ヒュー・ボーデン『アレクサンドロス大王』


 オックスフォード大学出版会がVery Short Introductionsというシリーズを出版している。日本で言えば岩波新書相当のコンセプトで、一冊100頁ほどで様々な人文・社会・自然科学の別を問わず学術的トピックについての入門書を収録している叢書だ。本書はその中の一冊を和訳したもので、原著が2014年ということもあり、小著ながら最新の研究結果が反映されている。
 
 アレクサンドロスについては、現存している基礎的な文献史料が全てローマ時代のものでありアレクサンドロス本人が生きた時代と隔たっていてそもそも著述者たちが知り得た情報が正確なものであったと言い切れない。また、彼らにはローマ的価値観のバイアスも存在する。さらに、近現代においては西洋中心的な物の見方が(特に古い研究には)色濃く出ていることは否定しがたい。
 斯様にアレクサンドロスを見通すためのレンズは歪みが大きく、実像には迫り難い。
 本書が入門書であるにも関わらず特殊な点は、その歪んだレンズを矯正するためにギリシアの碑文、エジプトの神殿の銘文、「バビロン天文日誌」等の同時代史料、文化史・文献学的知見を用いていることだ。

 文献史料への史料批判に同時代史料とのクロスチェックが有効であることは言を俟たない。例えばダレイオス三世の敵前逃亡については「バビロン天文日誌」の記述から、王が真っ先に逃げ出したというプルタルコスとアリアノスの記述は誤りであろうとしている。特にアリアノスは他の史料に比べて信頼性が高いとされており、ダレイオスの敵前逃亡は王の神聖性を傷つけられないためのやむを得ない行動だった(彼は傍系であり特にそこに気を使わねばならなかった)のだという議論もあったわけだが、バビロン天文日誌を見る限り、そもそもダレイオスが敵前逃亡したという前提自体が誤りだった可能性が高い、ということになる。
 さらに文献学的知見に基づく史料批判も面白い。例えば、本書で用いられている手法として、ローマ時代の歴史書に見られる典型的プロットがアレクサンドロスにも適用されているような部分については確かに実像が歪められていると考えてかかった方がいい(これは、アレクサンドロスに関する史料だけを読んでいては気付かない)。
 これらの考察を読んでいくと、上で岩波新書の名前を挙げたが、古代史について文献史料を手際よく批判していく入門書という意味で鶴間『人間・始皇帝』に近い部分がある。
 なお、アレクサンドロスと聞いて一部の読者が期待するような軍事史的知見についてはそれほど詳しくはないので、そのあたりは森谷公俊『アレクサンドロス大王――「世界征服者」の虚像と実像』を併せて読むことをオススメしたい。

 元が入門書ということもありそれほど読みにくい本ではないが、本書は部分的に時系列順ではないところもあるため、訳者の佐藤氏の勧めの通り、プルタルコス英雄伝のアレクサンドロスの部分か、あるいは森谷公俊氏のアレクサンドロスに関する概説書を一冊読んで流れを頭に入れておくとより理解が深まるだろう。
 ともあれ、入門書とは言え上で書いた通り新たな知見が多くちりばめられており、アレクサンドロスについて興味のある向きには必読の一冊となっている。
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鉄勒京二

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