてはいなかった。
 近代史政治に生きる個人を思う時、特にドイツ帝国の文脈で見るならば、本書と同じく中公新書に収録されている飯田『ビスマルク』あたりと併せて読めば、その表裏がよくわかるのではないだろうか。むろん、どちらが近代政治に生きる個人の表でどちらが裏かは改めて言うまでもない。
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鉄勒京二

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