月の沙漠をはるばると―人とラクダとイスラームと―

 人を運び、ものを運び、時には戦場を走り、一生をともにする人間の相棒――と、言うと、おおかたの人は馬を思い浮かべることでしょう。時に、荷物や人を乗せた車を引くだけならば牛が使われたりしますが、背中を人にあずけて颯爽と駆けるのは牛には無理というものです。象も軍事的にきわめて優秀な動物ですが、象は野生のものを飼いならすことはできても、実用に耐えるレベルで人間が繁殖させることはできていません*1。トナカイやリャマ・アルパカも似たような利用がされますが*2*3、馬ほど広域で利用されることはありませんでした。しかしながら、軍事・運搬に関して馬に匹敵する重要性を持つ獣がいます。それが今回のテーマ、ラクダです。

 モンゴル史研究者の杉山正明氏が繰り返し強調しているように、遊牧民の騎馬軍事力は、海上軍事が発達する以前の時代においては極めて強力でした*4。一方、ラクダの軍事的な活躍は馬ほどの広域に渡る地域におけるものではないものの、時に馬とともにすさまじい征服活動の駆動力ともなります。ラクダ遊牧民の中で、ラクダを戦闘用に利用したのはアラブ人のみですが*5、イスラーム勢力の勃興からウマイヤ朝盛期にいたるまでのいわゆる「大征服」では、ラクダが馬とともに一翼を担ったことが伺えます(なお、西アジアに生息するのはヒトコブラクダで、中央アジアにはフタコブラクダが生息しています)。
 また、軍事的には前線の戦闘だけに注目しがちですが、ロジスティクス、すなわち輜重・補給などが極めて重要であることは軍事学の常識です。後に紹介するラクダの運搬力は、その意味で軍事的にきわめて優秀であったと言っていいでしょう。さらに言えば、西アジア史上、沙漠を突っ切っての強行による奇襲という戦術がしばしば用いられますが、これはタフなラクダ騎兵の存在あればこそ可能なのであり、騎馬兵のみでは不可能であったでしょう。

 さて、戦闘でも馬ほどではないにしろ役立つラクダですが、ラクダの本領はその運搬力と走破性、耐久力にあると言えます。
 以下に紹介するのは、スレイマン大帝期にハプスブルク家からオスマン帝国に派遣され、使節として滞在していたビュスベックの書簡です。

「私は七頭の雌ラクダを持っている。荷運びのために買ったのだが、実際のところは我が君にこの動物を献上し、その便利さを知って頂いて、この類の動物を飼育してもらうのが目的だった。
 私見では、穀物のうちでは稲、駄獣のうちではラクダからトルコ人は多大な益を得ている。この二つはともに彼らが行う遠征に極めて適しているのだ。米は劣化せず衛生的な食物であるし、少しの量で大人数の腹を満たすことができる。ラクダはかなりの重量の荷を運べる上、空腹と渇きに耐え、さして世話に手間がかからない。一人の先導者がいれば六頭のラクダを引き連れるに十分で、これ以上しつけのたやすい動物はいないだろう。
 ラクダは毛を梳いてやったりこすってやったりしなくとも、洋服のようにブラシをかけてやるだけで綺麗になる。
 ラクダは寝転ぶ時――より正確に言うならば、地面に膝をつく時――荷物を背負ったままで問題がない。もし荷物の重さがラクダの限界を超えた場合、ラクダは鳴き声を挙げて立ち上がることを拒否する。
 ラクダは頭が良いが、しかしながら特に道がぬかるんでいたり滑りやすかったりする場合、ラクダは怪我をしやすい。
 ラクダたちが輪になって頭を近づけ仲良さそうに、少ない量でも同じ水桶や飼い葉桶から水を呑んだりまぐさを食べたりしているのを見るのは楽しいものだ。
(中略)
 スルタンは遠征に出る時、四万頭ものラクダと、ほぼ同数の荷ラバを準備する。目的地がペルシアであれば、その大部分はあらゆる種類の穀物――特に米――を積む。ラバとラクダはテントと武器、攻城兵器やその他あらゆる道具も運ぶ」*6

 ラクダと一緒に米の重要性が強調されているのも興味深いところですが、西アジアの米については別の機会に譲るとして、ビュスベックが報告しているラクダの特徴について考えてみましょう。
 ラクダの最大積載重量については19世紀フランス人探検家ルネ・カイエの旅行記に詳しい記録があります。彼は自分が幼少時にヨーロッパ人にさらわれたアラブ人であり、ヨーロッパ人から逃れて故郷に帰るのだと称してサハラ交易隊に単身同行しました。彼が随行した1400頭の大キャラバンでは、ラクダ一頭につき250kgの積み荷を背負っていたといいますから*7*8、単純計算で350トンの荷を運んでいたことになります。食料や水も必要なので全てが商品ではないでしょうが、ラクダ交易のスケールの大きさが分かるのではないでしょうか。カイエによると、このラクダ1400頭のキャラバンに随行する人の数は400人。一人平均3.5頭のラクダが割り当てられることになります。ラクダを先導する人ばかりではなかったでしょうから、一人およそ4頭先導していたと見ていいと考えます。ビュスベックの報告にある一人6頭ほどではないにしろ、先導が容易であるということは見て取れるでしょう。
 預言者ムハンマド存命中から1000頭のキャラバンが編成されていた記録もあるので、かなり早い段階から大規模キャラバンは存在していたようです*9
 ラクダのタフさについては水を必要としないことも重要です。気温が30~35度でも10~15日間は水を飲まずにいられるといいます*10

 嶋田義仁氏は著書『沙漠と文明』の中で、中心乾燥地文明を馬の卓越する冷帯草原型文明と、ラクダの卓越する熱帯砂漠型文明の二つに分類しています。軍事的に卓越する冷帯草原型文明は、モンゴル帝国を筆頭に広大な帝国を築き上げることができました。
 一方、熱帯砂漠型文明は、ラクダの移動力・運搬力によって大商業文明と商業的都市文明を形成する傾向がある、としています。イスラーム勢力勃興期のヒジャーズ地方はもとより、サハラ砂漠にさえ長距離交易網がはりめぐらされ、中継地点であるオアシスは交易イスラーム都市として栄えました*11
 イスラームはかつて砂漠の宗教であると言われ、ここ最近は都市・商人の宗教としての性格が強調されています。小杉泰氏はこの二者に農村性を組み合わせた三項でイスラーム文明を読み解いています*12
 このうち二つ、砂漠性は言うに及ばず、都市性についても嶋田氏の指摘するとおりラクダの貢献が大きいのだとすれば、イスラーム文明が成立した背景の重要な部分はラクダが関わっていたことになります。
 イスラームの象徴として月が用いられることがありますが(トルコやチュニジア、パキスタン等の国旗にも用いられています)、まさに、月はラクダが街から街へと砂漠を進むとともに中天へ昇ってゆくのでありました。

*1 ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』文庫版上巻 pp.293-4
*2 「トジャの人々にとってトナカイの主な利用法は乗用と牽引用である。(中略)ちょうど馬につけるようなぐあいに背に鞍をのせる」(メンヒェン=ヘルフェン『トゥバ紀行』 p.75)。モンゴルの少数民族トゥバ人に属するツァータンと呼ばれる人々は、トナカイ遊牧民として知られている。詳しくは稲村哲也『遊牧・移牧・定牧』 pp.45-100
*3 リャマ・アルパカの利用ついては稲村前掲書 pp.247-292
*4 杉山正明『遊牧民から見た世界史 増補版』 pp.42-43等
*5 堀内勝「ラクダ」『新イスラム事典』
*6 The Turkish Letters of Ogier Ghiselin de Busbecq pp.108-9 より重訳
*7 嶋田義仁『砂漠と文明』 p.71 なお、嶋田氏によると嶋田氏自身が得ているラクダの載積基準量はこの半分であるという
*8 一方、遊牧民の利用するラクダに関しては最大150kg、短距離であれば300kgという(小杉泰『イスラーム 文明と国家の形成』 p.79)
*9 小杉前掲書 p.94
*10 小杉前掲書 p.79
*11 嶋田前掲書 pp.201-202
*12 小杉前掲書 pp.90-101



 稲村哲也『遊牧・移牧・定牧』は、モンゴル・チベット・ヒマラヤ、さらにはアンデスも加えた牧民たちの実態に迫った研究書である。著者の35年に渡るフィールドワークの成果が存分に示されている。西アジア・北アフリカのラクダ遊牧民については対象外であるが、牧民について考える上では必読書であろう。
 ヘルフェン『トゥバ紀行』は1929年、わずかな間だけ独立国であったトゥバを調査したヘルフェンが記した旅行記である。文化的な記録だけでなく、彼らの政治的な状況についても記述がある。
 ビュスベックの書簡は英訳(The Turkish Letters of Ogier Ghiselin de Busbecq)がある。スレイマン大帝時代後期のオスマン帝国の実態についてヨーロッパ側の視点で報告した貴重な史料である。
 グローバルヒストリーにおける家畜の重要性についてはジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』

名は体を表さず?―中世東西アジアのラカブと官途受領名―

 世間は大学入試の時期ですが、高校世界史でムスリム人名に「イブン・○○」が頻出して辟易した人は多いと思います。あれは「ナサブ」と言って「誰々の息子(あるいは子孫)」を表すものです。例えば、「イブン・ハルドゥーン」なら「ハルドゥーンの子孫」の意で、事実上の苗字のようなものです。
 ムスリム人名の構成要素は他にイスム(本人の名前)、ニスバ(出身地など)、ラカブ(綽名・尊称)、クンヤなどがあります。
 クンヤは「アブー・○○」=「○○の父」、「ウンム・○○」=「○○の母」の形を取り、基本的に○○には長男の名前が入ります。ただし、クンヤは人物の綽名に使われることもあり、初代正統カリフ「アブー・バクル」は「ラクダの親父」、つまりラクダのような人の意になり、猫好きで知られる教友「アブー・フライラ」は「子猫の親父」、つまりにゃんこ親父くらいの意になります。

 さて、今回の主題はラカブの話。
 有名どころで言えば、アイユーブ朝のスルターン、サラーフッディーン(サラディン)がラカブで知らている人物でしょう。分解すると「サラーフ・アル=ディーン」となり「信仰(宗教)の救い」の意になります。「サラーフ」が「救い」で「ディーン」が「信仰」、「アル」は定冠詞なので英語の「the」と同じようなものだと思ってください。尊称としてのラカブは、カリフや支配者から与えられるものでした。
 サラディンは言うまでもなく武人でした。ところが実は「○○ディーン」系統のラカブは、サラディンよりもっと早い時代には武人のものではありませんでした。セルジューク朝の名宰相、ニザーム・アル=ムルクは著書『統治の書』で「ラカブはその人物にふさわしいものでなければならない」と述べた後、以下のような基準を示しています*1
 カーディーやイマーム、ウラマーなどの宗教指導者層のラカブは「○○ディーン」系、「○○イスラーム」系、「○○スンナ」系、「○○シャリーア」系、「○○ウラマー」系である。
 同様に、文武の高官には「○○ダウラ」系のラカブを、徴税官や行政官には「○○ムルク」系のラカブを用いるべきである。
 ニザームが示す基準に従うのであれば、「○○ディーン」系のラカブは本来武人が用いてはならないということになります。実際、ニザームは「ウラマーでもないのにこれらのラカブを帯びる者については、それが誰であれ、帝王や見識を持つ人々がそれを許すことなく、その者を処罰しなければならない」と述べています。
 とは言え、サラディンの上司ヌールッディーンや舅のウヌル(ムイーヌッディーン)、父アイユーブ(ナジュムッディーン)などの武人層が「○○ディーン」系のラカブを使っていることを見るに、ほぼこの基準はサラディンの時代までに有名無実化していたようです。
 イブン・ジュバイルが「この種の偽の尊称が果てしなく唱えられるのを聞かされるのである」と『旅行記』で嘆いていますが*2、ダマスカスの葬儀では、葬儀の世話役たちが街の貴顕や名士たちが弔問のため到着するたび「○○ディーン」系のラカブで呼ばわるという手順があったといいます(流石にここで呼ばわれたラカブを通称として使う人はいなかったと思いますが)。

 ここで思い出すのが日本史、とくに中世後期における官途受領名。受領名というのは「○○守」「○○介」という地方官の名前です。当該時期の武家は、自分が持っていた受領名の土地とは全く無縁のことが多かったといいます。例えば真田昌幸は「安房守」ですが、本人は信濃の国衆なので当然のこと安房とは何の関係もありません。武士たちは本名を呼ぶことを避けることと、ステータスを示すために官途受領名を名乗っていたそうです。
 実態を伴っていないので、同じ受領名を持つ人物が複数いても一切問題なく、実際、真田昌幸と同じ安房守を同時期に北条氏邦が名乗っていたりします。
 ただし、同一の姓かつ同一官途受領名になってしまうと、官途受領名を本名の代わりに名乗るわけですから、個人の識別がつかなくなってしまうので、同一姓同一官途受領名は避けられていたとのこと。
 本来、官途受領名も朝廷から与えられるものだったわけですが、時代が下ると大名が国衆や家中の武士に与えたり、果てには自称まで横行したりとかなりいい加減な運用になっていた模様です*3

 尊称としてのラカブにしろ官途受領名にしろ、もともとは公権威者から許可を得て使うものだったはずが、いつの間にかちょっとしたステータスは伴うものの個人の識別子に成り下がり(ニザームもラカブは個人の識別に便利である旨書いています)、乱発されるようになってしまいます。
 西アジアと日本という離れた土地ですが、似たような話はあるものだなあ、というお話でした。

*1ニザーム・アルムルク 『統治の書』 p.200
*2 イブン・ジュバイル『イブン・ジュバイルの旅行記』 p.405
*3 以上日本中世の官途受領名については全て小和田哲男「今川義元はなぜ三河守か?――武士と官途受領名」『増補改訂版 日本史に出てくる官職と官位のことがわかる本』


食うものと食われるもの、記録しようと狙うもの―西アジア史食事情―

 以前、せんだい歴史学CafeさんのUstream放送で「突撃!レキシの晩御飯!」という放送回がありました。大谷さんの「究極のメニュー -ローマ皇帝風A定食-」のお話を聞いていて、面白いなあと思いつつ、そう言えば西アジアの理想的な食のあり方ってどんなものだっただろう、と気に留めつつはや一年以上。ちょっと手元にいくつか面白いネタがあるので半分は備忘録も兼ねて紹介したいと思います。今回の軸は(素材が)贅沢か質素かではなく単に質量です。

 まずはローマ皇帝の食事についてかいつまんで復習。メイン史料は『ローマ皇帝群像』こと『ヒストリア・アウグスタ』です。対比しやすい人物をひとまずピックアップしましょう。
 アルビヌス帝(位:196-7)について、「アルビヌスは大食漢であり、人間の限界を越えるほどの大量の果物を消費していた。(中略)空腹の時にアルビヌスは、ギリシア人がカリストルティアエと呼んでいる乾燥無花果を500個、カンパニア地方の桃を100個、オスティアのメロンを10個、ラビクムのブドウを10ポンドゥス、鳥を100羽、牡蠣を400個食べたのであった」*1と『皇帝群像』は述べています。
 モンタナーリ『食の歴史』を引く井上文則先生の分析を取るならば、ローマ皇帝は質素な食事を取るべきで、贅沢を戒めるべきという思想が『皇帝群像』には顕著なようです。また、肉よりも野菜の方が好まれ、野菜や穀物など人の手が加わって栽培されたものこそ文明的な食であるというイデオロギーの存在も指摘されています。要するに(3~4世紀以降の観念では)「悪帝」は肉の多い贅沢な食事を取り、「善帝」は野菜メインの質素な食事を取る、ということになります*2。アルビヌスが悪帝カテゴリに入るかどうかは微妙なところですが、ともかく、これを一端頭に入れておきましょう。

 さて、翻って中世アラブ世界。
 よく知られている人物のひとりですが、実は大食いの逸話があったのか、というのがこの人、ウマイヤ朝初代カリフのムアーウィヤ。以下はイブン・アッティクタカーの述べる彼の大食いの様子。
「また次のようにも伝えられている。焼いた仔牛一頭が彼のために調理されたが、彼はこれと一皿の漂白パンと四個のケーキと、炊きたての仔山羊一頭とその他各種の料理をことごとくたいらげた。ついで100ラトルの野菜が給仕されると、これも食べてしまった」*3
 なお、1ラトルは地域によって差もありますが、どれだけ少なく見積もっても500グラム弱です。イブン・アッティクタカー曰く、ムアーウィヤは寛大で忍耐強かったものの、こと食べ物に関してだけは貪欲で吝嗇だったとのこと。
 一日五回の食事を取り、最後の一回が最も豪華だったようですが、その最後の食事を終えて小姓に片付けをさせる際に「片付けるがよい。実のところ満腹とはいかぬが、疲れたによって」などと言っています。
 また、サラディンの弟でスルタンにもなったアーディルについて、マクリーズィーはこう伝えています。
「彼の食欲は飽くことを知らず、焼いた羊まるまる一頭を彼一人で平らげることができた」*4
 マクリーズィーはアーディルに対してはそこそこ好意的ですが、即位してからは贅沢三昧だったことも伝えています。
 いずれも常人には不可能な大食いなので、著者たちの意図なのか、著者たちの時代までに自然とついた尾ひれなのかはともかく、創作である(少なくとも誇張である)ことは確かです。それにしても、どういう理由があったのでしょうか。ムアーウィヤにしろアーディルにしろ、権謀術策を駆使して国盗りの道を成り上がったという暗い側面がある一方、他者に寛容・寛大で彼らの治世に国は繁栄したという明るい面もあります。これだけでは判断しかねるのですが、イスラームの文脈を押さえたとき、基本的にハディースは食べ過ぎを戒め、質素で禁欲的な食事を良しとします*5
 例えば、ティルミズィーが収集したハディースに以下のようなものがあります。
「二人分の食事は三人に十分であり、三人分の食事は四人に十分である」
 ということは、これはやはりローマ皇帝の場合と同じく、上の逸話は二人を非難する文脈と読むべきなのでしょう(とは言え、先にも書いた通り、イブン・アッティクタカーもマクリーズィーも、二人の長所も述べているので、数ある長所短所のうちの一つ、といったところでしょうか)。

 面白いのは、同じ西アジアでもイランでは大食いに関して、肯定的な評価が見られるということです。取り上げるのは『王書』こと『シャー・ナーメ』、対象は言わずと知れた英雄ロスタム。
 まずはロスタムが生まれた場面。
「10人の乳母がロスタムに乳を与えるが、乳は男の力であり実質をつくるもの。離乳期にはいって食べはじめると、食事はパンと肉で大人の五人分を平らげて、この子の食事の世話は疲れ果てる」*6
 食べ盛りにもほどがあるだろう、という話ですが、成長してからも彼は食べます。
 ロスタムは狩りを行い、多くの獣をしとめると、「手頃な木をえらび焼き串をつくって一頭の野生ロバを刺し通すが、ロスタムの手にかかればそれは鳥の羽根ほどの重さもない。ロバが焼けると、肉を切り分けてたべ、骨を折り割いて髄をすする」*7
 文字通り、骨の髄までしゃぶる、といったところでしょうか。英雄はワイルドに食うというイメージがあるようです。

 なんにせよ、どちらかと言えば食事というのはプライベートの領域に属する話で(むろん饗宴などもあるわけですが)、それをあれこれ評され、場合によっては尾ひれとして話が膨らんだりするのも、政治家というのは大変だなあとは思うのでありました。

*1 アエリウス・スパルティアヌス『ローマ皇帝群像』2巻 p.182
*2 井上文則「ローマ皇帝たちの食卓-『ヒストリア・アウグスタ』に見る-」『食文化-歴史と民族の饗宴』
*3 イブン・アッティクタカー『アルファフリー』1巻 p.221
*4 Maqrizi , A History of the Ayyubid Sultans of Egypt , p.170 より重訳。
*5 鈴木貴久子「食事」『新イスラム辞典』 pp.283-4
*6 岡田訳『王書』 p.188
*7 岡田訳『王書』 p.212

ムアーウィヤに関しては、ムスリム・イブン・アル=ハッジャージュが収集したハディース集『サヒーフ』に以下のようなものもある。
「イブン・アッバースは次のように伝えている
私が子供達と一緒に遊んでいると、アッラーの使徒がやって来たので私はドアの後ろに隠れました。
しかし彼は(どんどん)やって来て私の肩を軽くたたくと「行ってムアーウィヤを呼んできなさい」と言いました。
こうして私は行って戻って来て「彼(ムアーウィヤ)は食事中です」と言いました。
すると彼はまた私に「行ってムアーウィヤを呼んできなさい」と言いました。
そこで私は行って戻って来ると「彼は食事中です」と伝えました。
すると彼は「アッラーが彼の腹を決して満腹にしないように」と言いました」
これが誇張された可能性もあるだろう。
なお、訳は日本ムスリム協会版による。



『王書』は東洋文庫版(黒柳恒雄訳)と岩波文庫版(岡田恵美子訳)がある。いずれも抄訳ではあるが、東洋文庫版はソフラーブの巻、ビージャンとマニージェの巻およびロスタムとシャガードの巻は原典の全訳。岩波文庫版はコンパクトで、ハイライトを抽出しており、また訳されていない部分もダイジェストとしてあらすじがついていて概観するには便利。文章は岩波文庫版の方が読みやすい。

アイユーブ―表裏比興の男―

 ここのところ世間は真田信繁(幸村)で湧いています。真田家と言えば、機を見るに敏で寝返り移り身を繰り返し、生き馬の目を抜く戦国時代にあって国衆から見事近世大名にまで成り上がった一族です。中でも信繁の父である真田昌幸は、仕えていた武田家が滅亡した後の天正壬午の乱の時期をかわぎりに、僅か三年ほどの間に織田、上杉、北条、徳川、再び上杉と主君を変えており、なかなかの世渡り上手であったことが伺えます。秀吉は、この世渡り上手を表裏があって信用できないとみなし、「表裏比興の者」と評しました。

 ところで、セルジューク朝(特に西部)が分解しつつあった十字軍時代の西アジアにおいても、寝返りを繰り返して生き残り、最終的に王朝にその名を冠せしめることになる人物がいました。他でもないサラディンの父、アイユーブです。
 もともとアイユーブ一家はクルド系の住民が多いアルメニアの都市、ドヴィーン出身のクルド人でしたが、アイユーブの父シャージーの代にシャージーの旧知の友人、ビフルーズの伝手でセルジューク朝に仕官し、ティクリートの城代を務めていました。アイユーブは父の職掌を引き継ぎ、ティクリートを治めています。
 しかしながら、時代には既に動乱の機運が漂い始めていました。イラク北部やシリアでは分封されたセルジューク朝の幼少の王子たちを後見していたアタベクたちが半独立(ザンギー朝、ブーリー朝など)。バグダードでは長らく実権を奪われていたアッバース朝カリフが軍事指揮権を回復し、直轄支配地の拡大に乗り出します。
 アイユーブは、当時イラク北部を二分する勢力であったザンギー朝とアッバース朝の間にあり、アッバース朝に敗れて追われていたザンギー朝初代アタベク、イマードゥッディーン・ザンギーの逃亡に手を貸します。
 数年後、事情があってティクリートを離れざるを得なくなったアイユーブはこの時の縁を頼ってザンギーのもとへ転がり込みますが、これが彼の変転の経歴の始まりでした。
 ザンギーはシリア北方のアレッポを拠点とし、シリア南方のブーリー朝のウヌル治めるダマスカスと度重なる勢力争いを繰り広げていました。アイユーブはザンギーのもとでウヌルから奪ったシリアの都市、バールベクを任されますが、ちょうど武田信玄が上杉謙信と勢力争いを繰り広げていた前線である川中島の押さえを、真田幸綱が任されたようなものでしょう。

 ところが、ザンギーは四方への快進撃の最中、子飼いの奴隷に酒の諍いで殺されてしまいます。天正壬午の乱ほどでは無いにしろ、ザンギーの旧領も南方のウヌルの侵攻、本拠奪還を狙うエデッサ伯国の扇動、ザンギー朝からの独立を狙うアルトゥク朝の離反などにより混乱し、二つの拠点であったモスルとアレッポもザンギーの二人の息子、サイフッディーンとヌールッディーンの間で分割されました。
 この時、一度目の寝返りとしてアイユーブは仕官先をウヌルに変え、弟シールクーフはヌールッディーンに仕えさせています。家を割って存続を図るのは真田家でもしばしば見られましたが、アイユーブの場合はどちらかが滅びるということはなく、後年アイユーブはシールクーフと再開を果たすことになります。

 ウヌルに仕官し、いくつかの村落を得てダマスカスに移住したアイユーブは、あまり行動がはっきりしないもののウヌルに仕え、第二回十字軍の侵攻の際には息子シャーハンシャーが防衛戦で戦死しています*1。また、ウヌルとヌールッディーンがザンギー時代の方針を転換し同盟を結んだため、兄弟相討つ可能性はほぼなくなりました。
 しかし、ウヌルが死ぬとアイユーブは二度目の寝返りを準備しはじめ、ヌールッディーンに仕えていたシールクーフと連絡を取り、ヌールッディーンに有利になるようダマスカス市内で工作を始めました。最終的にアイユーブは民兵組織の好意的中立を取り付けることに成功しますが、この民兵の指揮を執っていたのはダマスカスの歴史家イブン・アル=カラーニシーの兄弟でした。
 イブン・アル=カラーニシーは兄弟を通してアイユーブを知っていた可能性があり、アイユーブを以下のように評しています。すなわち、「決断力と知性、それに状況への対応能力に優れていることで知られている男」である、と*2。アイユーブの評価には、彼の息子サラディンがエジプトのスルタンになったこともあり、過大評価される可能性がありますが、イブン・アル=カラーニシーが死去したのは1160年で、彼はサラディンがエジプトの支配者になるということを知りません。その点、アイユーブの評価として知っておくに足ると言えるでしょう。
 ヌールッディーンは自身の計略とアイユーブの協力もありダマスカスを無血で接収。アイユーブはヌールッディーンのもとでも重用されるようになります。ヌールッディーンの御前でも唯一彼のみがヌールッディーンの許可を得ずとも着席することを許されていたといいます。普通であれば、アイユーブはヌールッディーンの重臣として生涯を終えたでしょう。しかし、彼の前には三度目の離反の機会が待っていました。

 よく知られているように、アイユーブの息子サラディンはヌールッディーンの命によりエジプト遠征に派遣され、エジプトで独立を果たすことになります。アイユーブはヌールッディーンとの直接対決は避けながらもエジプトをヌールッディーンの影響下から切り離そうとするサラディンをよく支えました。イブン・アル=アシールによると、彼は主戦派を宥めながらもこっそりとサラディンにこう語っています。「神にかけて、もしヌールッディーン公が例えエジプトのサトウキビ一本にでも手を出してみろ、私は死ぬまで戦うだろう」*3

 真田家は信州の故郷を守るために寝返りを繰り返しましたが、アイユーブ家は(少なくともアイユーブ本人は)領地を転々とし、必ずしも土地には執着を示しませんでした。都市化していたとは言え、山岳遊牧民であるクルドの価値観が影響しているのかもしれません。
 この表裏比興の男、アイユーブの最後は、落馬による事故死というあっけないものでした。裏切り・離反を繰り返したとは言え、息子がサラディンであるためか、あるいは本人の人望か、そこのことを非難するアイユーブ評は、意外なことにあまり見られないのではありました。

*1 Eddé SALADIN p.24
*2 Ibn al-Qalanisi The Damascus chronicle of the crusades p.273 より重訳
*3 Ibn al-Athir The Chronicle of Ibn Al-Athir for the Crusading Period from al-Kamil Fi'l-ta'rikh part.2 p.200 より重訳



 真田昌幸については古くは人物叢書の柴辻俊六『真田昌幸』が定番であったが、ここのところ良書の出版が相次いでいる。さしあたり価格が手頃で内容も詳しい丸島和洋『真田四代と信繁』を挙げておく。
 アイユーブについては専門に扱った書籍は無いが、サラディン関連のものに記述がある。邦語では佐藤次高『イスラームの「英雄」サラディン』とアミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』。英語ではEddé SALADIN
 原典には英訳のあるものがあり、イブン・アル=アシールとイブン・アル=カラーニシーはそれぞれD.S.RichardsとH.A.R.Gibbが訳している(ただしイブン・アル=カラーニシーは抄訳)。

クルアーン異聞―聖典異本伝―

 少し前にバーミンガム大学所蔵のクルアーンが、年代測定によって現存する最古のものであると確認されたことがニュースになりました*1。預言者ムハンマド存命中のものである可能性もあるとのことですが、何がそんなにビッグニュースであったかというと、そもそも書物としてクルアーンがまとめられたのは、ムハンマドの死後20年経ってから、第三代カリフ、ウスマーンの命によるものだとされてきたからです。
 それまで、クルアーンは部分的に書き留められた他、主にハーフィズ(クルアーン暗誦者)によって引き継がれていましたが、戦争でのハーフィズたちの戦死や、領土の広がりに伴い、クルアーンを書物としてまとめる必要が出てきました。ウスマーンはクルアーンを冊子の形にまとめることを命じ、編纂作業がはじまります。書物の形にまとめられたクルアーンを「ムスハフ」といいますが、この時、ウスマーン版以外のムスハフは全て焼却されたことになっています。そのため、現在世界で流通しているクルアーンは全てウスマーン版に基づき、例外はありません。
 ところが今回出てきたクルアーンは、ムハンマド存命中のものである可能性があるといいます。これは、クルアーン成立史に何がしかの示唆を与えてくれる可能性があるわけです。

 さて、枕が長くなりましたが本題、中世に存在した非ウスマーン版のクルアーンの話です。聖典の異本というと、少し眉唾ではないかと疑いたくなる話ですが、実際、これを伝えているイブン・アン=ナディームも半信半疑のようです。概要は以下のとおり。
 ムハンマドの直弟子であったアブドゥッラー・イブン・マスウードは独自にムスハフを編纂しており、ウスマーン版のクルアーンが作られる時、これに抵抗を示したと伝えられる。というのも、彼はハーフィズの一人で、またムハンマドが指名したクルアーン読誦の師範の一人であり、要するに、最初期のクルアーンの権威であったからだ(なお彼、『諸国征服史』などを読んでいるとイスナードにも時折名前が出てきます)。結局、イブン・マスウードはウスマーンに対して折れてイブン・マスウード版のクルアーンは消滅した……はずだった。ところが。
 イブン・アン=ナディームは10世紀バグダードの書籍商で種々の書籍を扱い『アル=フィフリスト』(目録の書)と呼ばれる書誌学の大著を物している人物で、文化史の研究をする上ではかならずぶち当たる人物です。その彼が『アル=フィフリスト』の中で、イブン・マスウード版のクルアーンを実見したと述べているのです。とは言えイブン・アン=ナディームは「イブン・マスウードのムスハフの写本と称するものを数多く見たが、どれ一つ互いに一致するものはなく、その多くが何度も削られた獣皮紙を使っていた。一度200年前に書かれたムスハフを見たが、それには開扉章があった。[情報を伝えている]ファドル・イブン・シャーザーンはクルアーンと伝承(ハディース)に関する権威の一人なので、我々自身が実見したことにもかかわらず、彼からの伝聞を記載した」*2と述べています。
 彼が見たのが偽作であるのかどうなのかは分かりませんが、仮にウスマーン版以前のものだとすれば、これもムスハフ成立の歴史についていろいろなことが分かるであろうという期待から、西洋の学者たちは血眼になって探していますが、未だ手がかりは杳として掴めていないのでありました。

 余談ですが、ウスマーン版のクルアーンの最初期のもの、特にウスマーンが所持したとされるものは、第二回十字軍の際にブーリー朝ダマスカス政権が士気高揚のために持ちだしたり*3、ティムールが中央アジアに持ち帰った伝承があったり*4、こちらにもいろいろと尾ひれが付いて伝えられているようです。

 いずれにせよ、どこまでが事実でどこからがただの虚構か、分かりかねる部分もありますが、聖典というのものはそれだけで様々な言説を纏う磁場を持っているのかもしれないなあ、 という話でした。

*1 The Qur'an Manuscript display 2015年11月28日閲覧
*2 小杉泰『『クルアーン』――語りかけるイスラーム』 p.44 より引用。
*3 Thomas Asbridge (2010) The Crusades pp.234-235
*4 大川玲子「ウズベキスタンのウスマーン写本―「世界最古」のクルアーン(コーラン)写本―」『国際学研究』37、2010年



 本稿の種本は小杉泰『『クルアーン』――語りかけるイスラーム』。古典入門シリーズ「書物誕生」の一冊。書物としてのクルアーンの成立などにも詳しい。
 イブン・アン=ナディームと『アル=フィフリスト』については日本語ではさしあたり清水和裕「イブン・ナディームの『目録』」。『イスラーム 書物の歴史』に収録されている。
 『アル=フィフリスト』そのものはBayard Dodgeの手による英訳がある。
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