近況・新刊情報と最近読んだ本など

 TRTの日本語版が報じていますが、イラク南部で新バビロニア時代の円筒書簡が発掘されたそうで、これが世界最初の絶縁状だったとのこと(「世界最初の「別れの手紙」が発見」)。差出人は新バビロニア最後の王として知られるナボニドゥスで、宛先は彼の女奴隷。どうやら王はこの女奴隷に浮気されていたらしく、その裏切りに失望して別れを切り出したようです。
 王のものとは言え、まさか2500年の時を経てどちらかと言えば私事に属するような(個人的な)手紙が発見されるというのは、なんとも想像を絶することで。

 さて、新刊情報。
 岩波新書から「シリーズ アメリカ合衆国史」という叢書が出るようです。第一回配本は4月20日で和田光弘『植民地から建国へ――19世紀初頭まで』。予定では全四冊となっています。
 パブリブ4月、木村香織『亡命ハンガリー人列伝』。パブリブも面白い出版社で色々ニッチな本を出していますが、今回は亡命ハンガリー人がテーマ。A5判352頁というのでけっこうな重量級。
 中公新書5月、島田周平『物語 ナイジェリアの歴史――「アフリカの巨人」の実像』。中公の物語○○の歴史シリーズは割とマイナーな国のものも出ていますが、それにしてもなかなか攻めたセレクトです。これはマストアイテム。
 白水社5月、ウィリアム・トーブマン『ゴルバチョフ』上巻。まだ存命の人物ではありますが、大部の評伝が訳されるようで。

 以下、最近読んだ本。
 

■松尾剛次『知られざる親鸞』
 親鸞の生涯や思想についての概説書ではありません。松尾先生は日本中世史の方で、本書も歴史学的な方法論に基づいて書かれています。
 親鸞関連史料は数が少ないながらも玉石いろいろあるようですが、そのうち従来信頼性が低いとされてきたものも含めて、史料批判のもと使用に耐える部分をより分けて用い、歴史上の親鸞の実像に迫っています。
 例えば親鸞が慈円の弟子であったということについては疑問が呈されてきましたが、定説となっていた否定説からの指摘にひとつひとつ反論する形で答えていたり、従来は空白となっていた親鸞の官僧時代の活動について考察したりしています。また実在が疑われていた親鸞の正妻、玉日姫についても、墓の発掘調査の結果などから実在の蓋然性は高いであろうと述べるなど、文献史料以外も用いています。
 日本史の新書を読むのもしばらくぶりですが、日本中世史の新書にありがちなように本書も史料の引用や先行研究への言及が多く(世界史だとあまり見ない)、慣れていないと少ししんどいかもしれません。ただ引用されている史料も大半は現代語訳が併載されているので、そこは安心です。
 話は時系列順ですが、取り上げられる論点には親鸞の行動の跡づけが多く、あまり親鸞の思想については踏み込みません。まあそこは教学書ではないので読みたいのなら別の本を当たってくれというべきところでしょうか。
 以前紹介した小山『浄土真宗とは何か』と併読するのもおすすめです。


■長澤伸樹『楽市楽座はあったのか』
 平凡社の「中世から近世へ」シリーズ、今回のテーマは「楽市楽座」。仮題は『楽市楽座とはなにか』だったので、同シリーズの『兵農分離はあったのか』に合わせて変更されたのでしょう。内容的には楽市楽座があったのかなかったのかという話よりも、仮題に近い楽市楽座とは何だったのか、という議論がメインです。
 信長とセットで語られることが多い楽市楽座ですが、実際のところ信長の独創というわけではありません(語の初出自体は六角氏の発給文書だということくらいはある程度戦国時代に詳しい人なら知っているでしょう)。信長の革新性というのも近年の研究で見直されてきてむしろ保守的な大名だったという傾向になりつつあるわけですが、楽市楽座も信長の革新性を前提にアドホック気味の説明がされることが多く、見直しが必要であろうとのこと。
 本書では先行研究を整理した上で、楽市と楽座を分離し(「楽座」の方が用例がかなり少ないようです)、楽市および楽座の言葉が見える文書をひとつづつ分析し、それがどのような文脈で発給された文書なのか確認していきます。
 また、楽市楽座が仮に近世的商業興隆の前提となった革新的なものであったとするならば、物事の由緒について語りたがった江戸時代の人々が楽市楽座についてどう認識していたかを知ることも重要で、この面からも検討が行われ、さらに楽市および楽座が置かれたエリアがその後近世に入って繁栄を続けていたかも議論されています。
 結局のところ、程度の違いはあるものの楽市と楽座はかなり個別の事情に左右されて置かれており、後世への影響や(信長を中心として見た時の)同時代の他地域への影響もかなり限定されたもののようです。


■仲正昌樹『《日本の思想》講義――ネットの時代に、丸山眞男を熟読する』
■丸山眞男『日本の思想』
 教養として読んどくか、ということで丸山眞男に手を出したわけですが、都合のいいことに仲正先生の講義シリーズに丸山眞男を扱ったものがあったので一緒に確保。
 内容については有名なのでいちいち紹介したりはしませんけれども、丸山『日本の思想』は200頁ほどの新書ですが、そのうち「Ⅱ 近代日本の思想と文学」を除いた140頁分ほどの内容を、四六判300頁強で解説しているので物理的な分量はさておき非常に分かりやすい読書でした。世の中のいわゆるアンチョコ本は分厚い原典を削った上に単純化して少ない頁数で解説しているものが多いので、いいカウンターなのではないでしょうか。
 「それ以前」の捨象とか、鵺的にあらゆるものを取り込んできたこととか、割と(イスラーム以前の伝統の記憶があるイラン・トルコ系諸国家はともかく)アラブにとってのイスラームと日本にとっての神道って近いのだろうかということも思わないでもないです。
 ただまあ、丸山の言う通り確固たる教義を持たない神道とは違ってイスラームは原理は原理として確保している体系ではあるのですが。


■古田徹也『言葉の魂の哲学』
 著者の古田先生はウィトゲンシュタイン研究者の方ですが、本書は中島敦「文字禍」やホーフマンスタール『チャンドス卿の手紙』などに現れる文字・言語観から話をはじめ、ゲシュタルト崩壊やその逆の「ゲシュタルト構築」へ話を進めつつ、我々が言葉に対して持っているある種の感覚について「言葉の魂」という語で表しています。
 中核部ではウィトゲンシュタインやカール・クラウスの議論を参照しながら「言葉の魂」について基礎づけを行い、言葉の適切な使用について論じていきます。ウィトゲンシュタインは前期では論理形式による言語の限界、後期では言語ゲーム論を展開したことで知られていますが、本書では彼が人工言語(具体的にはエスペラント語)に批判的であったというような部分も参照し、自然言語に特有の「アスペクト」を重視していたという点を強調します。
 言葉が現実の不完全な代理=表象であるという言語観はおそらくある程度広く認められると思いますし、言葉の多面性についても異論の少ないところでしょう。ただ結局のところ、より適切な語彙の選択を行ったとしても、それが紙に記され反復されるようになると時間が経てば全く同じ表現であっても受けてに紋切り型と取られる可能性が高くなる以上、(文章も含めて)発話時に意識するだけでなく、デリダが言うように発話されてしまった後もその言葉について問い直し続けることは必要なんじゃないかなあとは思います。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
当ブログは一介の歴史好きが読んだ本を紹介したり、書いた文章を公開したりするための場です。執筆記事は西アジア史関係が多いですが、読書は西アジアにこだわらず地域・時代を広く浅く扱っています。
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