陳興道とモンゴルのベトナム侵攻まとめ

陳興道<チャン・フンダオ>(1228-1300)
本名を陳国峻<チャン・クォクトゥアン>、現在のベトナム北部にあった大越<ダイヴェト>陳朝の将軍。
元朝のクビライが差し向けたモンゴル軍を二度に渡って破り、大越の独立を守り通した。
「兵書要略」「萬劫宗秘伝書」などの兵書の著作がある。

蒙越戦争
第一次(1257年-1258年)
第二次(1284年-1285年)
第三次(1287年-1288年)

三次に渡るモンゴルのベトナム侵攻。
対立したのは北部の陳朝大越国及び南部の後第十二王朝チャンパ王国。


以下詳細
 陳国峻の父の陳柳<チャン・リェウ>(1211-1251)は陳朝初代皇帝太宗<タイトン>(1218-1277)の兄であったが、実権を握っていた叔父、陳守度<チャン・トゥド>(1193-1264)と政治の実権を争い、陳守度の挑発に乗り謀反の兵を挙げるも破られる。太宗の取りなしで罪は不問とされたが、政治的に失脚してしまう。陳柳は死の床で、大越の偉大な指導者となり恥をすすげ(=帝位を簒奪しろ)と陳国峻に遺言したという。

 父の境遇から、始め陳国峻は朝廷と敵対していた。


■第一次侵攻

 1257年、元朝のモンケ・カアンは弟のクビライ(後のクビライ・カアン)に雲南地方の大理国を攻撃させた。大理を服属させたクビライはウリャンカダイ将軍(チンギス・カンの四狗のスベデイの息子)とその子アジュに命じて一度目の大越侵攻を開始した。
 大理・大越への攻撃は、未だ降らぬ南宋に対して包囲網を敷く作戦の一環であった。

 ウリャンカダイから3度降伏を進める使者が来たがその都度皇帝太宗は使者を投獄し、民兵隊を組織、武器を用意した。このとき陳国峻は命じられて北辺の守りを固めた。
 翌年1月、ウリャンカダイ率いる三万の軍が国境を越える(進路は紅河沿いに白鶴<バックハク>(現フート省ヴェトチー)に進み、平源<ビンレグェン>(現ヴィンフク省))。破竹の勢いで進撃するモンゴル軍に衆寡敵せず、陳国峻は山西の守りに徹した。
 太宗は白鶴近くの大河の合流地点で象兵を擁した陣を敷き、橋を破壊し、河を挟んでモンゴル軍と相対した。
 モンゴル軍は将弟アジュの指揮のもと、河を渡りきる。太宗は激しく交戦した後、殿を黎輔陳<レ・フーチャン>(本名は黎秦<レ・タン>)に任せて後退を始め、首都昇竜<タンロン>を引き払いモンゴルに明け渡し、南の天幕<ティエンマク>地方まで紅河を船で撤退した。
 皇帝は今後のことを心配したが、陳守度の「臣の頭はまだ地に落ちておりませぬゆえ、陛下はご心配なさらぬよう」との言葉に勇気づけられ、また別働隊を率いていた後の聖宗、皇太子陳威晃<チャン・ウィ・コァン>も合流し抗戦の続行を決意し、偽の降伏使節を送りつけている。

 ウリャンカダイは首都昇竜を占領したものの、水が合わなかったこと、1月とは言え冬支度のモンゴル人に大越は暑すぎたこと、地元民の抵抗にあったこと、そもそも南宋攻撃のために道を借りるのが目的であるから占領する必要がないこと、などから一月も経たぬ間に国境への引き上げを開始した。
 途端、降伏したと思っていた大越は反抗に転じる。1月29日、東歩頭<ドンボダウ>(現在のハノイ市)で急襲、モンゴル軍を敗走させることに成功。山西に籠っていた陳国峻や、歸化塞の城主だった何俸<ハ・ボン>なども追撃をかけ、モンゴル軍はかなりの損害を出して帰化<クイホア>地方から大越を後にした。

 ウリャンカダイは雲南に帰還した後、大越に再び使者を送り、大越側も勝ちはしたが穏便に済ませたい思いから朝貢するつもりで折衝に入るが、朝貢の条件が問題になり物別れに終わる。
 1258年の正月(旧暦)、太宗は皇太子(聖宗として即位)に帝位を譲り、上皇となる。太宗は撤退戦で殿を務めた黎輔陳を雲南のウリャンカダイのもとへ送り、朝貢が確定する。

 1259年にはウリャンカダイが大越を通って南宋へ進撃、同年にモンケ・カアンが死去し、モンゴルではもめ事が続く(余談だが、この時クビライは早く本土に帰って根回しをするかウリャンカダイを孤立させないためにウリャンカダイを待つか悩んだあげく、待つことにしたという)。

 1262年、カアンとして即位したクビライはナースィルッディーン(大越との朝貢交渉を担当した)をダルガチ(代官)に任命した。以後、ダルガチの権限の強化を巡って陳朝とモンゴルの間で軋轢が続く。
 1264年、クビライ、樺太のギリヤークの要請によって、骨嵬(アイヌ)を討つために遠征軍を派遣。決着の付かぬまま引き上げ。
 1269年、大元のダルガチ張庭珍と太宗との間に典礼の場でもめ事が起こる。クビライはダルガチを「安南の長」に任命しており、位は自分の方が上であり、皇帝は下座にいるべきだと主張した。
 大越は宋と結んでいるが宋はじき滅びるだろうと脅したため(実際すぐ滅びるが)、怒った太宗は衛兵で張庭珍を取り囲んだ。今回は太宗の妥協で事がおさまったものの、この後も何度か問題が起きる。
 

■第二次侵攻

 朝貢以降、クビライの要求はエスカレートしていき、以下の六箇条の要求を陳朝に突きつけるに到る。
(1)国王自らの入朝
(2)国王の子弟を人質とする
(3)戸籍の提示
(4)軍役の負担
(5)税の納入
(6)ダルガチによる統治
 完全に主権を無視した内容であったため、陳朝側は無視、あるいは回答不能とするなど実質上の拒否を表明。朝貢の品を増やすなどして20年ほどのらりくらりと言い逃れる。この間、クビライは日本へ派兵している(文永の役:1274年)

 1278年、礼部尚書柴椿が使者として訪れ、国王の入朝をしない場合武力行使もやむなしとの態度をちらつかせる。最早これ以上の引き延ばしは無理と判断した聖宗は叔父、陳遺愛を派遣。
 クビライは国王自らが入朝していないことを理由に聖宗を国王とは認めない態度を示し、陳遺愛を大越国王に任命してしまう。陳遺愛は驚いて逃げ帰るが、柴椿は軍を進め、陳朝宮廷に騎馬で乗り込み、陳朝に対して様々な非礼を働く。
 この時、既に興道王となっていた陳国峻は、頭を剃り、僧形で柴椿と面会し(というのも元朝では仏僧が尊ばれていたからだが)これを止めるが、柴椿は陳国峻を殺そうとした。部下に陳国峻の後ろに潜んで、陳国峻が立ち上がれば矢を射るように言ったのである。しかし陳国峻は帰る素振りを見せなかったので、仕方なく柴椿は陳国峻を門まで送り殺害を諦めたという。

 1279年、南宋が滅亡。かなりの数の宋人が東南アジアへ移ってきた模様。
 1280年、南ベトナムのヒンズー王国であるチャンパ(占城)のインドラヴァルマン6世が元に朝貢することを決める。
 1281年、クビライ、再度日本へ派兵(弘安の役)

 1282年11月、チャンパ王国のインドラヴァルマンが元との交渉を打ち切り、対元強硬姿勢を明らかにする。
 占城行省左丞の唆都<トアドゥ>(ジャライル部出身)が100艘の船(日本遠征の船を再利用するはずだったのだが、嵐で多くが沈んだためこの数)でチャンパへ向かい、5000の兵で攻撃を開始した。チャンパ王子のジャヤ・シンハヴァルマンの指導で木城を造築、100基の回回三梢砲(ねじり式の投石機で、貿易で栄えていたチャンパはイスラム商人からこれを買い付けていた)を据え付け、立てこもる。また、ジャワのシンガサリ(チャンパの姻戚)、カンボジア、そして陳朝大越にも援軍を要請。
 1283年1月、元軍の陳仲達・劉金らが木城を破り、首都チャバンへ進撃。インドラヴァルマンとジャヤ・シンハヴァルマンは首都を捨て、鴉候山の山中へ逃げる。数日後、インドラヴァルマンは元に降伏して許された。
 しかしジャヤ・シンハヴァルマンは投降するような素振りを見せ時間を稼ぎつつ抵抗。業を煮やしたトアドゥはクビライに援助を要請。
 1283年、クビライはチャンパ攻撃に日本からの生還者を含む1万5000の兵を200艘の船で増援として差し向けた(陳朝に領土を通過させるよう要請するが陳朝側は船団の援助以外を拒否したため。ちなみに200艘の船は三度目の日本遠征に使われるはずだったもの)。しかし港へ入った元軍はチャバンがチャンパ軍に奪還されているのを発見する。元軍は大越との国境付近の烏<ウ>州、里<リイ>州に逼塞していた。援軍を率いてきた万人長のウマルは合流のため船団を北へ向け、船頭たちが停泊を進めるにもかかわらず航海を強行し、嵐にあい多くの船が沈没した。

 1283年10月、陳仁宗<チャン・ニントン>は興道王の陳国峻をして全軍の司令官の任に当たらしめる。
 1284年3月、チャンパの元軍が全て国境外へと追い出されたが、クビライは大越侵攻を決意。
 1284年10月、クビライ、再度の樺太遠征、今回も決着付かず。(ちなみにこの後、樺太のアイヌは三度にわたって大陸へ侵攻して元を悩ませる)
 1284年、陳国峻は「将士への檄」を執筆。
 1285年1月、仁宗は延洪<ジェンホン>会議を開き、各地の長老達を集めて敵を攻撃する方法を話し合った。陳朝は東歩頭で大規模演習を実行し、要所の守備に散らせた。兵士達は皆腕に殺韃(=モンゴルを殺せ)の入れ墨をしていたという。
 同月、元軍、クビライの子のトゴンを主将、万人長チャガンを副将として大越に侵攻開始。大都からの軍勢は20万、途中、宋土で合流した兵は30万、計50万の未曾有の大軍であった。陳朝の再三に渡る外交交渉も失敗に終わり、元軍は国境を越える。トゴンは遠征軍を東路軍(30万、トゴン指揮)と西路軍(20万、チャガン指揮)の二手に分けた。
 陳国峻は北の国境付近で幾たびか元軍の進撃を阻止するもやはり衆寡敵せず萬劫<ヴァンキエプ>(現ハイズオン省チーリン)まで撤兵、そこで20万の兵を集結させた。
 仁宗は撤兵をせざるを得なかった状況を聞き不安になり、食べるものも食べず陳国峻に会いに行き言った。「敵は優勢だ。これに抵抗するのは無駄に国民に不幸をもたらすだけではないか。降伏しようと思う」。しかし陳国峻はこれを諫めた。「陛下の仰せはもとより人道の合するところ。しかしそうならば先ず臣の首を断ち、然かるのちに降られるべし。私が健在であるかぎり、大越は滅びません」。この言葉に励まされ、仁宗は抗戦の続行を決意した。
 トゴンが万劫に進軍するにあたり、陳国峻と仁宗は昇竜まで撤退。首都の人々に焦土戦術のための「清野(食料などを残らず運び出す)」を命令し、さらに南方の天長<ティエンチュオン>(現ナムディン県)、清化<タインホア>まで撤退した。
 元軍は残った守備隊を蹴散らし大越の首都昇竜を再び陥落させた。この時、陳平仲<チャン・ビンチョン>将軍は敗れて捕虜となった。元の将軍は彼の勇気を称え帰順を進め馳走でもてなしたが、彼は一切の食事を断った。元の将軍が「卿は北国の王たらんを欲せぬか」とたずねたところ彼は「北国の王たらんより、南国の悪鬼たらんことを欲す。捕らえられた以上運命は汝の掌中。意のままになされよ。最早問答は無用」と答えたという。元の将軍は怒り、彼の首を切った。
 降伏する者も相次ぎ、王族の陳益稷<チャン・イックタック>は元によって安南国王に任じられた。
 さらにこの時、トアドゥが別働隊50万を率い、雲南から迂回作戦をとり、ラオを経由、チャンパに到り、ここから北転して南からの挟撃の構えを見せた。
 しかし短時間で片が付くと踏んでいた元軍は、ゲリラ戦によって長引く戦いのための食料が調達できず、三ヶ月ほどで深刻な食糧不足に陥る。
 5月、陳国峻は紅河デルタで善戦し、元軍をデルタ北方まで撤退させ、元軍を破る。また海から侵入した元の船団も退け首都昇竜を奪回。
 元の総管張顕は降伏、トアドゥは戦死、ウマルは逃走。仁宗は首都に帰還した。ここに、二度目の元の侵攻は終わる。
 1286年、陳朝は五万人の捕虜を国に返した。


■第三次侵攻

 クビライは三度目の日本侵攻を実行に移そうとしていたが、重臣達の反対にあい(というのもイスラム商人たちと組んでいた重臣達は海のシルクロードを押さえた方が実入りがいいと考えていた)ヴェトナムに三度目の侵攻をすることになる。
 1286年、クビライは号令を発す。兵糧不足の経験を踏まえ、新造艦500隻を建造し食糧輸送を行う。輸送船団の指揮官は張文虎が執った。
 1287年12月、トゴン率いる元軍30万が国境を越え、諒山<ランソン>、北江<バクザン>に攻め入った。
 陳国峻は平地での会戦を避け、要害や隘路での戦いを重ね、萬劫とドゥオン河流域の数カ所に軍を後退させ、敵が首都昇竜に入るのを阻止した。
 1288年1月、トゴンは自ら萬劫を攻め、これを占領、陣地を築く。同時期、張文虎の輸送船団の護衛を任じられていたにもかかわらず、ウマルが陳国峻に対し息巻き、船団を率いて白藤江<バクダンザン>を遡り、萬劫でトゴンと合流した。
 陳慶餘<チャン・カインズー>はウマルの船団が通り過ぎるてから輸送船団を待ち受け、輸送船団が雲屯<ヴァンドン>を通過した途端、各方面から襲いかかり、多くを沈めるか拿捕した。
 1月末、トゴンは昇竜を占領したが、今回も焦土作戦のための清野が実行されており、もぬけの殻であった。
 ウマルはトゴンの命を受け、陳朝の皇帝仁宗と上皇聖宗を捜すが失敗。トゴンは怒り、陳太宗の墓を掘り起こしたという。
 元軍はまたしても食糧不足に陥り、昇竜で孤立することを畏れたトゴンは陣地を築いていた萬劫への撤退を開始した。
 萬劫からトゴンは水路と陸路の二手に分れて撤退することを決めた。

 これを好機と見た陳国峻は、范五老<ファム・グラオ>将軍に諒山付近での待ち伏せを命じ、自らも白藤江で待ち伏せを行う。支流の底に杭を立てておき、潮位が低くなると大型船は杭に引っかかって動けなくなるという罠を仕掛けた。
 ウマルは陳朝の軽船におびきよせられ支流に入る。潮位が下がったころを見計らって陳国峻は攻撃に出た。逃げようとする元の船が杭に次々と突っ込み、陳朝の火船が元軍の船に火を付け、殆どの船が沈没。
 ウマルは生け捕りになった。

 一方、トゴンが指揮した陸軍は萬劫から諒山の方向へ撤退し、広西に逃げ帰った。途中、范五老のゲリラに対してかなりの損害を出したという。


■その後

 陳朝は元を撃退後、すぐさま朝貢の使節を元に送り、1289年、元の将兵を送り返した(ちなみにウマルは一緒に送り返されるはずだったが欺かれ、船底に穴を空けられて水死した)。
 1293年、元はまたもや陳朝に対して元帝への拝謁を命じたが、仁宗は病気と偽って代わりの使節を送った。元は使節を抑留し、四度目のベトナム侵攻を準備しはじめようとしたが、翌年正月のクビライの死によって出兵は取りやめになった。
 陳興道はベトナムで大地震のあった1300年に亡くなる。皇帝、陳英宗<チャン・アイントン>は死を惜しみ、陳興道の臨終に立ち会い、彼に尋ねた。「再び北から侵略があればどうすればよいのか」。陳国峻はこう答えた。「北方の敵は数を頼む。これに抗するにはしぶとくまた一気に敵を攻撃することです。これは我々の能力によります。また、敵が一挙に無茶に進撃するようなら、彼らを撃滅することはたやすいでしょう。しかし、敵が辛抱強く、手順をじっくりと進めてきたら、また略奪もせず、勝利を急いでいなければ、我々はもっともすぐれた将軍を選び、将棋を戦うようにもっとも効果的な戦術を選び戦うべきでしょう。軍隊は親子のように心を一つにしなければなりません。民衆にはこころやさしく接しなければなりません。民衆の力を育まなくてはなりません。山奥の道をうがち、永続的な砦を建設するように、です」。
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鉄勒京二

Author:鉄勒京二
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