宮野公樹『学問からの手紙』を読む

 先日の記事で梅田であったトークイベントに行ってきたという話はしましたが、その際の登壇者の宮野公樹先生(京大の准教授)が新刊を出すということで少し紹介がありました。それがこの『学問からの手紙』という本です。

 本書は宮野氏の学問観を述べた本になっていまして、構成は次の通り。

 問いに学ぶ
 第1章 大学で学ぶということ
 第2章 学問の役割
 第3章 学者として生きる
 おわりに

 以下、個人的な関心(人文学・在野・アマチュア)に基づいた感想や、関連しそうな学問論、思想などと絡めつつ中身を紹介していきたいと思います。
 
 まずは第一章「大学で学ぶということ」。元は大学一、二年生向けの講義を書き起こしたものということです。理工系からどちらかというと哲学に近いところに転じた宮野氏の自己紹介から始まります。なかなか思い切ったことをしたものだなあと思いますが、第三章の関連するところを読んでいると御本人の中では割とシームレスに繋がっているようで。
 その上で本論に入る前に前置きしているのが「今日、みなさんには、何かを伝えたいわけではない」(p.21)とのこと。
 どういうことやねんと思って読み進めると①宮野氏が「よいこと」と考えることが話の受け手にとって「よいこと」かは分からない、②先の「よいこと」に関連して、メタ「よいこと」(これは後で説明します)は共通しているので、「伝える」必要はない、③宮野氏は人生について話そうとしており人生というのは原理的に「分からない」ものなので話しようがない、という以上三点が理由の模様。

 ①人によって「よいこと」が違うということはまあ、日常的に実感しておられる方も多いでしょう。それは突き詰めて考えていないからで、客観的な「よいこと」は論理的に導き出せるはずだ、と思う人もいるかもしれませんが、現に多くの哲学者がこの問題について考えて答えを出せなかったということを想起しましょう。思想史的に言えば、この考え方はウィトゲンシュタインの言語哲学から派生して、(本文には名前が出てきませんが)リオタールの言う「大きな物語」の死と、どれも同様な「もっともらしさ」を担保されている複数の「小さな物語」群の併存という見方にひとまずは極まることになります*1
 ②は、論者によってどういう立場を取るか分かれますが、宮野氏は、「よいこと」の中身は人によって違うが、「よいこと」の中身を入れる「箱」(=「メタ「よいこと」」=「よい」)は皆共通していると考えています。「「よいこと」とは何か」は共通していないけれど、「「よい」とは何か」は共通しているということです。「よい」の実在論ということですね*2
 リオタールの例に戻るならば、「もっともらしさ」を担保するための条件は存在する、と見る立場になります。
 ③はこの段階では名前が出てきませんが、ハイデガー哲学が鍵になっています。「死とは現存在の最も固有な可能性である」とは、『存在と時間』の有名なフレーズですが、ここで言う「現存在」はさしあたり「人間」のことなので、ハイデガーが依って立つ現象学的前提に立ったとき、人間にとって死は必ず引き受けなければならない絶対のものです。『存在と時間』を実存主義的に読むと、最終的に死ぬのだから今どう人生を過ごすかを自分で考えろ、ということになります(p.61で投企性の話が出てきたりしますし、第一章は全体的に枠組みにおいてはハイデガーの影響が強いように思います)*3。
 ただ、その人生の意味を精算できるのは死ぬ間際の自分だけなので、上で書いた「人によって「よいこと」の中身が違う」ということを考え合わせると、「人生をよく生きること」とはどういうことかをひとつ定義することはできませんし、もっと言えば人間=現存在が自身の存在(そして人生)について考えることは、ウィトゲンシュタイン哲学から理屈を引いてくれば不可能なのです*4。存在とは論理的に語られうることの前提であり、論理形式について論理の内で語ることができないように、存在について論理の内で語ることはできません。これが有名な「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」(『論理哲学論考』p.149)というフレーズに繋がります(ただこれは論理の内側で、という話なので例えば語り得ぬもの(存在、論理形式の他に倫理)をレヴィナスのように非論理的に語る試みは当然あるわけです。煩瑣になるのでここでは割愛しますが詳細は斎藤慶典『力と他者――レヴィナスに』などを参照)。

*1 J=F・リオタール『ポスト・モダンの条件』。
*2 当然、反実在論の立場も想定されるわけですが、このあたりは(全く同じ問題を扱っているとは言い難いのですが)佐藤岳詩『メタ倫理学入門』が参考になります。
*3 このあたりの私の理解は仲正昌樹『ハイデガー哲学入門――『存在と時間』を読む』に依っています。ただ、死だけを究極的なものとして提示するようなハイデガー哲学はレヴィナスに「ハイデガーの現存在は飢えを知らない」と批判されていたりもします。
*4 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』p.115 (これについては野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』p.218の解説が分かりやすいでしょう)。


 上の前提を述べた上で、宮野氏は学問とは人生についてその中身ではなく箱についてこと考えることだと言ってしまいます。
 ここでまえがきにあたる「問いに学ぶ」で、宮野氏が主張している内容に立ち返ってみましょう。学問とは「問い学ぶ」ということではなく、「問いに学ぶ」ということである。本文中の言葉を借りつつ言い換えると、「なぜ……なのだろうか」「……とは何か」と問うことは重要だけれども、本当に意味があるのは「なぜそのような問いを自分は持つのか」という問いである。
 語弊を恐れず言ってしまえば「問い学ぶ」ことが研究であるとすれば、「問いに学ぶ」、すなわち学問とはある種のメタ研究であるということでしょう(この「学問」と「研究」の使い分けはp.74以下とp.136を参照)。
 宮野氏は「学問すること、つまり人生なるものの箱のほうについて考えること」とも述べているので、「問いに学ぶ」=「ある種のメタ研究」=「学問」=「人生の箱について考える」ということになります。研究をするのは結構、しかし研究を通じて学問をしよう、という風に私は読みました。
 これは理系の研究も文系的学問に回収する態度のように思えますが、実際のところ古代ギリシアにおいて哲学が諸学の王、あるいは諸学が哲学の一分野であったことを思い起こせば、無理のないことなのでしょう(ヨーロッパ中心主義の問題はここでは措いておきます)。

 やや話は飛ぶのですがこれと関連して、丸山眞男が『日本の思想』において日本社会なり文化なり学問(この記事の使い分けで言えば「研究」)なりの型を「ササラ型」と「タコツボ型」というものに分類しています*5。研究に即して言えば、タコツボ型というのはいまさら言うまでもなく、個別具体的な研究に閉じこもり分野外との対話ができない状態を指しています。
 一方、ササラ型というのは今となってはやや聞き慣れない言葉ですが、根っこのところで繋がっているものが、枝分かれして個別の研究分野となっている状態にあたります。
 ヨーロッパにおいてはササラの根本にあたる部分が(ヘレニズムの伝統を引く哲学であれ、ヘブライズムの伝統を引くキリスト教であれ、あるいはそれらをひっくり返そうとしたマルクス主義であれ)あるにも関わらず日本においては、近代化の過程で根っこはさておき枝葉の部分の研究(対象・技法などを含めて)のみを受容し、しかも日本の神道は教義や経典を持たないために容易に取り込んでしまえたためによりタコツボ化が進行したと言えます。
 冷戦の終結によるマルクス主義の退潮、世俗主義の台頭によるキリスト教の公的影響力の衰退、ポストモダン思想の興隆による哲学の複数化などにより、ササラの根本の部分が解体されつつあるのは西洋でも同様のようで、サイードが『人文学と批評の使命』で似たようなことを指摘していますが*6、日本の場合は伝統的にタコツボが醸成されやすい環境にあったとは言えるでしょう*7。
 個人的な話ですが、読書会をやっている友人(英国近代海軍史を研究している院生です)と話していると歴史学のタコツボ化が時折話題に出ます。やはりこれも戦後歴史学の終焉が関わっているように思います。

*5 丸山眞男「思想のあり方について」『日本の思想』。なお詳しい解説として仲正昌樹『《日本の思想》講読』。
*6 「アカデミックな知識人の言説、どこでも隠遁的で専門用語だらけで、無害で激しい競争の世界」(『人文学と批評の使命』p.171)
*7 仲正『《日本の思想》講読』p.236以下


 『学問からの手紙』に話を戻すと、研究を通じて学問を行うにあたって、普遍を目指す、という話が出てきます(p.58)、ポストモダンの今、真に普遍的なものを留保なしに認めることは難しいと思いますが、丸山の喩えで言うのなら、ササラの根本にあたる部分を見つけろ、ということになるでしょう。
 p.52で宮野氏が引いている西周の言葉「学問とはあらゆる事象の根源・由来から押さえて、その真理を知ること」もこれに引きつけて理解できようかと思います。
 かつて日本においてササラの根本はマルクス主義(のみ)がその役目を負っていましたが(後はササラの根本を持たないタコツボの研究でした)、今やその退潮は著しく、何もかもをマルクス主義に紐づけて説明するというわけにはいきません(疎外論などは未だ有効だと思いますけれども)。
 畢竟、我々は己の依る「小さな物語」を自ら立ち上げる他ないのでしょう。
 第三章でヒリヒリするような他流試合(p.158)、という言葉が出てきますが、他流試合ができるのは共通の基盤があるからです。タコツボに籠もっていては他流試合はしようがありません。それがヒリヒリするのは、言ってみれば共通の基盤=他流試合のレギュレーションを決める時点で既にせめぎあいがあるから、言い換えると自分たちが持っているササラの根本(普遍)を他人のそれと突き合わせてみる作業が発生するからでしょう。

 話は変わりますが、『学問からの手紙』にはシェリングの「知の知」という言葉の紹介があったり、あるいは学問とは「考えるを考える」ことだ、というような話も出てきます。
 これと関連するのが上でも少し名前を出したエドワード・サイードの『オリエンタリズム』です。これは西洋の知の枠組みに染み付いた東洋蔑視をフーコーを援用しながら批判した著作で、まさに、相手のタコツボを攻撃するのではなく、ササラの根本を揺さぶり、修正を迫ったものでした。
 批判の舌鋒は鋭いのですが、サイードの側のササラの根本は必ずしも論理化されているとは言えません。ただ、パレスチナ問題について生涯発言を続けたことからも分かるように、彼は「オリエント」の人々の生活に軸足を置いた活動を続けていました。言うなれば、その生活こそが彼の学問だったのでしょう。学問とは、こういう形でもありうるわけです。
「ここでいう普遍性の原則とは、以下のことをいう。あらゆる人間は、自由や公正に関して世俗権力や国家から適正なふるまいを要求できる権利をもつこと。そして意図的であれ、不注意であれ、こうしたふるまいの基準が無視されるならば、そのような侵犯行為には断固講義し、勇気をもって闘わねばならないということである」*8

 『学問からの手紙』にもありますが、有為の人材を社会に送り出すよう大学が財界から求められる今、大学における学問が役に立つのかということが改めて問われています。しかし、ウィトゲンシュタイン風に言うならそれは「ナンセンス」というものでしょう。
 問われている「役に立つのか」は端的に言えば「カネになるのか」であり、本書に則るならば、学問とはいわば「実存的問題」であるからです。本書の言葉を借りれば「大学は、「良い人材」の輩出というより「善き人間」であろうとする人を育む場」(p.58)と宮野氏は述べています。
 以下は宮野氏というより私の意見ですが、ここで私が引きたいのはサイードの『知識人とは何か』です。サイードの知識人観は非常に要求するレベルが高く、「学問」だけで養成できるものとは言えませんが、とは言え大学における学問が知識人を世に送り出す一つの原動力となっていることは間違いないと思います。

「わたしが主張したいのは、知識人とは、あくまでも社会の中で特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔のない専門家に還元できない。わたしにとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを表象=代表(represent)し肉付けし明確に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ。このような個人になるにはそれなりの覚悟がいる。つまり眉をひそめられそうな問題でも公的な場でとりあげなければならないし、正統思想やドグマをうみだすのではなく正統思想やドグマと対決しなければならないし、政府や企業に容易にまるめこまれたりしない人間になって、みずからの存在意義を、日頃忘れ去られていたり厄介払いされている人びとや問題を表象=代表することにみいださなければならないのだ。知識人は、こうしたことを普遍性の原則にのっとっておこなう」*9

 では、知識人とは何の役に立つのでしょうか。問うまでもなく、知識人とは間違いなく「健全な社会」の成立・維持のために不可欠であると言えるでしょう。

*8 エドワード・サイード『知識人とは何か』p.38
*9 エドワード・サイード『知識人とは何か』pp.37-8


 最後に、『学問からの手紙』では主に大学での学問が論じられているものの、ちょくちょく大学でなくとも学問はできる、という話題も取り上げられます。時々勘違いされることがあるのですが、私は法学部の学部卒で(本ブログのメイン分野である)歴史学の研究を専門としている人間でないどころか修士号も持っていません。現在研究と言えるほどのことをしているわけではないですが、「研究を通じた学問」への憧れと敬意は忘れていないつもりです。
 私と似たような環境と態度の人は少なくないと思いますが、『学問からの手紙』を読んで学問への思いが募った人は荒木優太氏の『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』を読んでみることをお勧めします。ひょっとしたら、何かつかめるものがあるかもしれません。

プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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