河合晴信『政治がつむぎだす日常』


 副題は「東ドイツの余暇と「ふつうの人びと」」。
 私的空間のみにおいて政治的議論が可能であったとする従来の東ドイツ理解に対して、本書では余暇という私的問題にも政府が関わらざるを得ず、その結果私的問題を政府に訴えること自体が政治的であったと主張している。
 
 本書でも引かれているが、(西)ドイツの著名な社会(哲)学者、ユルゲン・ハーバーマスは『公共性の構造転換』の中で、政治的議論を行える「公共圏」の成立と可処分時間の関係について論じている。とすると、労働時間の適正化を掲げた社会主義政権としては労働者の自由時間を増やすことによって潜在的な政権批判の可能性を増やすことになる。東ドイツはこれをいわゆるシュタージに象徴されるような政治的抑圧装置によって統御しようとしていたと思われているが、さて実際のところはどうだったのだろうか。

 公定イデオロギーを持つ独裁政権は逆説的に決断の責任を一手に担うことになる上、その枠内でイデオロギーに基づいた批判には応答せざるを得ないという分析は與那覇順『中国化する日本』で述べられていたが、本書を読む限り東ドイツも似たような状況にあったように思える。
 東ドイツ社会主義政権は余暇も含めて政治的に統御しようとしており、余暇活動に関して市民から社会主義の理想に基づいて批判が行われるとそれを無視することはできない。ここから、逆説的に私的時間・空間であるはずの余暇に関わる問題が政治的イシューとしての性格を帯びることになる。意識するせざるとに関わらず、日常の不満を政府に訴え、またその一方で自分たちの間でも解決を図ろうとする東ドイツの市民は、政治的な問題に主体的にコミットしていたと言える。
 もちろん、著者が釘を差している通り、社会主義政権の正統性や冷戦の行方の問題など「高度な政治問題」について市民は公的には発言しなかった(つまり、西側においては公的に議論されるべきものが私的空間に閉じ込められていた)という意味で、その政治性には限界があったことは認識しておく必要がある。
 現代中国を評するにあたって「上に政策あれば下に対策あり」などと言われるが、公定イデオロギーに対して戦略的に振る舞うことで自己の利益を確保しようとする強かな民衆像という意味では本書で示されている東ドイツの人々と共通するところがあるように思える。
 
 社会主義時代の歴史研究と言えばソ連史研究が一大勢力なのだろうが(ソ連についても市民の政治的主体性について松戸清裕氏の著作などで取り上げられており、本書と一緒に読むといいだろう)、ソ連だけでなく東ドイツもなかなか面白いということを本書は示してくれている。著者のあとがきによると博論他を元にしているというので分類としては研究書になるのだろうが、扱っている対象もあって読みやすい一冊だと言えよう。
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鉄勒京二

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