第五回十字軍まとめ

第5回十字軍(1217-1221)
ローマ教皇主導で行われた十字軍。アイユーブ朝エジプトの本拠カイロを目指しダミエッタを占領したが、無理な進撃によりナイルの増水に巻き込まれ失敗。主導権を握っていたのはエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ及び教皇特使ペラギウス。
エジプト側はこの間、アル=アーディルからアル=カーミルにスルタンが代っている。

ちなみに教皇ホノリウス3世及び皇帝フリードリヒ2世はイスラム教徒との条約を十字軍に対して禁じている。教皇は異教徒との妥協を嫌い、皇帝はラテン系国家の損耗と自分の立場の保護を図ったのではないかと思われる。

重要人物(主観)は黒字にしてあります
「不明」とか「?」としてあるのは、史学的に不明なんじゃなくて管理人の調査能力が及ばずに分からない場合

以下詳細な年表
■1215年
ラテラノ公会議で恐惶インノケンティウス3世、十字軍の必要を説く。
■1216年
アルビジョワ十字軍再燃。フランス王、十字軍遠征のための余裕がなくなる。
■1217年
・9月
ハンガリー王アンドラーシュ2世、オーストリア公レオポルト6世、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団他、アッカに集う。
・11月
十字軍、タボル山の城塞を攻撃、攻城兵器を使用せず(できず?)アル=ムアッザムに撃退される。
十字軍、ベルフォート、ベリナス(カエサリア・フィリッピ)に進撃するが再び敗退。
■1218年
・1月
ハンガリー王アンドラーシュ、及びキプロス王ユーグ、陸路で自国へ帰還。
ほどなくユーグがトリポリで没。
トリポリ伯国、ムスリムに破れ休戦(相手はムアッザムか?)
テンプル騎士団を除く十字軍、ベリナスに進軍、要塞を増強。
その後アッカに帰還。
・2~3月
十字軍、今後の方針を巡って会議。
ケルン教会の聖職者オリヴァーが、自ら勧説して回った援軍を引き連れアッカに到着。
・5月
24日 十字軍、アッカから出帆、ダミエッタへ。(現在のダミエッタはルカネディーン・バイバルス時代に再建されたもので、旧ダミエッタはナイルから少し離れていた)
・5~6月
十字軍、ダミエッタ前面に集結。(ドイツ騎士団も参戦していたらしいが、詳細は不明。総長ヘルマン・フォン・ザルツァは少なくともダミエッタ戦の一時期ないし全時期にはダミエッタ包囲に参加していた)
カーミル、アーディルの命を受けダミエッタ付近の港の南に陣を敷く。
ダミエッタ守備隊、港の小島と城壁に鎖を渡し、ナイルを封鎖。(ダミエッタは東と南を細長い沼沢地の帯で囲まれ、北と西では後背地からの恒久的な連絡を確保しているので、大河の制水権を得ている時しか町を効果的に包囲できないため)
・8月
25日 十字軍、大船を二艘括り付け、その上に櫓を建てて攻撃、小島の砦を陥落させる。鎖の封鎖が切れる。
数日後、伝書鳩で砦陥落の報せが届きアーディル没。カーミルが後を継ぐ。
・9月
教皇特使ペラギウス、援軍を引き連れダミエッタ包囲陣へ到着。
■1219年
・2月
クルド人の叛乱。コプト教徒の陰謀。諸侯がカーミルの弟を即位させようとする。(これらに関連があったのかそれぞれ独立した事件なのかは不明)
カーミルは鎖の封鎖が切れた後も敵軍を包囲し大損害を与えることに成功し、包囲の完成を防いだが、急遽ダミエッタ陣をたたみ、諸々の事態に対応するためカイロをを目指す。
・5月
レオポルト帰国。
・10月
カーミル、休戦協定提案のためムアッザムにイェルサレム城壁の破壊を要請(以後、長らくイェルサレムは城壁のない町となる)
カーミル、休戦協定を十字軍に提案(エルサレム及びヨルダン川西のパレスチナ全土、真の十字架を引き渡す)ジャン・ド・ブリエンヌ、チェスター伯レイナルフ、ドイツ人諸将は乗り気だったものの、教皇特使ペラギウス、テンプル・聖ヨハネ両騎士団、イタリア人諸将に拒否される。(拒否の理由にはペラギウスらがフリードリヒ2世の援軍を当てにしていた、プレスター・ジョン到来の噂があった(モンゴルの仄聞が元だと思われる)などいくつかの説がある)
・11月
ダミエッタ陥落。これまでカーミルの弟たち(ムアッザム、ムザッファル他)はエジプトの救援に向かうかシリアに残った十字軍を叩いて後顧の憂いをなくすかを協議していたが、カーミルの再三に渡る要請とダミエッタ陥落の報せを受け、エジプトへ進軍することになる。(領地を離れることに恐れを抱いていたので時間がかかった、と聖職者オリヴァーは書いている)
ダミエッタ陥落にともない、エルサレム王ジャンはダミエッタがエルサレム王国領となるものと考えていたが、教皇特使ペラギウスはダミエッタを教皇領とする意向を示す。怒ったジャン、帰国。

この年、カーミルが至急でエジプト艦隊を増設。
また、アッシジの聖フランチェスコがカーミルの陣営を自ら訪れ、改宗を進めている。カーミルの左右は激昂したが、カーミル本人は微笑しただけだったという。改宗させることには失敗したが、カーミルはフランチェスコにエジプトでの宣教を許し「神が御心に適う法と信仰を示し給うように、余のために祈ってくれ」と話かけ、退出に際しては贈り物をもたせ、護衛をつけて十字軍の陣営に送り返したという。(但し、現存しているアラブの年代記はこの出来事について一言も触れていない)
■1220年
・夏
エジプト新艦隊、キプロス沖で西洋の船団を襲って壊滅させる
カーミル、制海権を奪ったので急いで十字軍に再度休戦を打診(三十年の休戦を付け加える)しかし再び拒否される。
■1221年
・5月
バイエルン公ルートヴィヒ、神聖ローマ帝国軍を引き連れ到着。(皇帝フリードリヒ2世自らは出陣せず)
・7月
エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ、戦線へ復帰。
十字軍、ダミエッタを発ち、陸水両路からカイロを目指す。(補給はナイルを使えば確保できるものと考えていたらしい)
アシュラフとジャズィーラ軍、カーミルのエジプト軍に合流。
ムアッザム、補給線と退路を断つため十字軍とダミエッタの間にシリア軍を率いて割ってはいる。
・8月
18日 ダミエッタ行きの4隻の十字軍の輸送船が拿捕されるかナイルに沈められる。
20日頃 カーミルが密かに船団をナイル上流まで遡らせ、十字軍を追い越し上流で十字軍の船団の行く手を封鎖する。
26日 十字軍、決死の夜襲をかけるが失敗。カーミルが「カリグ」という堤防を切り、十字軍は完全に身動きがとれなくなる。駄荷を消却し撤退開始。撤退に伴い、テンプル騎士団が殿を務める。
ナイルで水上戦力も撤退を始める、が、潮流のためか船足が速すぎ、陸の軍勢と引き離され陸軍に食料の補給をすることが出来ない。パヴァリア公ルートヴィヒ指揮下の船の一隻がはぐれ、エジプト軍に包囲され敵艦一隻を沈めるも火をかけられ乗員全員が戦死。教皇特使ペラギウスの船も拿捕される。
28日 教皇特使ペラギウス、カーミルに和を請う。
30日 ダミエッタの方角から、エジプト軍の前にムアッザム率いるシリア軍が現れる(「当初ムスリムはフランク軍に援軍が到着したと思い、恐怖にかられた。しかしそれがダマスカスのムアッザムの軍勢だったと知り、ムスリムは意を強くしたが十字軍は失望と絶望を味わった」とイブン・アル=アシールは記す)
・9月
6日 ダミエッタ放棄確約のため、十字軍の諸王、諸侯、司教が人質としてカーミルとアシュラフの幕舎に連行される。(面子はイェルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌ、教皇特使ペラギウス、ドイツ騎士団総長ヘルマン・フォン・ザルツァなどを含む20人以上)和平締結、イェルサレムを与えることなど最早問題外。八年間の休戦。
8日 十字軍、ダミエッタを明け渡す。エジプト軍がダミエッタを占拠した途端十字軍の海路援軍が到着するが後の祭り。
プロフィール

鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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