読書案内:歴史学の脇道としての現代思想

 このブログの近況記事をチェックされている方はお察しのことと思いますが、最近よく哲学書を読んでいます。きっかけはいくつかありますが、ひとつは現代歴史学が言語論的転回への対応に苦慮していた、ということです。記事タイトルからはヘーゲルやマルクスの歴史哲学、あるいは歴史の引き受け方を論じたベンヤミンの『歴史の概念について』などの話かと思われるかもしれませんが、その手の話はほぼ出てきません。
 この記事では、歴史学と哲学の関わりを中心に簡単な読書案内をしてみたいと思います。基本的には歴史学に軸足を置いている人を対象としているので、哲学書に関しては原典より解説書の紹介の方が多くなると思います。
 
 さて、遅塚忠躬『史学概論』はおそらく現代の史学科の人間であれば必読の一冊でしょうが、その中に科学哲学を専門としている野家啓一氏の『物語の哲学』に述べられている物語論への批判が含まれています。また、遅塚氏の批判に対する反論が野家氏の『歴史を哲学する』文庫版に収められています。
 ざっくり言ってしまうと(カントの言う「物自体」のように)過去を直接知覚することはできないという点から、歴史は歴史家が構築する物語であると主張する野家氏に対して、遅塚氏は揺らがない構造史上の事実(例えば統計上の数値など)と、科学哲学者カール・ポパーの「反証可能性」概念から、歴史学の中でも基底にある部分は科学性を持っている、と主張します(ただし、最終的に出力される歴史叙述に物語性があること自体は遅塚氏も否定しません)。
 遅塚氏の批判に対する野家氏の反論は、①いかに構造史上の事実と言えども解釈ないし選択からは逃れられない(例えば統計にしても何を数えて何を数えないかに恣意性が紛れ込む)、②遅塚氏が言うように「事実が解釈に先立つ」わけではなく、事実と解釈は鶏と卵の関係、「解釈学的循環」の関係にある、③事実の直接的な知覚はやはり不可能であることの再確認、④反証可能性は事実によるものではなく言明間の突き合わせによるものである。
 残念なことに遅塚氏は『史学概論』上梓の半年後に亡くなっておられるので野家氏の反論に対する遅塚氏の再反論はかないませんが、岡目で見ている限りはふたりの議論はしだいに接近していっていたのではないかと思います。
 野家氏は『歴史を哲学する』で次のように述べています。
「おそらくこの結論(引用者註:歴史記述が合理的受容可能性を持つか否かが歴史と文学の間の境界線であるということ)に関する限り、遅塚さんと私の間にはさほどの隔たりはないはずです。ただし、歴史と文学の境界設定をするに当たって、氏が「事実立脚性」に固執されるのに対し、私が「論理整合性」を強調するという違いはあくまでも残ることでしょう」(p.214)


 なお、『史学概論』で引かれているポパーの「反証可能性」概念については戸田山和久『科学哲学の冒険』が初心者に分かりやすく書かれています。『史学概論』を読んだり、野家=遅塚論争を追うに当たって読んでおくと便利です。

 だいぶ込み入った議論になっていますが、このあたりの問題に対して大戸千之氏は『歴史と事実』で次のようにバッサリと斬っています。
「近代歴史学の出発点は、嘘や作りごとでない、ほんとうにあったことを重んじようとするところにあった。ありのままの過去を述べるとか、正確で客観的な史実を伝えるとは、ほんらいそういう立場の主張であって、これを文字どおり、過去をそっくりそのまま復元してみせることだと解して、それは不可能であると主張し、歴史学の無力や限界を強調しようとするのは、ポストモダニズムの論者たちの誤解である」(p.275)
 これは有効な反論ではあると思うのですが、『歴史と事実』の副題である「ポストモダンの歴史学批判をこえて」が適っているかというと迂回路を見つけ出しただけでは、というような疑念もないでもなく。


 『歴史と事実』は上で述べたような議論を念頭には置いているものの大戸氏の専門とする古代ギリシアの歴史家たちの事実観を掘り出す方針を取っており、実証史学に馴染んでいて哲学はいまひとつという人にも分かりやすく面白い本になっています。

 作り事を述べない、ということは、歴史家たちの述べる歴史叙述が必ずしも一つの歴史観だけに収斂してしまうことを意味しません。当然、解釈の振れ幅の中で複数の歴史観が併存する状況になります。J=F・リオタールが『ポスト・モダンの条件』で述べたように、大きな物語(戦後歴史学でいうなら唯物史観)が死んだ後は、小さな物語が雨後の筍のように林立する状況になるのは目に見えています。
 作り事を述べないとは言え、歴史学上許される振れ幅の中であっても、その歴史観が何者かを抑圧するようなものであることが(繰り返しますが歴史学上許されても倫理の上で)許されない場合はあるでしょう。これはエドワード・サイードが『オリエンタリズム』で論じた問題です。無論最初期のオリエンタリズムは(歴史叙述だけに的を絞るならば)現代歴史学の観点から十全な議論の上に成り立ったとは言えません。しかし、一度当時の学術水準の上で成り立ってしまえば、学術の方法論が厳密化され解釈の振れ幅が小さくなっていったとしても、経路依存性により振れ幅の中でそのベクトルが東洋蔑視に寄ったままであるという批判はやはり正当なものでしょう。


 サイード『オリエンタリズム』は読み通すとかなり長くなるのでまずはシェリー・ワリア『サイードと歴史の記述』で論点を押さえておくと見通しがききます。また『オリエンタリズム』はフーコーの権力論を応用したものですが、権力論を押さえておくには杉田敦『権力論』が便利です

 『オリエンタリズム』は望ましくない叙述について述べた本ですが、では望ましい叙述は存在するのでしょうか? この疑問に答えようとしたのが羽田正『新しい世界史へ』です。
 羽田氏は基本的には複数の史観の並立に肯定的で、また歴史家全員が以下の構想に参加する必要はないとも述べています。しかし、それでも新しく立ち上げることが必要なものとして「新しい世界史」の構想を本書で述べました。これは国民国家史観の超克や、中心と周縁という見方の排除などいくつかの要件を用いたもので、「地球市民のための構想」という副題の通り、地球全体の利害を考慮して行動するための世界認識を育むためのものです。
 羽田氏は次のように述べています。
「(引用者:現在必要とされている世界史とは)端的に言えば、地球主義の考え方に基づく地球市民のための世界史である。「地球主義」とは何か。私達の生活の舞台である地球を大切にし、現在地球上で生じている政治、経済、社会、環境などの様々な問題を地球市民の立場から解決してゆこうとする態度のことである。
 「世界はひとつ」であり人間は同じ地球上で生活しているのだから、私たちはある国の国民であると同時に、地球社会の一員、すなわち地球市民でもあるということを強く意識するべきなのだ。私たちが世界全体の利害を考慮して行動するためには、世界を「私たちの日本と他者である諸外国」と見るのではなく、「私たちの地球」と捉える世界認識が必要である」(pp.92-3)
 歴史学の要件をクリアした後で、望ましい歴史叙述とはどうあるべきか、というのはある種の倫理の問題です。羽田氏は上で引用したように述べるだけでこの論点をより掘り下げてはいませんが例えばロールズの『正義論』やハーバーマスの討議倫理のような観点から掘り下げることも可能であるように思います。



 これまで現代歴史学の枠内でポストモダンへの対抗や望ましい歴史叙述の話をしてきましたが、そもそも現代歴史学の方法論自体が抑圧的なものではないのか、ということを論じた本があります。著者は若くして亡くなってしまわれましたが、大きなインパクトを残しました。保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』がその本です。
 保苅氏はオーストラリアのアボリジニの歴史実践を実地で研究した人物で、その独特の歴史観が我々の歴史学観とは整合しないものの彼らの社会で事実として扱われていることを示します。これを括弧に入れて「~と信じられている」や「~ということになっている」などと述べ無毒化してしまうのは近代史学の暴力ではないのか、という旨のことを保苅氏は述べています。
 これはガーヤトリー・スピヴァクが『サバルタンは語ることができるか』で述べた問題と通底しており、我々の言語で語ることを強制されることによって言葉を奪われてしまう人々にどう向き合うのかという問題を指摘します。
 また、近代の(合)理性の暴力性を論じたフランクフルト学派第一世代のホルクハイマーやアドルノの問題意識とも通底する部分があります。
 仮に羽田氏の言うような世界市民のための世界史を構想するのであれば、このような「他者」をどう扱うのかということは大きな問題となるでしょう。歴史学は当然のこと公的な言論です。公共圏における他者の問題はハンナ・アーレントやハーバーマスが論じており、この問題を解くヒントともなるでしょう。これは五十嵐沙千子『この明るい場所』の整理がすっきりしていて読みやすいと思います(出版年の割に内容は少し古いようですが入門にはいい本でしょう)。


 『サバルタンは語ることができるか』の解説は一冊まるまる使ったものは見当たらないので、さしあたり仲正昌樹『現代思想の名著30』の該当部分を読むことをおすすめしておきます。また、フランクフルト学派の理性批判についてはホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』がまずは取り組むべき本だと思いますが、解説として仲正昌樹『現代ドイツ思想講義』が本文読解の講義方式を取っておりとても有用です。

 以上、簡単に歴史学と現代思想についてつらつらと述べてきました。例えばヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』や『実用的な過去』、あるいは長谷川貴彦『現代歴史学への展望』などはまだ私自身が手を出せていないので手落ちもいいところですが、ネット上で似たような記事がないこともあり、あえて不十分ながら筆を執った次第です。
 実証史学に専念している方からは言葉遊びの類に見える議論があることは承知していますが、例えば歴史修正主義への対抗のためには、ひとつひとつ歴史上の事実をもって反論することが重要なのはもちろん、歴史修正主義の論理的支柱を折るためにこの手の議論の知識が必要であることは間違いないと思います。
 また、西アジア史の研究をしている人でサイード『オリエンタリズム』を無視できる人はまずいないでしょう(その論への対応には振れ幅があると思いますが)。サイードの論理的支柱にはフーコーの権力論があります。
 一方で、スピヴァクはサバルタン論をデリダの脱構築という方法に依拠しており、デリダも現代思想の重要な論客であることは論を俟ちません。

 結局の所、人文社会科学の知は隣接分野と対話しながら深めていく他ないのだと思います。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
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